日々の栞

本や映画について気ままに書く。理系の元書店員。村上春樹や純文学の考察や感想を書いていく

概念を奪い取る宇宙人の侵略 / 『散歩する侵略者』 前川 知大

f:id:plutocharon:20210201031318j:image

真治と鳴海の夫婦は、ちいさな港町に住んでいる。亭主関白ぶって浮気する真治、気づかないふりで黙っている鳴海。だが真治が、3日間の行方不明ののち、まったく別の人格になって帰ってきた。「真ちゃん」と呼ばせてくれる新しい真治と、鳴海はやりなおそうと思った。だが静かに、町は変容していく。“侵略者”が、散歩しているから。地球侵略会議はファミレスで。鳴海と真治の夫婦、そして侵略者の物語。

 宇宙人の侵略と言われたらどんなものを思い浮かべるだろうか?ほとんどの人が『宇宙戦争』や『インディペンス・デイ』のように、武力での侵略を思い浮かべるだろう。だが、『散歩する侵略者』という小説はちょっと違う。この小説も宇宙人の侵略を描いた小説だが、武力によって侵略する話ではない。概念を奪うことから侵略を開始するのだ。

散歩する侵略者』は前川知大による舞台作品だ。前川知大自身が小説化している。 タイトルだが、「散歩する」と「侵略者」という一見すると繋がりが見えない言葉の組み合わせがいい。

概念を奪うことによる侵略とはどんなものだろう?

 

 

夫が別人格になって帰ってきた

物語は、行方不明になっていた鳴海の夫・真治が帰ってくるところから始まる。鳴海は真治が以前とは全く違う人格になっていることに気づく。鳴海は真治と結婚生活を送っていたが、真治の浮気もあり、夫婦関係は冷え込んでいた。それもあってか、人格が変わってしまった真治とならやり直せるのではないかと思う。帰ってきた真治は、小学生のようになっており、いちいち言葉の意味をしつこく聞くようになっていた。最初は戸惑っていた鳴海だが、言葉の意味を吸収し「真治」はどんどん成長していく。それに伴い、町では不思議な事件が多発する。

一方、フリージャーナリストの桜井は一家惨殺事件を調べる中で天野と名乗る不思議な少年と出会う。天野は自らを「宇宙人」だと名乗り、概念調査に協力するガイドにならないかと桜井を誘う。桜井はそれを了承し、ガイドとして天野に協力する。地球侵略会議はファミレスで。

天野は「概念」を集めると称して、道ゆく人に話しかける。そして、言葉の概念をイメージしてもらったところで、その概念を奪い取るのだ。概念を奪い取られた人は涙を流し、それ以降奪われた「概念」について理解することができなくなってしまう。例えば、「家族」という概念を奪われた人は、「家族」が何か理解できなくなり、なんで同じ家に住んでいるのかを疑問に思ったりする。

こんな方法で、天野や真治は「概念」の収集を散歩がてら行う。散歩する侵略者だ。概念を奪うことから侵略を開始するのだ。町には、「概念」を抜かれた人で溢れ、混乱が静かに広がっていく。

 

 

言語論で考える概念と言葉の関係

ここで概念と言葉の関係を考えてみよう。言語と概念の関係性の考え方には大きく分けて二種類ある。

一つ目が概念やものが最初に存在し、言葉は後から付けられるラベルのようなものだと考える方法だ。『散歩する侵略者』ではこちらの解釈で話を進めている。作中で例が挙げられるように、和英辞典では言葉の意味する概念を媒介として日本語と英語を記載している。言葉の存在前に概念があるという考え方だ。だから英語や日本語という言語の違いは、モノに貼るラベルの種類が違うだけで、概念自体は共通というのもだ。「散歩する侵略者たち」はこの概念を奪うのだ。

二つ目が少しややこしいのだが、言葉があるから概念やモノを認識できるという考え方だ。ソシュールらが提唱した言語感だ。言語があるから、世界を切り分けて認識できるという考え方だ。よく例に上がるのは、国によって虹の色の見え方が違うというものだ。日本では虹は7色だが、三色に切り分ける国もある。言語が用意する色の数によって虹の色数が変わるのだ。まあ、これは余談だが。

 

 

 

「愛」という概念を奪ったら

地球に来た「宇宙人」たちは全員で3人だった。真治に取り付いたもの、天野に取り付いたもの、そして一家惨殺事件を引き起こしたあきらに取り付いたものの3人(3体?)だ。3人は侵略対象である地球で概念を収集するためにやってきた。最初は金魚に取り付いたものの、その後人間に乗り移ったのだ。そのため縁日に来ていた真治、天野、あきらのおばあちゃんに乗り移ったのだ。あきらのおばあちゃんは、人体について調べようとして一家惨殺事件を引き起こし、その後あきらに乗り移ったのだ。

