日々の栞

本や映画について気ままに書く。理系の元書店員。村上春樹や純文学の考察や感想を書いていく

幾何学的な形の「坊っちゃんの塔」を見てきた

東京の飯田橋には東京理科大学がある。

理系の人なら知っているであろう有名な私立大学だ。

大学名に「理科」が入っているということで文系とは無縁な感じがするが、校内には文学にちなんだものがある。

 

それは「坊っちゃんの塔」だ。

 

下に実際の写真を貼っておこう。「坊っちゃん」と名前がついているので人の形でもしているのかなと思ったら、なんとも幾何学的なフォルム。さすが東京理科大学。

 

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その幾何学的な形状は、鏡映対称な一対の五面体「ペンタドロン」を最少単位の「個」とし、組み合わせて構成されているとのこと。もう何のことやら。

 

「坊っちゃん」という名前だが、由来は夏目漱石の小説『坊っちゃん』だ。

 

『坊っちゃん』とは、四国の中学に数学教師として赴任した純朴な青年「坊っちゃん」が、周囲に反撥し、ひと騒動を起こす話だ。主人公の反俗精神に貫かれた奔放な行動は、読者を虜にする。

実は東京理科大学と夏目漱石の『坊っちゃん』にはちょっとした関係性がある。その名前の由来は、夏目漱石 の小説「坊っちゃん」の主人公が東京理科大学の前身・東京物理学校を卒業した数学教師であったことにある。詳しい説明については塔の近くにあったプレートに記載されている。引用してみよう。

 


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このモニュメントの名称は、夏目漱石 の小説”坊ちゃん ”の主人公が、本学の前身の東京物理学校を卒業した数学教師であったことに由来します。主人公は、卒業後四国松山の中学に赴任して、反俗精神に貫かれた豪放磊落な熱血教師として描かれています。本学が明治の時代から”坊ちゃん”のような、人間味にあふれた実力ある理数系教師を多数輩出し、理学の普及に果たした役割を誇りにさらに未来に亘って脈々と継承していくことを期して、このモニュメントは建設されました。幾何学的な形状は鏡映対称な一対の五面体”ペンタドロン”を最少単位の”個”として、それらを組み合わせて構成されています。”個”の集積により、うねるように上昇する塔の形は、未来を生き抜く強いエネルギーの姿であり、そこに英知あふれる人々の無限の可能性を表現しています。

 

坊っちゃんといえば愛媛県のイメージがあったので、まさかこんなものが東京にあるとは思っても見なかった。

 

また、飯田橋の近くには文豪ともゆかりが深い神楽坂がある。

神楽坂には一度でもいいから住んでみたいなとも思う。

神楽坂だと「かもめブックス」という本屋がお勧めです。

 

 

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考察のお供に!村上春樹の解説本・評論書・研究書を紹介する!

村上春樹作品といえば謎に満ちたストーリーが特徴だろう。

村上春樹作品を読んでみたが、謎が多いために内容がよく分からないという人は多いのではないだろうか。また、村上春樹作品を色んな視点から読み解きたい、もっと深く読み解きたいという人も多いと思う。

そんな時に役に立つのが、研究者や文芸評論家が書いた研究本や解説本だ。数多くある村上春樹についての解説本・評論本・研究書の中でおすすめのものを紹介したい。

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夏目漱石の前期三部作と後期三部作って何?

夏目漱石といえば日本の国民的作家だ。

夏目漱石は『吾輩は猫である』や『坊っちゃん』、『三四郎』、『こころ』、『夢十夜』などの多くの名作を生み出した。特に『こころ』や『夢十夜』は高校の国語教科書にも載っているので、読んだことがある人は多いはずだ。少し前では千円札の肖像画としても描かれていた。

そんな国民的作家の夏目漱石だが、「前期三部作」と「後期三部作」と呼ばれる作品群があることをご存知だろうか?高校の国語の授業で聞いた人も多いかもしれない。

前期三部作」と「後期三部作」は、それぞれある特徴を持った夏目漱石の作品群のことをいう。

前期三部作『三四郎』、『それから』、『門』の3作品だ。

それに対し後期三部作『彼岸過迄』、『行人』、『こころ』の3作品だ。

それぞれ同時期に作られ、内容上の繋がりとある共通点を持つ作品たちだ。

この記事では、各三部作についての説明となぜ三部作として括られるようになったのか解説する。

 

