日々の栞

本や映画について気ままに書く。理系の元書店員。村上春樹や純文学の考察や感想を書いていく

実はR18指定の恋愛小説 / 『雪国』 川端 康成

「国境の長いトンネル~」の 書き出しで有名な『雪国』はR18指定!?

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親譲りの財産で、きままな生活を送る島村は、雪深い温泉町で芸者駒子と出会う。許婚者の療養費を作るため芸者になったという、駒子の一途な生き方に惹かれながらも、島村はゆきずりの愛以上のつながりを持とうとしない――。冷たいほどにすんだ島村の心の鏡に映される駒子の烈しい情熱を、哀しくも美しく描く。

 「国境の長いトンネル~」の 書き出しで有名な『雪国』は、ノーベル文学賞を受賞した川端康成の代表作だ。初めて『雪国』を読んだのは高校生の時だった。全編通して描かれていることが明確でなく、何が起こっているのか分からなかったというのがその時の感想だ。恥ずかしながら、まったく意味が分からなかったのである。冒頭の文章といい、ラストシーンといい、美しい小説だなという印象しかなかった。『雪国』の書き出しの文章は有名だけれども、読んだことがなかったり、意味が分からなかった人が多いんじゃないかな。大学生になってから再読してみると、『雪国』は大人の情愛を描いた恋愛小説だとなんとなく解釈できた。『雪国』は高校生には理解できないR18指定の大人の文学作品だったのだ。

 『雪国』の主人公は高等遊民の島村と芸者の駒子、そして葉子だ。この三人の人間模様が、美しい雪国を舞台に描かれている。島村は東京に妻がいる身ながら、越後湯沢に芸者を買いに来ている。そこで出会った駒子のひた向きさに島村は惹かれていくのだが…

 この『雪国』には明確なあらすじがあるのか良く分からない。全体的にぼんやりとしていて、散文の趣がある。大人の恋愛小説なので、もちろん男女が関係を持つシーンもあるのだけれど、肝心の関係を持つところが省かれていたり、性的表現が詩的な文章でオブラートに包まれていたりと肝心なところがぼやかされている。なので、男女の生々しい情愛を描いた小説だけれど、下品さを全く感じない。むしろ、美しいぐらいだ。まあ『雪国』が学生の読書感想文には絶対おすすめできないのは変わりないのだが。

 

 

国境は「こっきょう」と読むか、「くにざかい」と読むか?

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」は日本で一番有名な書き出しだろう。実は、冒頭の「国境」の読み方には二通りの説がある。一つ目が、「こっきょう」と読む一般的な説。二つ目が「くにざかい」と読む説だ。そもそも「国境の長いトンネル」とはどこなのだろうか。それを考えるには、『雪国』の舞台について知らなければならない。

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 『雪国』の舞台は新潟県の越後湯沢という温泉地だ。川端康成は実際に、越後湯沢で『雪国』を執筆していた。この写真は越後湯沢駅で撮ってきたものだ。ちなみに川端康成が泊まっていた旅館は「高半」というところで、今も宿泊することが可能だ。

 

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かすみの間」という川端康成が執筆に使った場所も見ることが出来る。実際に行ってきて写真を撮ってきた。

 国境の話に戻ると、『雪国』における「国境の長いトンネル」とは新潟県と群馬県との間にまたがる清水トンネルのことだ。だから、国境とは新潟県と群馬県の県境のことを意味する。昔の日本では越後国(えちごのくに)のように、国と書いて「くに」と呼んでいた。なので、かつての上野国(群馬県)と越後国(新潟県)の境という意味で、「くにざかい」と読むという説がある。僕自身は、「国境」に「こっきょう」以外の読み方があるとは思っていなかった。

 ただ、「くにざかい」と読むと濁音を含むことになり、冒頭の一文の美しさが損なわれてしまうと思うのだ。「こっきょう」と「くにざかい」のどちらの読み方の方が美しいかと言われれば、やっぱり「こっきょう」と読むほうが美しい

 だから僕自身は「こっきょう」派だ。この書き出しは本当に無駄がなくて、余韻がある。 実際に僕は国境の長いトンネルから抜ける瞬間を新潟まで行ってみてきたのだが、本当に、夜の底が白くなっていた。電車の車両についてある明かりで雪が照らされて、ちょうど地面だけ銀世界になるのだ。まさに、夜の底が白くなったというしかない。

 

 

実はアダルトな『雪国』

 冒頭でも書いたけれど、『雪国』は旅人と芸者の情事を描いたR18指定の恋愛小説だ。こんなことを言われてみても、そんなに過激な小説だったっけ?と思う人が多いだろう。『雪国』にそういった作品に付きまとう下品さがないのは、性的表現を詩的な文章で仄めかしているからだ。かなり下品な例で例えると、AVの全画面にモザイクがかかってぼやかしているみたいな感じだろうか。

