「土の中の彼女の小さな犬」は、『中国行きのスロウ・ボート』に収録されている村上春樹の短編小説だ。この小説では、自らの「トラウマ」を語ることによって「トラウマ」に向き合い、回復する過程が描かれている。
村上春樹にしてはオーソドックスなプロットになっていて分かりやすい小説だなと思う。
自らのトラウマを語り、トラウマから解放されるという構造は「七番目の男」といった他の村上春樹作品にもみられる。
主人公の「僕」は、彼女がトラウマから回復するのを助けるような役割を負っている。それだけでなく、「僕」自身も彼女との交流を通じて自らの人間関係に向き合おうとするのだ。
それでは「土の中の彼女の小さな犬」について考察・解説していこうと思う。
若い女のトラウマと語りによるトラウマの克服
まず、「土の中の彼女の小さな犬」の大まかなあらすじを説明しよう。
小説の舞台は雨が降りしきるリゾートホテルだ。主人公の「僕」はガールフレンドと一緒にホテルに来る予定だったが、直前に喧嘩をしてしまったため一人で来る羽目になる。
時間を持て余す「僕」は、リゾートホテルで若い女(以降は「女」と表記する)に出会う。「女」と話す中で、「僕」は「女」の人となりを当てるゲームのようなものを始める。本文中の言葉を借りれば「占いのようなもの」だ。
作家である「僕」は観察眼を活かし、「女」の素性をどんどん当てていく。そのゲームの中で「僕」は「女」の過去のトラウマを探り当ててしまう。それは、自分の愛犬の墓を掘り起こしたというトラウマだ。
この小説は、「僕」に促されるようにして「女」は過去のトラウマを語り、自ら治癒していく過程がメインになっている。
「女」が自らのトラウマを振り返るきっかけとなったのは、「僕」が仕掛けたゲームだ。「人間を観察する」のが仕事の「僕」は彼女の仕草や身のこなしを分析することで「女」がピアノをやっていたことなど彼女の素性をどんどん当てていく。
だが、「僕」の鋭すぎる観察眼は「無意識のうちに相手の中にある不必要な何か」を引き出してしまうのである。無自覚な加害性とでもいうのだろうか。
「でも相手がそれをただのゲームとは感じなかったら?」
「つまり、僕が無音職のうちに相手の中にある不必要な何かを引き出してしまったら、ということですか?」
「まあ、 そういうことね」 (p220)
「僕」が掘り起こしてしまったのは、「女」の庭にまつわるトラウマと右手を眺めるクセだ。最初から「僕」は無意識に彼女の右手を気にするクセを見抜いていたのだろう。彼女の右手には過去のトラウマが象徴されていたのである。
では、彼女のトラウマとは何だろう?
彼女のトラウマは、愛犬のマルチーズの墓を掘りことしてしまったことへの後ろめたさと掘り起こした時に何の感情も湧かなかったことだ。
「女」は死んだ愛犬を家の庭に埋めた。ここからタイトルが来ているのだろう。彼女が犬を埋めたときに一緒に銀行の通帳も埋めていた。愛犬が死んでからしばらく立って、彼女は友達から金銭面的に問題を抱えていると相談される。「女」は友人のために愛犬の墓を掘り起こして、通帳を回収したのだ。
その墓を掘り返してしまった時に、「女」は何も感じなかったのだ。それが彼女を苦しめる。掘り起こした通帳には犬の匂いが染み込んでいた。その匂いが右手に移ったように感じて「女」は右手を気にしていたのだ。彼女の罪悪感は右手に「匂い」として残ったのである。
そのトラウマに苦しめられていた「女」だったが、「僕」に過去の出来事を話し、ずいぶん楽になったと言った。最後には「女」がトラウマから回復した場面が描かれている。
その場面は、「僕」が「女」の右手の匂いを嗅ぐシーンだ。「僕」が「女」の右手の匂いを嗅ぎ、石鹸の匂いしかしないと告げるシーンに彼女の回復を読み取ることができる。
こんな感じで「土の中の彼女の小さな犬」は、「女」がトラウマを語ることによって回復する物語として読み解くことができるのだ。
「僕」の変化
「女」がトラウマを語ることによって回復する物語として読み解いたが、救われたのは「女」だけだったのだろうか?「女」との対話は「僕」にも影響を与えている。「女」との交流を通じて、「僕」もガールフレンドとの関係性を再構築しようと前向きな姿勢になっているのだ。
そもそも「僕」は、彼女との関係が希薄だった。女性と深い関係を持とうとせず上辺だけの付き合いを続けてきたように思える。現にガールフレンドは2年ごとに変わっている。
ガールフレンドは、深い人間関係を築こうとしない「僕」に嫌気がさして喧嘩したのだ。
こんな風にやっていくのは嫌だ、と彼女は言った。 こんな風に? 週に一度のデートとセックス、また一週間がたって、またデートとセックス……いつまでこんな風にやってくの?