 

 

前期三部作とは

前期三部作は、『三四郎』(1909年)、『それから』(1909年)、『』(1910年)の3作品だ。

この3作品はそれぞれ別々の物語で、登場人物も違う。けれども、ストーリーだけをみると話がつながっているように見える。また、都市化が進む東京における恋愛を描いたという点でもこの三作品は共通している。

三四郎』では、やわなインテリの三四郎が美禰子という美しい女性に翻弄される様子が描かれている。三四郎は美禰子に恋するのだけれども、別の男に美禰子を取られてしまう。

次の『それから』では、主人公があらゆるものを犠牲にして友人から妻を略奪する話が描かれている。

また、前期三部作の最後の『』では、他人の妻を略奪して結婚した男が、罪悪感を抱きながら暮らしていく様子が描かれている。これは『それから』の続編のように思える。

このように各作品は独立しているのだが、「好きな女性が他の男と付き合ってしまい失恋(三四郎)」し、その後「友人から女を略奪して結婚(それから)」するが、「略奪婚の罪悪感に苦しむ(門)」といったようにあたかもストーリーが連続しているように読めるのだ。

前期三部作はストーリー的につながっているように読めるので、読むなら『三四郎』→『それから』→『門』の順番に読むことをおすすめする。

次に前期三部作の詳細について軽く紹介しよう。

 

三四郎

夏目漱石の『三四郎』は、苦悩する若者が主人公の青春小説だ。やわなインテリが主人公の小説の祖でもある小説だ。。

『三四郎』のメインストーリーは、東京大学に入学するために三四郎が上京して、そこで知的な女性・美禰子に恋をするというものである。東京大学入学という点で、三四郎はインテリで、知識人予備軍だ。当時の大学進学率は今ほど高くない。三四郎はこの時代においては超がつくほどのスーパーエリートなのだ。

『三四郎』の舞台は近代化が急速に進む明治40年頃の東京。『三四郎』では文明開化によって変わる日本や、文明開化への批評が書き込まれている。三四郎は、現在でいうところの草食系男子だ。ヘタレ男子と言ってもいいかもしれない。

そんな草食系男子・三四郎が年上の魅力的な女性・美禰子に振り回されるのである。美禰子の振る舞いは思わせぶりで、三四郎を翻弄する。三四郎は美禰子に恋をするのだが、別の男に美禰子を取られてしまう。男には分からない女の謎が描かれている。ほろ苦い青春小説だ。

 

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それから

それから』は略奪婚を描いた作品だ。『三四郎』では失恋が描かれているが、『それから』では、失った女を取り戻す様子が描かれている。

主人公の代助は三千代のことを愛していながらも友人の平岡に譲った。しかし、三千代に再会したことで運命の歯車が狂い出す。代助は倫理を捨てて、愛を貫き三千代を平岡から略奪することを決心する。しかし、近代的自我に目覚め、正直に生きようとする代助を待ち受けていたのは大きな代償であった。

夏目漱石は、自由に生きることの代償を三角関係を通じて描き出した。倫理や道徳に背き、恋愛を選んだ代助に待ち受ける未来を示唆したラストシーンは残酷だ。 

 

 

『三四郎』、『それから』に続く夏目漱石の前期三部作が『』だ。『門』は略奪婚のその後を描いた小説だ。登場人物の繋がりはないが、まるで『それから』の続きの話のようだ。夏目漱石の小説って思ったよりドロドロしている。

主人公の野中宗助は、学生時代に親友の安井の内縁の妻・お米を奪い社会から追われた。宗介とお米は略奪婚の後、静かに暮らしていた。彼らは一見すると仲の良い夫婦だが、実際は過去の罪悪感を背負い込んで生きてきた。世間の倫理に背き、自分の気持ちに忠実に生きることの苦しさが描かれている。