 詩的な表現でぼやかし、情事の場面を描かずに省略することでこの『雪国』では奥行きのある美しい小説になっている。『雪国』が難しい理由は、色々な説明が省略されていて、性的表現が美しい文章でオブラートに包まれすぎているところにある。作中から、性的表現を詩的な文章でオブラートにつつんだ例を挙げてみよう。

 

もう三時間も前のこと、島村は退屈まぎれに左手の人差し指をいろいろに動かして眺めては、結局この指だけが、これから会いに行く女をなまなましく覚えている、はっきり思い出そうとあせればあせるほど、つかみどころなくぼやけてゆく記憶の頼りなさのうちに、この指だけは女の触感で今も濡れていて、自分を遠くの女へ引き寄せるかのようだと、不思議に思いながら、鼻につけて匂いを嗅いでみたりしていたが、ふとその指で窓ガラスに線を引くと、そこに女の片眼がはっきり浮き出たのだった

  (『雪国』川端 康成  新潮文庫 p8)

 

 冒頭にある有名な文章だ。島村が指の感触から女のことを思い浮かべているシーンだ。高校生の時の僕はまったく意味が分からなかった。「この指だけが女を覚えている、ってどういうこと?」と、頭に疑問符しか浮かんでなかった。

 今読み返してみると、なんともきわどい事を書いているなと思う。この指だけは女の触感で今も濡れていて」とかは、もうかなり際どい表現だ。下品になることを承知で要約してみると、左手の人差し指で女の性器を愛撫したときのことを回想しているのだろう。とても高校生に勧めることはできない。

 こんなR18指定がかかりそうな表現も、川端康成の手にかかれば詩的で美しい表現に変わる。とくに最後の女の片眼が現れるところは川端康成らしいシュールさが感じられる。島村は回想するだけではなく、駒子本人に「こいつが一番よく君を覚えていたよ。」と直接言うのである。その大人の会話を引用してみよう。

 

 「こいつが一番よく君を覚えていたよ。」と、人差指だけ伸した左手の握り拳を、いきなり女の目の前に付きつけた。
 「そう?」と、女は彼の指を握るとそのまま離さないで手をひくように階段を上って行った。
 火燵の前で手を離すと、彼女はさっと首まで赤くなって、それをごまかすためにあはててまた彼の手を拾いながら、
 「これが覚えていてくれたの?」
 「右じゃない、こっちだよ。」と、女の掌の間から右手を抜いて火燵に入れると、改めて左の握拳を出した。彼女はすました顔で、
 「ええ、分っているわ。」
 ふふと含み笑いしながら、島村の掌を拡げて、その上に顔を押しあてた。             

       (『雪国』川端 康成  新潮文庫 p16)

 

何ともオトナな会話である。「指が君を覚えていたよ」と言われて、駒子は恥じらいを見せるけれど、「ええ、分っているわ。」と含み笑いする余裕も見せる。さすが、駒子は芸者だけあって男女間の駆け引きが上手い。このシーンにも性的なことを仄めかしているシーンはいくつかある。

 

あの美しく血の滑らかな脣は、小さくつぼめた時も、そこに映る光をぬめぬめ動かしているようで、そのくせ唄につれて大きく開いても、また可憐に直ぐ縮まるという風に、彼女の体の魅力そっくりであった。

  (『雪国』川端 康成  新潮文庫 p71)

 

これもなかなか生々しい描写だ。 駒子の顔の描写を細かく描写することで、駒子の性器のことを暗示している。顔のパーツが性器に置き換わった『凌辱』というマグリットの絵が彷彿とされる。美しい文章で、生々しいことを書くのが川端康成。

 

駒子はそっと掌を胸へやって、
 「片方が大きくなったの。」
 「馬鹿。その人の癖だね。一方ばかり。」
 「あら。いやだわ。嘘、いやな人。」と、駒子は急に変った。これであったと島村は思い出した。
 「両方平均にって、今度からそう言え。」
 「平均に?平均にって、言うの?」と、駒子は柔かに顔を寄せた。

 

 胸の大きさの違いから、その人の愛撫の癖を言及する描写もある。核心をつくワードはかかれていないので一見すると何のことか分からないけれど、深読みしていくと性的なことが書かれていることが分かる。

 

 ここで初めての検査の時に、半玉の頃と同じだと思って、胸だけ脱ぐと笑われたこと、それから泣き出してしまったこと、そんなことまで言った。 島村に問われるままに、
 「私は実に正確なの、二日ずつきちんと早くなって行くの。」
 「だけどさ、お座敷に出るのに困るということはないだろう。」
 「ええ、そんなこと分るの?」

 女の子の日に関係する際どい会話をするシーンもある。このような感じで、『雪国』では全編にわたって、性的な表現やメタファーが暗示的に散りばめられている。R18指定の恋愛小説と言われる所以である。

 

 

駒子と葉子

 親譲りの財産で、高等遊民の島村は、東京に妻がいる身でありながらも越後湯沢に行き、駒子との逢瀬を楽しんでいた。駒子とは初めて会った時、島村は口説こうとしまかったが、結局二人は一夜を共にした。たぶん、初めから島村は駒子のことを抱きたかったのだろう。