概念を収集した「宇宙人」たちは、元の星に帰ろうとする。が、地球を守ることを決心した桜井と真治を失いたくない鳴海がそれを止めようと動くのだ。最後に鳴海は真治に「愛」という概念を奪って欲しいと頼む。「愛」という概念がなくなれば、鳴海は真治を失っても寂しくはないのだから。

真治は「愛」という概念を奪うのだが、愛の真の意味を知った時にものすごい動揺を受ける。「愛」という概念を知ってしまった真治の決断は書き込まれてはいない。それは読者の想像に任されている。けれども、「愛」を失ってしまった鳴海に幸せは訪れないよなと感じる。

人間にとって、「愛」という概念ほど複雑で難解で重要なものはないと考えさせられる。

 

 

 

黒沢清監督によって映画化されている


松田龍平、長澤まさみ、長谷川博己ら出演!映画『散歩する侵略者』予告編

 

元々は舞台で、後に小説化された『散歩する侵略者』だが、黒沢清監督の手によって映画化されている。カンヌ国際映画祭のある視点部門に出品された映画だ。 

 

 

散歩する侵略者 (角川文庫)

散歩する侵略者 (角川文庫)

  • 作者:前川知大
  • 発売日: 2017/07/25
  • メディア: Kindle版
 

 

 

散歩する侵略者

散歩する侵略者

  • 発売日: 2018/03/07
  • メディア: Prime Video
 

 

センター試験で話題になったボクっ娘小説 / 『僕はかぐや姫』 松村 栄子

進学校の女子高で、自らを「僕」と称する文芸部員たち。17歳の魂のゆらぎを鮮烈に描き出した著者のデビュー作「僕はかぐや姫」。

センター試験の国語で出題される小説は毎回話題になってきた。

スピンスピンスピンというパワーワードが話題を集めたこともあったし、江國香織の「デューク」のように感動を誘った問題文もあった。2006年のセンター試験に出題された『僕はかぐや姫』も話題を集めた出題文の一つだろう。

僕はかぐや姫』は松村栄子の作品で、海燕新人文学賞を受賞したデビュー作である。『僕はかぐや姫』の何が話題になったのかというと、主人公の少女の一人称が「僕」なのだ。いわゆるボクっ娘が主人公の小説だ。確かに、センター試験の問題文にボクっ娘が急に出てきたら、ちょっとパニックになるだろう。

『僕はかぐや姫』は、17歳の目から切り取られた世界を繊細かつ鋭い文体で描いている。問題を解いていて、心に迫るものや共感した人も多いだろう。僕もこの問題を解いた後に『僕はかぐや姫』の続きを読みたくなったものだ。しかし『僕はかぐや姫』はその当時絶版になっていたので、読みたくても読むことができなかった。

この度復刊されたので、全体を通して読んでみた。全体を通して、内容に深く踏み込み、読み解いていこうと思う。未読の人はネタバレ注意!

 

 

白雪姫でもシンデレラでもなく、かぐや姫である訳

タイトルが『僕はかぐや姫』となっているように、「かぐや姫」はこの作品を読み解くキーワードだ。主人公の千田裕美は「かぐや姫」にこだわりを見せる。白雪姫でもシンデレラでもなく、かぐや姫に。

千田裕美は文芸部の合宿で、好きな作品を語る際に「竹取物語」を上げる。

 

裕生は何と言ったのだったか。…裕生が尋ねられたときには、すでに彼女の知る作家たちはあらかた出し尽くされていて、戸惑って……〈かぐやひめ〉だと彼女は言った。

「竹取物語?」

「いいえ、〈かぐやひめ〉の絵本です。朝倉摂の挿絵のある紫の表紙の。幼稚園の頃、僕はどうしてもそれが欲しくて……」           p40

 

裕美は「白雪姫やシンデレラよりは月に帰るかぐや姫に心を打たれた」のであった。羨ましいという気持ちを持って。

では、なぜ「かぐや姫」なのだろうか?ここに作品を読み解くヒントがある。白雪姫・シンデレラとかぐや姫との間にある決定的な違い、それは作中で裕美の元カレ藤井くんが指摘している。

「かぐや姫って結局、男のものになんないのな」

 

そう、白雪姫とシンデレラは王子様と結ばれるが、かぐや姫は帝と結ばれず月に帰ってしまう。その後の文章はこう続く。

 

