日々の栞

本、映画、ファッションについて気ままに書く。理系の元書店員。

第165回芥川龍之介賞の候補作まとめと受賞作の予想

第165回芥川龍之介賞の候補作が発表された!

 

7月と言えばそう、芥川賞発表の季節ですね。

今回の候補作品は偶然か必然か東日本大震災をテーマにした作品が多くノミネートされている。様々な視点から震災を振り返った作品だ。

候補者を見てみると、今回初めて芥川賞にノミネートされたのが石沢麻衣、くどうれいん、高瀬隼子の三名。2回目のノミネートが千葉雅也、李琴峰の2名。候補者のうち4名が女性というのはなかなか珍しいのではないかと思う。

また、今回は芥川賞発表前に候補作がすべて単行本化されている。芥川賞発表前になると、候補作が載った文芸誌が入手しずらくなるので、今回は全部読み比べて受賞者予想もしやすいのでは。

 

今回は芥川賞候補にノミネートされた小説と作家についてざっくり紹介したいと思います。

 

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小説の読解の参考に!文学の読み方が分かる文学読解本まとめ

川端康成大江健三郎のような文学作品だと読解が難しく内容がよく分からないという人は多いのではないだろうか。また、文学作品を色んな視点から読み解きたい、もっと深く読み解きたいという人も多いのだろうではないか。または、受験のために小説が読み解けるようになりたいという人もいるだろう。

学校での国語の授業では、小説の読み方というのを詳しくは教えてもらえない。僕自身、独学で勉強して小説の読み方を学んできた。独学で勉強した時に参考になった本を紹介したい。

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梅雨の季節・ノルウェイの森・雨の中の庭

梅雨の季節になった。じめじめするのが嫌な季節だ。だけど、雨というのはなんだか風情がある。

 

 

 雨が印象的な小説というと、村上春樹ノルウェイの森』が思い浮かぶ。あの小説には、暗くて重い雨雲が垂れ込めて、しっとりとした雨が降り続いているみたいなイメージがある。あの作品自体が暗く重たい雨雲に覆われているような印象がある。

 

冒頭のシーンや直子とのシーンなど、印象的なシーンには雨が降っているような印象がある。

 

ノルウェイの森』の最初のタイトル案は『雨の中の庭』だったらしい。「雨の中の庭」というタイトルはドビュッシーの楽曲から来ているそう。だから、『ノルウェイの森』の雨のシーンが印象的なのは必然なのか。

 

 

あと1つ雨が印象的な小説をあげると『言の葉の庭』だ。アニメ映画のノベライズだ。雨の中の新宿御苑はとても叙情的で美しい。雨の中の新宿御苑を歩いてみたい。

 

雨が印象的な絵画を考えてみるとルノワールの雨傘が思い浮かぶ。印象派の技法と写術的な技法が入り混じった作品だ。ルノワール印象派とは異なる技法を追い求めてこの絵を描いたのだろうか。

 

日本の漫画では、雨は線で描いているけれど、これは日本だけの表現なのかな。

梅雨に読みたい!雨が印象的に描かれる小説まとめ

梅雨の時は外に出かけにくく、家の中で過ごすことが多いだろう。そんな時は、雨が降るのを眺めながら読書に耽るのが趣があって素敵だと思う。梅雨時に読みたい、雨が印象的な小説を紹介したい。

 

 

ノルウェイの森』 / 村上 春樹

 村上春樹の代表作『ノルウェイの森』は、雨のシーンが印象的な小説だ。重要なシーンではよく雨が降っていて、喪失感漂う内容と相まって『ノルウェイの森』という作品自体が暗く重たい雨雲に覆われているような印象がある。

ノルウェイの森』は、ワタナベと直子、緑の関係を描いた恋愛小説だ。喪失と再生が重要なテーマの1つとなっていて、ワタナベは生と死の間で揺れ動く。

冒頭のハンブルグ空港に着陸するシーンでは暗く重たい雨雲に覆われていて、主人公のワタナベと直子が逢瀬を重ねるシーンでも雨が印象的に描かれている。

ちなみに、『ノルウェイの森』はもともと「雨の中の庭」というタイトルで書き始められた。「雨の中の庭」というタイトルはドビュッシーの楽曲から来ているそう。だから雨のシーンが印象的なのは必然なのか。

 

 

「傘を探す」 / 佐藤 正午 

雨の日に傘をどこか忘れてしまったことがある人は多いだろう。「傘を探す」という小説はは、どこかに置き忘れてしまった傘を求めて主人公が夜の街を彷徨う話だ。小説巧者として定評のある佐藤正午が書く、夜の街での会話は面白くストーリーに引き込まれていく。傘を探すと同時に、女との関係性を考え直す話でもある。

 

 