『門』は理想的な夫婦愛を描いた小説とも読めるし、夫婦の亀裂を描いた小説としても読める。全体を通して、日常生活の裏に潜む人間存在の罪を描いた小説として読めるのではないかと思う。

 

 

 

後期三部作とは

夏目漱石の後期三部作は、『彼岸過迄』(1912年)、『行人』(1912年)、『こころ』(1914年)だ。

夏目漱石は『門』の執筆あたりで胃潰瘍を患ってしまった。この胃潰瘍が大変酷く、夏目漱石は危篤状態に陥った。これが「修善寺の大患」と呼ばれる事件である。この時に体験した一時的な「死」が、後期三部作に影響を与えることとなった

後期三部作も主人公が共通している訳ではない。前期三部作とは違って、後期三部作ではストーリーに関連性や繋がりがない。後期三部作はストーリー上の繋がりはないので、どの順番で読んでも良いと思う。

ではなぜ後期三部作と言われるのかというと、この三作品はテーマが共通しているからだ。そのテーマとは人間のエゴイズム知識人の苦悩だ。

彼岸過迄』では、自我に忠実にあろうとするが故の苦悩が描かれている。主人公の須永は千代子を恐れて結婚する気はなかったのだが、千代子に別の男性の影が見えると深い嫉妬にかられるのである。

行人』では、孤独化する知識人の苦悩する魂が主人公に重ねられて描かれている。いたのである。主人公の一郎は自分の妻を理解できず、弟に妻と一晩過ごすようにお願いする。

そして、『こころ』ではエゴに潜む罪を追究し、その解決に完全な自己否定である死を選んだことが描かれている。叔父に裏切られた「先生」が、自分も親友の「K」を裏切ってお嬢さんをとってしまったことに苦しみ悩み、最後には自死を選んでしまう。

このように後期三部作では、知識人たちが他者との関係の中で嫉妬に苦しみ、エゴイズムに悩まされる姿が描かれているのである。

 

 

彼岸過迄

内向的でヘタレな須永と、純粋な感情を持ち恐れるところなく行動する彼の従妹の千代子。『彼岸過迄』では、この二人の恋愛問題が主軸となっている。恋愛問題を主軸に、自意識をもてあます近代知識人の苦悩を描いている。

主人公・須永は千代子に結婚する気はないというのだが、千代子に別の男が現れると激しい嫉妬を示す。自我を頼りに生きる知識人・須永も他者への嫉妬という感情に振り回されているというのは、後期三部作のテーマである「知識人の苦悩」に繋がる。

 

 

行人

行人』は、「他の心」をつかめなくなった人間の寂寞とした姿を追究した作品だ。

主人公の一郎は、妻に理解されないばかりでなく、両親や親族からも距離を置かれている。主人公の一郎は大学教授で最高の知識人でもある。孤独に苦しみながらも、自我を棄てることができない一郎は、妻を愛しながらも、妻を信じることができなかった。

挙げ句の果てには、弟・二郎に対する妻の愛情を疑い、弟に自分の妻とひと晩よそで泊まってくれとまで頼んでしまう。

 

 

こころ

夏目漱石は一筋縄ではいかない恋愛小説を数多く残した。『こころ』もそのような恋愛小説の1つだ。

『こころ』は「友情をとるか、恋愛をとるか」という普遍的なテーマを扱った作品だ。高校の国語の教科書に掲載されていたので、読んだことある人は多いはず。先生と友人のKは一人の女性・静を巡って三角関係になる。「先生」は恋と友情との間で悩むのだが、最終的にはKを出し抜いて静との結婚を決めてしまう。叔父に裏切られた「先生」が、自分も親友の「K」を裏切ってお嬢さんをとってしまったことに苦悩する。

友情と恋愛の狭間で悩む先生の決断とKがとった行動は、自由に恋愛することの代償を突きつけてくる。先生の「しかし、しかし君、恋は罪悪ですよ。 わかっていますか?」という台詞は心に深く突き刺さる。

『こころ』は自分を過信し、他人を疑うことをやめられない知識人の自我のあり方を問うている。また、近代人の我執とそれに気づいた先生の苦悩の話でもある。

 