他人と深く関わろうとしない「僕」だが、リゾートホテルで「女」と話す中で次第に変わっていく。「女」との会話が増えるにつれて、ガールフレンドを思い出すことが多くなってくるのだ。
それから僕は東京に残してきたガール・フレンドのことを考えた。そして彼女とつきあいはじめて何年になるのか勘定してみた。二年と三カ月だった。二年と三カ月というのはなんとなくきりの悪し数字であるような気がした。まともに考えれば、僕は三カ月ぶん必要以上に長く彼女とっきあったということになるのかもしれない。でも、僕は彼女を気に入っていたし、別れる理由はー少なくとも僕の方にはー何もなかった。
引用したのは、「女」とゲームをした後の「僕」が自室で彼女のことを考える場面である。
深い関係を築こうとしない「僕」がガールフレンドのことを考え始めたのだ。
さらに、「女」が自らのトラウマを語り終え、右手から犬の匂いがしないことを確認した後では、「僕」はさらに変化している。
彼女と別れたあとで 、僕は部屋に戻り、 ガール・フレンドにもう一度電話をかけてみた。彼女は出なかった。信号音だけが、僕の手の中で何度も何度も何度も鳴りつづけた。これまでと同じだった。しかしそれでもかまわなかった。僕は何百キロか先の電話のベルを何度も何度も何度も鳴らしつづけた。彼女がその電話の前にいることを、僕は今ははっきりと感じることができた。彼女はたしかにそこにいるのだ。
僕は二十五回ベルを鳴らしてから受話器を置いた。夜の風が窓際の薄いカーテンを揺らしていた。波の音も聞こえた。 それから僕は受話器をとって、もう一度ゆっくりとダイヤルを回した。
引用部分では、「僕」が自らガールフレンドに電話している。語りの効果は「女」だけではなく、「僕」にもガールフレンドとの関係性を考えるきっかけを与えたのである。
印象的な雨と「僕」の心境
この小説で印象的な雨だが、「僕」の憂鬱な感情とリンクしている。
『羅生門』や『ノルウェイの森』といい小説では心境と天気がリンクするとよくいうが、まさにその通りになっているのである。
ガールフレンドと喧嘩しホテルに来た直後では雨は降り続いていたけれど、「女」との会話を通じて考え方を見直し始めたあたりから雨が変化していく。引用部分は「女」と話した後の天気を描写したところだ。
雨はもうすっかりあがり、空を覆っていた淡い灰色の雲はところどころに切れめを見せはじめていた。雲は風に流されていた。切れめが微妙にその形を変化させながらゆっくりと窓枠を横切っていった。風は南西から吹いていた。そして雲が移動するにつれて、青空の部分が急激に増えていった。じっと空を眺めているうちに色がにじみはじめたので、それ以上眺めるのをやめた。とにかく天気は回復しつつあるのだ。 (p224)
また最後の場面では、「僕」の心境の変化を象徴するように、雨が止んでいる。
リゾートホテルも「僕」のことを象徴している?
では、ここからさらに深読みしてみる。
舞台となっている古ぼけたリゾートホテルだが、これも「僕」の状況を象徴しているように読み解くことができる。共通点を上げてみよう。
まずホテルという場所だが、人が定住するような場所ではなく短期的に住む場所だ。これは、ガールフレンドを割と短期間で取り替える「僕」と共通するものがないだろうか。
また、別の点ではホテルの状況が挙げられる。ホテルについて書かれた部分を引用してみよう。
改築の時期が迫っていることは明らかだった。誰にも時間を止めることはできない。僕はただその改築の時期が少しでも先に伸びることを望んでいた。
ホテルは改築しないといけなかったが、先延ばしされた状態にあった。
これは、彼女に関係の見直しを迫られていたが、それに向き合わないでいた「僕」の状態に重なるように思える。だからこそ、この古びたリゾートホテルが舞台にならなくてはいけなかったのかなと解釈している。
「土の中の彼女の小さな犬」は映画化されている
ちなみに、「土の中の彼女の小さな犬」だが、『森の向う側』というタイトルで映画化されている。
この作品はDVD化されていない。また、NetflixやPrimeVideoでも配信されていない。なので、現在この作品を鑑賞することは非常に困難だ。非常に残念である。この映画は村上春樹ファンでも知らなかった人が多いんじゃないだろうか。
映画ではストーリーが少しだけ変更されている。リゾートホテルへやって来た主人公が食堂で1人の女性を見かけるというところは同じなのだが、「行方不明になっている友人を探すため」という設定が加えられている。
観れる機会があったら、ぜひ観てみたいものだ。どこかで借りれないだろうか。
しかしそれでもかまわなかった。僕は何百キロか先の電話のベルを何度も何度も何度も鳴らしつづけた。彼女がその電話の前にいることを、僕は今ははっきりと感じることができた。彼女はたしかにそこにいるのだ。
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