 再び越後湯沢を訪れたとき、駒子は許婚者の療養費を稼ぐために芸者になっていた。
その許婚者というのが、電車の中で出会った若い女に連れられた病人だと島村は知る。その男は腸結核でもう長くはなかった。もう死ぬのがわかっているのに、駒子は療養費を稼ぐために働いていた。これが島村にとっては徒労に思えた。

 電車の中で病人につき添っていたのが、葉子だった。島村はこの葉子にも関心を示す。島村は「不思議な見方」で葉子のことを見ていたとあるが、これは性的な意味合いで葉子のことを見ていたということだろう。駒子は島村の心変わりに敏感に気づき、葉子を島村の元に使わせるなど、駆け引きをする。駒子は島村のもとへと毎晩通うが、二人の関係性には限界が見えていた。

 

 

「徒労」というキーワード

『雪国』には徒労という言葉が頻出する。おもに駒子に向けて島村が使っている言葉だ。徒労というのは、「頑張っても報われない」と言う意味だ。駒子は病気で死ぬと分かっている許婚者の療養費を稼ぐために芸者になっていた。そんな駒子の「敗者の頑張り」が島村には徒労に見えたのだ。

 また、島村と駒子の恋愛も「徒労」だ。島村は東京にいずれ帰らなければならないし、駒子を囲う財政的余裕もないだろう。だから、二人は別れるしかないのだ。初めから負けるのが分かっているゲームだ。けれど、島村は駒子の「敗者の頑張り」に惹かれていたのだ。

 

 

 

「君はいい女だね」とはどういう意味か?

 『雪国』で解釈がしずらいところのひとつが「君はいい女だね」のところだ。島村は駒子の性格が良いと言う意味で「君はいい女だね」と駒子に言うのだが、駒子は意味を取り違えて怒ってしまう。駒子は「いい女」をどういう意味に捉えたのだろうか?

 一つには都合の「いい女」という解釈もあるかもしれないが、僕は 性的な意味での「いい女」と駒子は解釈したんじゃないかなと考えている性的に「いい女」とは、島村と体の相性がいいとか、あるいは駒子が「名器」の持ち主であるという意味だ。駒子の顔になぞらえて性器を表現しているシーンがあるのだが、「あの美しく血の滑らかな脣は、小さくつぼめた時も、そこに映る光をぬめぬめ動かしているようで、そのくせ唄につれて大きく開いても、また可憐に直ぐ縮まるという風に、彼女の体の魅力そっくりであった。」この描写から、駒子は「名器」の持ち主と解釈してもいいんじゃないか。この駒子「名器」説は石原千秋先生の『なぜ『三四郎』は悲恋に終わるのか ――「誤配」で読み解く近代文学 (集英社新書)』に詳しく書いてあるので、是非参照してみてほしい。

 島村は性的な意味で「いい女」と思っていないわけではなく、そう思うところもあるので後ろめたい気持ちになっている。駒子のほうも「いい女」と言われてまんざらじゃなく、「名器」に自信を持っているけれど、直接体が目当てだと言われるとプライドが立たない。誰しも、「カラダが目当てです」とか言われたら嫌だろう。こういう男女の駆け引きが、「いい女」をめぐる解釈の違いに繋がっている。性愛に恋愛という名前をつけるというのが、この『雪国』のテーマの一つなのかもしれない。

 

 

『雪国』はオープンエンディング

 踏みこたえて目を上げた途端、さあと音を立てて天の河が島村のなかへ流れ落ちるようであった。    

     (『雪国』川端 康成  新潮文庫 p173)

 ある夜、繭蔵が火事になり、燃え盛る建物から葉子が落ちてくるところで『雪国』は唐突に終わる。明確なエンディングが書かれていないのだ。葉子が助かるのかは分からないし、島村と駒子の関係がどうなるのかも示されずに終わる。わざとエンディングを明確にせず、読者に委ねる「オープンエンディング」というものだ。川端康成の小説にはオープンエンディングのものが多い。このオープンエンディングを用いることで、深い余韻がある終わり方になっている。

 島村と駒子の関係がどうなるかは書かれていいけれど、遅かれ早かれ終焉に向かうものと思われる。オープンエンディングで結末は読者に委ねられているけれど、島村と駒子には別れるという結末しかないのだ

 島村は駒子にたいし徒労というイメージを重ねていた。島村と駒子の恋愛も徒労そのもので、恋愛にのめり込んでも報われることがない。島村は東京にいずれ帰らなければならないし、駒子を囲う財政的余裕はないだろう。だから、二人は別れるしかないのだ。島村はこの恋愛の不可能性に気付いていた。だから、別れのシーンを書く必要もないだろう。あるいは、川端康成は意図的に結末を書かなかったのではなくて、結末を書けなかったのかもしれない。旅人と芸者、この儚い恋愛には雪国の美しさが似合う。