 

以上、夏目漱石の前期三部作・後期三部作の紹介でした。

 

 

最後に、夏目漱石の各作品への理解を深める参考図書を紹介したい。

初心者向けとしては、石原千秋の『漱石入門』がおすすめだ。石原千秋は夏目漱石研究の第一人者として有名だ。

 

また同じく石原千秋の『漱石はどう読まれてきたか』という本もおすすめだ。

こちらの本では、夏目漱石の作品について独創的な解釈を提示した論文を数多く紹介している。時代の変遷とともに夏目漱石がどう読まれてきたかが分かる良書だ。これを読めば漱石作品への理解が深まるはずだ。

 

 

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かけがえのない他人を求めて / 「N/A」 年森 瑛

年森瑛「N/A」は、安易なカテゴライズを嫌い、何ものにも該当しない純粋な関係性を希求した小説だ。「彼氏」ではなく「かけがえのない他人」を求めていた。

「N/A」は文學界新人賞を受賞したデビュー作で、選考委員が満場一致で受賞を決定したという話題作でもある。もちろん芥川賞候補にもなった。あんまり単行本化しないことで有名な文學界新人賞だが、「N/A」は芥川賞候補作が発表される前に単行本化が決定している。これからも文藝春秋の力の入れようが分かるだろう。

タイトルにもなっている「N/A」とは、該当なしを意味する “Not Applicable”、または、無効を意味する “Not Available” を意味する略号のことだ。

主人公の松井まどかは、「N/A(該当なし)」というタイトルのように、安易にカテゴライズされることを拒んでいる。まどかは既存の分類や気遣いの定型句に苛立ちを隠さない。まどかは「彼氏」ではなく「かけがえのない他人」を求めていた。

人は何でもかんでも分類したがると歌ったのはSEKAI NO OWARIの「Habit」だが、「N/A」で描かれているのは安易なカテゴライズへの違和感だ。

この記事では、「N/A」について考察・解説していきたい。

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母から娘に与えられたもの / 「ギフテッド」 鈴木 涼美

鈴木涼美の「ギフテッド」はキャバクラや風俗など「夜の街」に生きる女性たちを圧倒的なリアリティで描き、母と娘の関係性をテーマにした王道の純文学作品。第167回芥川賞の候補作品にもノミネートされている。

 

鈴木涼美は、『「AV女優」の社会学』、『体を売ったらサヨウナラ』などの著作で知られている。読んだことがある人も多いんじゃないだろうか。「ギフテッド」は鈴木涼美の小説デビュー作である。デビュー作品とは思えないぐらい完成度が高い。文体は装飾がなく、荒涼とした主人公の内面を描写するのにぴったりだと思う。

 

「ギフテッド」のあらすじを簡単に説明すると、歓楽街のビルに暮らすホステスの「私」が、死に場所を求めてやってきた母を看病し始めるという話だ。母はシングルマザーとして「私」を産み育てるかたわら数冊の詩集を出していたが、詩人として大成することはなかった。「私」には子どもの頃に母から受けた火傷の傷があった。「私」は入院中の母に向き合う中で、母の秘密を知るようになる。

 

この記事では、「なぜ母は娘に火傷のアザをつけたのか?」、「タイトルの「ギフテッド」とは何を意味しているのか?」という点に焦点を置いて考察・解説していきたい。内容に触れて考察しているので未読の人はネタバレ注意。

 

 

 

母と娘の微妙な関係性

歓楽街に暮らす「私」の元に、死に場所を求めて母が転がり込んでくる。母は妻子がいる演出家と恋に落ち、「私」を身籠った。母はシングルマザーとして「私」を産み育てるかたわら数冊の詩集を出していたが、詩人として大成することはなかった。

 

母と娘の間には微妙な距離感があった。その原因の1つが「私」の腕にある火傷の痕だ。

「私」は、子どもの頃に母からタバコを腕に押し当てられ、腕に火傷のアザが残っていた。「私」はそのアザを隠すようにタトゥーを彫っている。

「私」はなぜ母がタバコを腕に押し当てたのか理解できずにいた。母は「私」を殴ることもなかったし、虐待することもほとんどなかった。タバコだけが例外だったのだ。

この小説は、夜の街に生きる人々を描きながら「なぜ母は娘に火傷のアザをつけたのか?」という謎を中心に進んでいく。

 