『驟雨』 / 吉行 淳之介

驟雨というのは、急に降り出す雨、いわばにわか雨のことだ。この驟雨が印象的なのが、タイトル通り吉行淳之介の『驟雨』だ。『驟雨』は、娼婦に恋をしてしまった男の話だ。主人公の山村は、最初は性のはけ口としか見れなかった娼婦・道子にだんだん愛情を抱くようになってしまう。繊細な心理描写と、驟雨の描写が合間って切ない読後感を残す。

 

 

言の葉の庭』 / 新海 誠 

言の葉の庭』は、雨の中の新宿御苑が印象的な小説だ。著者はアニメーション映画監督の新海誠。繊細な情景描写で知られる新海作品は、主人公の心情を叙情的に描くのがうまい。『言の葉の庭』は、人生のエアポケットに落ち込んでしまった女教師と靴職人になることを夢見ている高校生との淡い恋愛を雨で彩った映画・小説だ。やっぱり雨の描写は繊細さや切なさを強く描写するなと思う。

 

 

天気の子 / 新海 誠 

『天気の子』は異常気象をモチーフとした新海誠作品だ。雨が降りしきる東京で、家出少年・帆高と100%の晴れ女・陽菜の邂逅を描いた作品だ。晴れ女の能力を活かして、天気を晴れにするビジネスに取り組む帆高と陽菜だったが、待ち受けていたのは過酷な運命だった。東京に降りしきる雨は、これから日本がたどる運命を象徴しているようにも思える。

 

 

『死神の精度』 / 伊坂 幸太郎 

晴れ女繋がりで、次に紹介するのは雨男の話。伊坂幸太郎『死神の精度』は、雨男の死神が登場する小説だ。死期が近づいた人の前に現れる死神・千葉。クールだがどこかズレている死神・千葉が人間界に現れる日は決まって雨だった。死を目の前にした時人はどうするのだろう?降りしきる雨は死者への手向けのように思える。

 

 

『雨のなまえ』 / 窪 美澄 

『雨のなまえ』は、妻が妊娠中に不倫する夫、パート先のアルバイト学生に焦がれる中年の主婦、不釣り合いな美しい女と結婚したサラリーマン、など満たされない現実に思い悩む人々を描いた小説だ。日常に対する不満を抱えた登場人物の心情を表すかのように、作中では雨が降りしきっている。

 

『死神の精度』と雨男のあれこれ

 

伊坂幸太郎の『死神の精度』に出てくる死神は雨男だ。死神だから、雨男と言って良いものなのか。雨神とでも書いた方がいいのだろうか。それは置いといて、『死神の精度』を読んでいると、雨男について考えたくなる。なぜなら、僕自身も雨男だからだ。

 

雨宿りすると雨が止むが、外に出るとまた雨が降ってくるなんてことはしょっちゅうある。イベント事の幹事をすると天気が悪くなり、挙げ句の果てに「あいつを家から出すな」と言われる始末。外に出ると雪が降ってきたことも。雨男は雨だけじゃなく雪にも対応してるのか。

 

あまりにも雨に降られるので、「雨男・雨女って科学的に根拠があるのか⁉︎」と考えるとようになった。統計とったら相関性は取れるのだろうか。

 

個人的な考えとして、雨男というのはネガティブ思考による記憶の改竄によって生み出されたものだと考えている。

 

個人的な印象だが、雨男・雨女と言われる人はネガティブな人が多いイメージがある。ネガティブ思考な人は、運が良かったことよりもツイてなかったことの方を覚えていて、あたかも悪いことしか起こっていない風に感じているのではないだろうか。それが雨男の正体だと思っている。

 

僕自身も、運よく雨に降られなかったこともあるが、雨に降られた記憶の方が印象的に残っている。「いつも雨に降られている」と被害妄想に浸っているということだろうか。でもやっぱり、雨に降られている回数の方が多い気がするんだよな。

 

ちなみに、雨男だが傘を持つのが嫌いなのでよく雨に濡れてびしょ濡れになる。もう少し反省した方がいいと自分でも思う。事前に天気予報を見るべきだと思うのだが、見るくせがないからか天気予報を見ずに出かけてしまう。こういう習慣から直さないと雨男からは脱却できないなと思う。

 

反省して、AmazonEchoを活用して、出かける前に「アレクサ、今日の天気教えて」と言う習慣を最近では心がけている。しかし、アレクサが「快晴です」と言った日に、アレクサを信じて外出したら、大雨が降ってびしょ濡れになったことがあった。アレクサ許すまじ。

 

昔友人に「雨男だったら、雨乞いせずに雨を降らせれるから、昔だったら絶対奉られてたな。卑弥呼みたいになって、古事記にも載ったな」と言ったら、「雨を降らせるだけで、止ませることができなかったら意味ないやろ。降らせるだけなら、疫病神やで」と言われた。確かに。

 

きっと今年も雨に降られた記憶だけが、脳に蓄積されるんだろうなと思う。

 

