日々の栞

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夏目漱石の前期三部作と後期三部作って何?

夏目漱石といえば日本の国民的作家だ。

夏目漱石は『吾輩は猫である』や『坊っちゃん』、『三四郎』、『こころ』、『夢十夜』などの多くの名作を生み出した。特に『こころ』や『夢十夜』は高校の国語教科書にも載っているので、読んだことがある人は多いはずだ。少し前では千円札の肖像画としても描かれていた。

そんな国民的作家の夏目漱石だが、「前期三部作」と「後期三部作」と呼ばれる作品群があることをご存知だろうか?高校の国語の授業で聞いた人も多いかもしれない。

前期三部作」と「後期三部作」は、それぞれある特徴を持った夏目漱石の作品群のことをいう。

前期三部作『三四郎』、『それから』、『門』の3作品だ。

それに対し後期三部作『彼岸過迄』、『行人』、『こころ』の3作品だ。

それぞれ同時期に作られ、内容上の繋がりとある共通点を持つ作品たちだ。

この記事では、各三部作についての説明となぜ三部作として括られるようになったのか解説する。

 

 

 

前期三部作とは

前期三部作は、『三四郎』(1909年)、『それから』(1909年)、『』(1910年)の3作品だ。

この3作品はそれぞれ別々の物語で、登場人物も違う。けれども、ストーリーだけをみると話がつながっているように見える。また、都市化が進む東京における恋愛を描いたという点でもこの三作品は共通している。

三四郎』では、やわなインテリの三四郎が美禰子という美しい女性に翻弄される様子が描かれている。三四郎は美禰子に恋するのだけれども、別の男に美禰子を取られてしまう。

次の『それから』では、主人公があらゆるものを犠牲にして友人から妻を略奪する話が描かれている。

また、前期三部作の最後の『』では、他人の妻を略奪して結婚した男が、罪悪感を抱きながら暮らしていく様子が描かれている。これは『それから』の続編のように思える。

このように各作品は独立しているのだが、「好きな女性が他の男と付き合ってしまい失恋(三四郎)」し、その後「友人から女を略奪して結婚(それから)」するが、「略奪婚の罪悪感に苦しむ(門)」といったようにあたかもストーリーが連続しているように読めるのだ。

前期三部作はストーリー的につながっているように読めるので、読むなら『三四郎』→『それから』→『門』の順番に読むことをおすすめする。

次に前期三部作の詳細について軽く紹介しよう。

 

三四郎

夏目漱石の『三四郎』は、苦悩する若者が主人公の青春小説だ。やわなインテリが主人公の小説の祖でもある小説だ。。

『三四郎』のメインストーリーは、東京大学に入学するために三四郎が上京して、そこで知的な女性・美禰子に恋をするというものである。東京大学入学という点で、三四郎はインテリで、知識人予備軍だ。当時の大学進学率は今ほど高くない。三四郎はこの時代においては超がつくほどのスーパーエリートなのだ。

『三四郎』の舞台は近代化が急速に進む明治40年頃の東京。『三四郎』では文明開化によって変わる日本や、文明開化への批評が書き込まれている。三四郎は、現在でいうところの草食系男子だ。ヘタレ男子と言ってもいいかもしれない。

そんな草食系男子・三四郎が年上の魅力的な女性・美禰子に振り回されるのである。美禰子の振る舞いは思わせぶりで、三四郎を翻弄する。三四郎は美禰子に恋をするのだが、別の男に美禰子を取られてしまう。男には分からない女の謎が描かれている。ほろ苦い青春小説だ。

 

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それから

それから』は略奪婚を描いた作品だ。『三四郎』では失恋が描かれているが、『それから』では、失った女を取り戻す様子が描かれている。

主人公の代助は三千代のことを愛していながらも友人の平岡に譲った。しかし、三千代に再会したことで運命の歯車が狂い出す。代助は倫理を捨てて、愛を貫き三千代を平岡から略奪することを決心する。しかし、近代的自我に目覚め、正直に生きようとする代助を待ち受けていたのは大きな代償であった。

夏目漱石は、自由に生きることの代償を三角関係を通じて描き出した。倫理や道徳に背き、恋愛を選んだ代助に待ち受ける未来を示唆したラストシーンは残酷だ。 

 

 

『三四郎』、『それから』に続く夏目漱石の前期三部作が『』だ。『門』は略奪婚のその後を描いた小説だ。登場人物の繋がりはないが、まるで『それから』の続きの話のようだ。夏目漱石の小説って思ったよりドロドロしている。

主人公の野中宗助は、学生時代に親友の安井の内縁の妻・お米を奪い社会から追われた。宗介とお米は略奪婚の後、静かに暮らしていた。彼らは一見すると仲の良い夫婦だが、実際は過去の罪悪感を背負い込んで生きてきた。世間の倫理に背き、自分の気持ちに忠実に生きることの苦しさが描かれている。