 

「夜の街」と身体の商品性

「ギフテッド」の舞台は歓楽街といった「夜の街」だ。おそらく歌舞伎町あたりだろう。

「ギフテッド」の登場人物たちは「夜の街」に生きている。例えば、「私」はキャバクラで働いており、友人はソープやデリヘルで働いている。「私」は17歳の時に家を出て、夜の街で働くようになった。ある友人は体を売り続け、最後には自殺してしまった。友人を失った喪失感や諦念がこの小説では漂っている。

「夜の街」では、女性の身体に値札がつけられる。自分の身体の商品性に対して登場人物たちはそれぞれの道を選ぶ。商品性を活かしソープで働く友達、デリヘル・SMと死ぬまで体を売り続けた友人とその選択肢は様々だ。

身体の商品性」というのがこの作品を読み解く上での1つのキーワードだと思う。

「私」の母は自らの商品性を拒むことができなかった。これが火傷のアザに繋がっていくのだ。

 

 

なぜ母は娘に火傷のアザをつけたのか?

「私」の母は自分の商品性を拒むことができなかった。その事実は、母が入院してる病院を訪れた男性によって明かされた。

母は昔キャバレーのようなところで際どい格好をして歌を歌う仕事をしていた。母は美しく、男が好むような体つきだった。しかし、母は自分に誇りを持っていて、体を売るようなことはしなかったのだ。

だが、シングルマザーでの生活を支えるためにはお金が必要だった。母はキャバレーでのファンの男にパトロンになってもらうことで生活費を稼いでいたのだ。金銭の授受による男女の関係があったのだろう。母は自分の体が持つ商品性を拒むことができなかった。

この事実が明かされることにより、「私」は母がなぜ娘に火傷の跡を残したのか理解したのだ。

 

パトロンだった男は昔の母についてこう語っている。

 

「カウンターで飲んだ時に、もう一人の歌い手のことを、店の偉い人の愛人だ、と悪態をついていたんですよ。だから舞台に立たせてもらえるんだ、と。そしてその子が自分よりずっと上品な格好で歌っているのは、歌の実力なんかではなく、実は背中に醜いアザがあるからなんだ、と力を込めて言っていたよ。男に賞賛される方が損をする。男は綺麗な女を見せびらかして、醜い女をこっそり愛するんだ。って、これはお母さん独自の見解でしたけど」

 

母はおそらく体の商品性を拒絶できなかった自分のようになってほしくなくて、娘にあざを残したのだろう。虐待ではなく、娘の体の商品性を下げるために。醜い体の方がある意味では生きやすくなるからだ。

実際、「私」はアザが原因か、体を売るような仕事にはついていない。

 

 

 

タイトルの「ギフテッド(gifted)」とは何を意味しているのか?

ここまで説明すれば、タイトルの「ギフテッド」の意味もわかるだろう。

ギフテッドを英語で書くとgiftedとなる。形容詞としてのgiftedは「才能がある」という意味だが、この小説ではgiftの過去分詞と捉えた方が良いだろう。与えられたという意味だ。

この小説における「ギフテッド(gifted)」とは、「私」の火傷の痕のことだろう。母から娘へのギフト、それが火傷の意味だった。娘には体の商品性を拒絶してほしくて母は火傷の痕を残したのだろう。

「ギフテッド」は、母が娘に贈った火傷の意味が娘に伝わる物語だったのだ。

 

 

ドアの音とラストシーンのカタルシス

「ギフテッド」ではドアの音が印象付けられて描写されている。ドアの音が何かを暗示するかのように冒頭から強調されているのだ。冒頭を引用してみよう。

 