世の中には森見登美彦派と万城目学派の二大派閥がある説

森見登美彦万城目学ってセットにして語られることが多い作家だなと思う。

2人とも京大出身で、京都にゆかりのある作家だ。

 

森見登美彦が好きな人は万城目学も好きそうな感じがする。けれど、強いていうならどちらかの方が好きみたいな派閥が存在するとも思う。そう、きのこの山派とたけのこの里派が存在するように。

 

なぜ2人は比較されることが多いのかというと、その理由は作風の近さにあると思う。

 

森見登美彦は『夜は短し歩けよ乙女』や『四畳半神話大系』など京大生のコミカルな青春恋愛小説を書いている。

 

 

 一方の万城目学も『鴨川ホルモー』で京大生を主人公にしたコミカルな青春恋愛小説を書いている。

夜は短し歩けよ乙女』と『鴨川ホルモー』はどちらもファンタジー要素があって、コミカルな雰囲気といい共通点が多い。なので比較されることが多いのだろう。

 

2人は、群雄割拠する戦国時代のように小説の舞台を取り合った。意識していたのかはわからないが、森見登美彦は京都を集中的に攻めるという方針をとり、祇園祭を舞台とした『宵山万華鏡』や京大を舞台にした『四畳半神話大系』などを発表している。

一方、万城目学の方は『鹿男あをによし』で奈良を手中に収め『プリンセストヨトミ』で大阪を攻め落とすなど、関西を広域に攻めるという方針をとった。

 

万城目学森見登美彦が8割、万城目学が2割で京都が焼け野原になったとインタビューで語っている。

森見登美彦の方は、万城目学が奈良・大阪・滋賀を抑えてしまったがために京都市左京区に閉じ込められたとも語っている。

 

あなたは森見派ですか?万城目派ですか?僕はどちらかというと森見派だ。

 

 

中原昌也のマスターピース / 『パートタイム・デスライフ』 中原 昌也

 『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』や『あらゆる場所に花束が…』に衝撃を受けてから、中原昌也をよく読むようになった。『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』の支離滅裂ながらもイメージを繋いでいく手法はバロウズの『裸のランチようだったし、『あらゆる場所に花束が…』で見せたイメージを反復する手法はヌーヴォー・ロマンのアラン=ロブ・グリエを彷彿とさせた。日本の現代文学にはあまりいないようなタイプの作家ではないだろうか。独特な前衛的手法の虜になってしまった。『パートタイム・デスライフ』も、過去作に劣らず、あるいは最高傑作と言ってもいいくらいの小説だ。

『パートタイム・デスライフ』は中原昌也の集大成的な長編?小説だ。?と書いたのは一見すると中心となるストーリーがなく、ストーリー的には各章ごとのつながりがないからだ。だが、前の章で登場したイメージや場面に関連するイメージが登場することで、各章ごとの連続性を支えている。

 

 

パートタイムの話かと思いきや…

最初はパートタイムで働く男の話から始まる。まあこのパートタイムの話も荒唐無稽な話なのだが、章を進むにつれてパートタイムの話をしていたと思ったらいつの間にかNHKのビデオテープの話になっているのだ。さらには、スクランブル交差点でのサポーターの話、馬の話と全く関係の話に移り変わっていく。まるで夢を見ているような感覚だ。

中原昌也の文章は、文章をそのまんまコピーペーストしたのも混じるが、時折キャッチーなフレーズが出てきて読者を引きつける。小説の内容はほとんどないようなものだが、文章に引き込まれてページをめくってしまう。イメージの切り替えが上手くて、いつの間にか脈略もない場面になっていたりする。思いもよらない場所に読者をつれて行くのが、中原昌也の小説の魅力かなと思ってみたりする。

 

 

各章のタイトルの意味

『パートタイム・デスライフ』は連作長編のような小説だが、各章には意味深なタイトルが付けられている。読んだ人ならわかると思うが、各章のタイトルは各章の終わりの文章から来ている

例えば、最初の章のタイトルは「教訓は古びない」というものだ。このタイトル自体が教訓めいている。この章の最後の文章を見てみよう。

どんな時代に於いても、教訓は古びることはない……それは逃れられない宿命のようなものだった。

「教訓は古びることはない」中原昌也にありがちな紋切り型の文章だ。これがそのままタイトルになっているのだ。他の章も同じようなスタイルでタイトルが決められている。

 

 

中原昌也のマスターピース

『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』に近いものを感じたが、初期の中原昌也ほどの暴力性はない。少し丸くなったのかなと感じたところだ。けれど、文章が次々に流れていく様はかなり洗練されていて、最初からは想像できない場所に読者を運んでいくのだ。帯に「中原昌也のマスターピース」と書かれていたが、その言葉に間違いはないと思う。

 

パートタイム・デスライフ

パートタイム・デスライフ

  • 作者:中原昌也
  • 発売日: 2019/03/23
  • メディア: 単行本