『門』は理想的な夫婦愛を描いた小説とも読めるし、夫婦の亀裂を描いた小説としても読める。全体を通して、日常生活の裏に潜む人間存在の罪を描いた小説として読めるのではないかと思う。

 

 

 

後期三部作とは

夏目漱石の後期三部作は、『彼岸過迄』(1912年)、『行人』(1912年)、『こころ』(1914年)だ。

夏目漱石は『門』の執筆あたりで胃潰瘍を患ってしまった。この胃潰瘍が大変酷く、夏目漱石は危篤状態に陥った。これが「修善寺の大患」と呼ばれる事件である。この時に体験した一時的な「死」が、後期三部作に影響を与えることとなった

後期三部作も主人公が共通している訳ではない。前期三部作とは違って、後期三部作ではストーリーに関連性や繋がりがない。後期三部作はストーリー上の繋がりはないので、どの順番で読んでも良いと思う。

ではなぜ後期三部作と言われるのかというと、この三作品はテーマが共通しているからだ。そのテーマとは人間のエゴイズム知識人の苦悩だ。

彼岸過迄』では、自我に忠実にあろうとするが故の苦悩が描かれている。主人公の須永は千代子を恐れて結婚する気はなかったのだが、千代子に別の男性の影が見えると深い嫉妬にかられるのである。

行人』では、孤独化する知識人の苦悩する魂が主人公に重ねられて描かれている。いたのである。主人公の一郎は自分の妻を理解できず、弟に妻と一晩過ごすようにお願いする。

そして、『こころ』ではエゴに潜む罪を追究し、その解決に完全な自己否定である死を選んだことが描かれている。叔父に裏切られた「先生」が、自分も親友の「K」を裏切ってお嬢さんをとってしまったことに苦しみ悩み、最後には自死を選んでしまう。

このように後期三部作では、知識人たちが他者との関係の中で嫉妬に苦しみ、エゴイズムに悩まされる姿が描かれているのである。

 

 

彼岸過迄

内向的でヘタレな須永と、純粋な感情を持ち恐れるところなく行動する彼の従妹の千代子。『彼岸過迄』では、この二人の恋愛問題が主軸となっている。恋愛問題を主軸に、自意識をもてあます近代知識人の苦悩を描いている。

主人公・須永は千代子に結婚する気はないというのだが、千代子に別の男が現れると激しい嫉妬を示す。自我を頼りに生きる知識人・須永も他者への嫉妬という感情に振り回されているというのは、後期三部作のテーマである「知識人の苦悩」に繋がる。

 

 

行人

行人』は、「他の心」をつかめなくなった人間の寂寞とした姿を追究した作品だ。

主人公の一郎は、妻に理解されないばかりでなく、両親や親族からも距離を置かれている。主人公の一郎は大学教授で最高の知識人でもある。孤独に苦しみながらも、自我を棄てることができない一郎は、妻を愛しながらも、妻を信じることができなかった。

挙げ句の果てには、弟・二郎に対する妻の愛情を疑い、弟に自分の妻とひと晩よそで泊まってくれとまで頼んでしまう。

 

 

こころ

夏目漱石は一筋縄ではいかない恋愛小説を数多く残した。『こころ』もそのような恋愛小説の1つだ。

『こころ』は「友情をとるか、恋愛をとるか」という普遍的なテーマを扱った作品だ。高校の国語の教科書に掲載されていたので、読んだことある人は多いはず。先生と友人のKは一人の女性・静を巡って三角関係になる。「先生」は恋と友情との間で悩むのだが、最終的にはKを出し抜いて静との結婚を決めてしまう。叔父に裏切られた「先生」が、自分も親友の「K」を裏切ってお嬢さんをとってしまったことに苦悩する。

友情と恋愛の狭間で悩む先生の決断とKがとった行動は、自由に恋愛することの代償を突きつけてくる。先生の「しかし、しかし君、恋は罪悪ですよ。 わかっていますか?」という台詞は心に深く突き刺さる。

『こころ』は自分を過信し、他人を疑うことをやめられない知識人の自我のあり方を問うている。また、近代人の我執とそれに気づいた先生の苦悩の話でもある。

 

 

以上、夏目漱石の前期三部作・後期三部作の紹介でした。

 

 

最後に、夏目漱石の各作品への理解を深める参考図書を紹介したい。

初心者向けとしては、石原千秋の『漱石入門』がおすすめだ。石原千秋は夏目漱石研究の第一人者として有名だ。

 

また同じく石原千秋の『漱石はどう読まれてきたか』という本もおすすめだ。

こちらの本では、夏目漱石の作品について独創的な解釈を提示した論文を数多く紹介している。時代の変遷とともに夏目漱石がどう読まれてきたかが分かる良書だ。これを読めば漱石作品への理解が深まるはずだ。

 

 

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