階段を登り切ると再び廊下に続く重たい扉があり、そこに体重をかけて一定以上の幅まで開いたときに鳴る金属の軋むような音を必ず鳴らして、ゆっくり閉まりきる前に今度は自分の部屋のドアの錠に鍵を差し込み左側に回して鍵の開く音を聞く。夜ごと、この二つの音を聞いて帰ってくる。その、扉の蝶番が軋んで鳴る音と、古いピンシリンダーキーの回転の途中で鳴る音の間隔が、長すぎても短すぎても安心感がない。

 

『ギフテッド』では、「扉の蝶番が軋んで鳴る音」と、「古いピンシリンダーキーの回転の途中で鳴る音」が何度も描写される。この音に何かあるんじゃないかなと思った方も多いだろう。

この音だが、ラストシーンで綺麗に回収される。

「私」は母が書き残していたノートを開き、「ドア」と題された詩を見つける。

 

私が病院に送っていた日付が近づき、タイトルのついたページがあった。題名らしき文字は片仮名でドアとある。
ーもうすぐ夜がやってきます

ーいいですか?
空白の数行が空き、残り三行が続いていた。私は読みながら、二の腕の後ろを何度も何度も撫でていた。あれだけ気になっていた凹凸が、今度は急速に指の腹で見当たらず、もうそこには腫れも窪みもないように思えた。皮膚にあたり、わずかな音を立てる火のイメージを膨らませても、以前のような疼きは起こらない。

ードアがバタリとしまりますよードアがしまるとき、かいせつは  いりません
ーできれば、しずかにしまるといい。

 

「ギフテッド」のラストシーンはカタルシスに満ちて印象的だ。

 

栞の一行

男に賞賛される方が損をする。男は綺麗な女を見せびらかして、醜い女をこっそり愛するんだ。

 

 

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第167回芥川龍之介賞の受賞作品を予想する!

7/20に選考会が開催され、第167回芥川賞の受賞作が発表される。

それに先立って、どの作品が芥川賞を受賞するのか予想したい!

 

芥川賞を簡単に説明すると、新人作家の純文学作品に与えられる文学賞だ。文学賞の中で一番知名度がある賞だろう。純文学というと定義が難しいのだけれど、芥川賞に限っていえば、「文學界」・「新潮」・「群像」・「すばる」・「文藝」の五大文芸誌に掲載された作品が候補の対象となる。候補の作品となる小説の長さは中編程度が多い。

芥川賞の選考委員は小川洋子、奥泉光、川上弘美、島田雅彦、平野啓一郎、堀江敏幸、松浦寿輝、山田詠美、吉田修一の9名だ。

 

今回の候補作は以下のの5作品だ。

 

小砂川チト「家庭用安心坑夫」(群像 6月号)

鈴木涼美「ギフテッド(文學界 6月号)

高瀬隼子「おいしいごはんが食べられますように」(群像 1月号)

年森瑛「N/A(文學界 5月号)

山下紘加「あくてえ」(文藝 夏号)

 

今回の芥川賞だが、167回の歴史の中で候補作がオール女性なのは初めてだそうだ。

性別といった作家の属性が作品の評価に関係するとは思わないので、この事実に関しては1ミリも関心はないのだけれど、1つ気になることがあった。年森瑛さんは確か性別を公表してなかったはずだ。それなのに「候補作が全て女性」と言うためだけに性別を公表したのだとしたらそれはどうなんだろうと思う。「女性」や「LGBTQ」といった安易なカテゴライズに意義を唱えた「N/A」が候補作なのは皮肉だなと感じる。

 

まあ、それはさて置いて作品の内容に触れながら芥川賞の受賞作を予想していこうと思う。

今回の作品は内容が分かりやすい作品が多い印象だった。親子の関係を描いた作品や同調圧力に反抗するような内容の作品が多いように感じた。

以下では各候補作品の内容についてネタバレしているので、未読の人はご注意ください。

 

 

 

小砂川チト「家庭用安心坑夫」(群像6月号)

小砂川チトの「家庭用安心坑夫」は、「ツトム」というマネキンが登場する幻想小説だ。「家庭用安心坑夫」は、群像文學新人賞を受賞した小砂川チトのデビュー作で、芥川賞には初めてのノミネートとなる。「家庭用安心坑夫」というタイトルは今回の候補作の中で一番インパクトがある。

主人公の藤田小波は街中で「ツトム」と言うマネキンを見かけるようになる。その「ツトム」は、過去にお母さんから「お前の父親だ」と言われていたマネキンだった。この小説はリアリズム小説ではなく、小波の妄想が現実を侵食していく幻想小説だ。

マネキンの「ツトム」は、小波の日常生活にたびたび登場し、平穏な暮らしに波紋を広げていく。「ツトム」との思い出を振り返る中で、母との関係性を思い出すことになる。このツトムこそが小波にとっての「安心坑夫」だった。

辛い現実に対抗するために妄想で固めた世界に住む「小波」が、現実に向き合う小説でもある。現実に向き合った結果、妄想で固めた世界が崩壊する様は見事だった。群像新人賞の選評にあったように、「マイナスからゼロに至る成長小説」だ。

今回の候補作品の中では一番ぶっ飛んでいて企みに満ちた作品だったと思う。

 

 

 

鈴木涼美「ギフテッド」(文學界 6月号)

ギフテッド」は鈴木涼美の小説デビュー作だ。鈴木涼美は、『「AV女優」の社会学』、『体を売ったらサヨウナラ』などの著作で知られている。

「ギフテッド」は、歓楽街のビルに暮らすホステスの「私」が、死に場所を求めてやってきた母を看病し始めるという話だ。母はシングルマザーとして「私」を産み育てるかたわら数冊の詩集を出していたが、詩人として大成することはなかった。

「私」には子どもの頃に母から受けた火傷の傷があった。「私」は母に向き合う中で、母の秘密を知るようになる。冒頭から重点的に描かれているドアの音を最後に回収する点にはハッとさせられた。

また、「ギフテッド」はキャバクラや風俗など「夜の街」に生きる女性たちを圧倒的なリアリティで描いた点も特徴だ。「夜の街」では、女性の体に値札をつけられる。自分の身体の商品性に対して登場人物たちはそれぞれの道を選ぶ。商品性を活かしソープで働く友達、デリヘル、SMと死ぬまで体を売り続けた友人とその選択肢は様々だ。

身体の商品性」というのがこの作品を読み解く上での1つのキーワードだと思う。

「私」の母は自分の商品性を拒むことができなかった。母は金持ちの男に体を売ることで生活を支えていたのだ。この事実が明かされることによって母がなぜ娘に火傷の跡を残したのかが判明するような構成になっている。

母はおそらく体の商品性を拒絶できなかった自分のようになってほしくなくて、娘にあざを残したのだろう。娘の体の商品性を下げるために。このアザこそが母から娘にギフテッドされた(gifted)ものだったのだろう。

冒頭から重点的に描かれているドアの音を母の詩で最後に回収する点にはカタルシスを感じた。

夜の街に生きる娘と母の関係性を描いた「ギフテッド」だが、候補作の中では一番王道の純文学だった。ラストシーンのカタルシスも全ての候補作で一番だったと思う。

 

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高瀬隼子「おいしいごはんが食べられますように」(群像 1月号)

高瀬隼子の「おいしいごはんが食べれますように」は、食べることへの違和感を描いた作品だ。高瀬隼子は「水たまりで息をする」に続いて、2回目の芥川賞ノミネートになる。

この小説の面白いところは、主人公の二谷が「おいしいごはんが食べれますように」とは1ミリも思っていないところだ。この小説では二谷と、職場の・芦川、押尾という二人の女性との奇妙な三角関係が描かれている。芦川はよく体調を崩し、その仕事をフォローするのは二谷と押尾だった。けれども、気遣いされるのは芦川ばかりで、押尾はやるせない思いを抱えていた。一方、二谷は芦川と付き合っていたのだが、どうしても相容れない点があった。それは食へのこだわりだ。芦川は美味しい料理が好きで自分でも料理をよく作り振る舞っていた。それに対して二谷は食事をエネルギー補給ぐらいにしか思っておらず、コンビニ飯やカップ麺があるのだからわざわざご飯を作らなくてもいいんじゃないかと思っている。

この小説で描かれているのは、食事への違和感だ。「美味しい食事を食べるのが一番」、「人と一緒に食べる食事は美味しい」といった世間的な共通認識に中指を立て、世間の同調圧力に異義を唱えている。

 

 

 

年森瑛「N/A」(文學界 5月号)

N/A

N/A

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今回の芥川賞候補作の中で一番の話題作が、年森瑛「N/A」だと思う。今年度の文學界新人賞を受賞した小説だ。しかも選考委員が満場一致で受賞を決定したという話題作だ。芥川賞候補作が発表される前に単行本化が決定している点からも文藝春秋の力の入れようが分かる。

人は何でもかんでも分類したがると歌ったSEKAI NO OWARIの「Habit」が流行っているが、「N/A」で描かれているのは安易なカテゴライズへの違和感だ。主人公の松井まどかは、女子校に通う高校生だ。まどかには「うみちゃん」と言う彼女がいる。まどかは「LGBT」と言うカテゴライズに違和感を覚え嫌っているのだが、周囲にはそういうカテゴライズをされてしまう。まどかは世間的に正しいとされる紋切り型の言い回しが好きではなかった。

しかし、友人の祖父が新型コロナにかかってしまった時には、まどかは当たり障りのない言葉をGoogle で検索し、自分の言葉で友人に語りかけることができずにいた。

この作品には、世間で氾濫する様々なカテゴライズが登場する。私たちはそのカテゴライズには従い、世間的に正しいとされる言葉を探し、喋ってないだろうか?

自分自身の言葉で語っていますかと問いかけているかのような内容だ。この作品は芥川賞の大本命だと思っている。

 

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山下 紘加「あくてえ」(文藝 夏号)

あくてえ

あくてえ

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山下紘加の「あくてえ」は、90歳の憎たらしいばばあと母親と暮らすゆめの過酷な日常を描いた作品だ。山下紘加は、『ドール』で第52回文藝賞を受賞しデビュー。著書に『クロス』『エラー』などがある。山下紘加は芥川賞初ノミネートだ。

タイトルにもなっている「あくてえ」とは、「悪口や悪態といった意味を指す甲州弁」のことだ。主人公の「ゆめ」は、小説家志望の女性で、90歳の祖母と母親の沙織と3人暮らしをしている。「ゆめ」は祖母に「あくてえ」をついている。祖母もなかなか強烈なキャラクターをしていて、かなり頑固なBBAとして描かれている。

 

 

 

個人的な芥川賞受賞予想

僕の芥川賞の受賞作予想だが、年森瑛「N/A」の単独受賞と予想。安易なカテゴライズへの違和感を描いた点が、世相を反映しているとして受賞につながるのではと思った。

年森瑛「N/A」と高瀬隼子「おいしいごはんが食べられますように」でかなり迷った。

次点として高瀬隼子「おいしいごはんが食べられますように」かな。

ダークホースだが、妄想と現実が入り混じる独特の小説世界を作り上げた小砂川チト「家庭用安心坑夫」を推したい。

 

本命:年森瑛「N/A」

次点:高瀬隼子「おいしいごはんが食べられますように」

ダークホース:小砂川チト「家庭用安心坑夫」

 

芥川賞の選考会は毎度おなじみ東京・築地の料亭で7月20日に行われ、受賞作が決定する。

果たして予想は当たるのか?

栄光はどの作品に!

語りによるトラウマの克服 / 「土の中の彼女の小さな犬」 村上 春樹

土の中の彼女の小さな犬」は、『中国行きのスロウ・ボート』に収録されている村上春樹の短編小説だ。この小説では、自らの「トラウマ」を語ることによって「トラウマ」に向き合い、回復する過程が描かれている。

村上春樹にしてはオーソドックスなプロットになっていて分かりやすい小説だなと思う。

自らのトラウマを語り、トラウマから解放されるという構造は「七番目の男」といった他の村上春樹作品にもみられる。

主人公の「僕」は、彼女がトラウマから回復するのを助けるような役割を負っている。それだけでなく、「僕」自身も彼女との交流を通じて自らの人間関係に向き合おうとするのだ。

それでは「土の中の彼女の小さな犬」について考察・解説していこうと思う。

 

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