じゃあ、と彼が去ってから裕生はそこにしばらく立ち尽くしていた。なるほど、自分が恐れているのはそのことかもしれない。〈僕〉が忌避しているのはそのことかもしれない。その具体性はいたく彼女の自尊心を傷つけた。

 

裕美は「女性」として男性から扱われることを避けていたのだ。実際に、裕美は元カレの藤井君に純朴な男性像を思い描いていた。制欲から切り離された男性像だ。そんな裕美の男性観と実際の藤井君には齟齬があった。年頃の男子はそんなにも純朴ではない。

それに気づいた裕美は、「女性性」を受け入れることができずに藤井君を振ったのだろう。裕美は自分が対象としての「女性性」を受け入れる準備ができていなかった。だから「僕」という一人称で自己を外界から守っていたのだ。

 

 

「僕」という一人称

では裕美が「僕」という一人称を使い始めたのはいつからだろうか?それは自分が女性であることを突きつけられる瞬間、初潮の時からだ。裕美と穂香の会話にこんな記載がある。

 

「いつから〈僕〉って言い始めたの?」

「そんなの覚えてないよお」

嘘だった。人より遅い初潮を迎えた頃からだったと裕生は記憶している。けれどもそんな話を他人にしたくはない。ましてこんな明るい午後、彫刻のような想香を前にして。

 

自分は女性であることを認識させられる初潮の頃から、裕美は「僕」という一人称を使い始めたのだ。性の匂いがない性以前の透明な人間性を求めて。

「僕」という一人称について、裕美はこう語っている。

 

女らしくするのが嫌だった。優等生らしくするのが嫌だった。人間らしくするのも嫌だった。どれも自分を間違って塗りつぶす、そう感じたのはいつ頃だったろう。器用にこなしていた(らしさ〉のすべてが疎ましくなって、すべてを濾過するように〈僕〉になり、そうしたらひどく解放された気がした。女子高に来ると他にも〈僕〉たちはいっばいいて、裕生はのびのびと〈僕〉であることができた。

裕美の通う高校では、裕美以外にも「僕」という一人称を使う女子はいる。尚子もかつてはそうだった。だが、尚子は「僕」という一人称を捨て、「あたし」という一人称に移行した。尚子は「女性性」を拒絶することをやめ、受け入れたのだ。それに対して裕美は受け入れられずにいた。

 

ボーヴォワールは「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」と言っているが、裕美は「女らしさ」をただ受け入れることを拒んだのだ。

 

 

「僕」から「わたし」へ

この『僕はかぐや姫』のストーリーは、裕美が対象としての女性性を受け入れる準備をしていくのを描いた小説だ。ストーリーラインの重要なところはそこになる。そしてそれを象徴するのが、一人称が「僕」から「わたし」に変わったことだ。

裕美は「僕」の一人称の世界にとどまるのではなく、「わたし」へと変化を遂げる。「僕」という一人称を使って女性性を受け入れるかどうかの悩みから離れて言ったのだ。「女性性」を受け入れる準備を整え、「僕」という一人称を裕美が捨てたところでこの小説は終わる。

 

『僕はかぐや姫』は、一人の少女が女性性を受け入れる準備をし、少女の世界から飛び出すまでを繊細な文体で描いた心に刺さる小説だ。

 

 

 

関連記事

plutocharon.hatenablog.com

人が「何らかしら」に変身する変身譚・変身小説まとめ

 「変身!」という掛け声といえば仮面ライダーだ。これは皆さんよく知っているだろう。

だが、掛け声「変身」の由来は何かと聞かれたら答えに窮するだろう。「変身!」の掛け声の由来は、意外にもフランツ・カフカの『変身』にあった。こんなところに文学の影響があるなんて。

フランツ・カフカ『変身』は、朝起きると虫になっていたという話だ。こんな感じで人が何かしらに変身するという「変身譚」と呼ばれる小説は、カフカの『変身』に限らず色んなバリエーションがある。例えば、尊大な自尊心を拗らせて虎になっちゃった李徴を描いた『山月記』など。人が何かしらに変身する変身小説をまとめてみた。

続きを読む

資本主義の勝ち組の憂鬱 / 『キャピタル』 加藤 秀行

f:id:plutocharon:20210211234545j:image 

キャピタル』は、タイトルのCapital(資本)が暗示するように、グローバル資本主義の競争原理を色濃く反映した小説だ。この小説が描くのは、グローバル資本主義における勝ち組の憂鬱だ。勝ち組にも憂鬱はあるのだ。文学といえば弱者の視点で描くことが多く、資本主義の勝ち組の視点で描くと言うのは珍しいと感じる。作者の加藤秀行は戦略コンサルに勤めていることも理由の一つかもしれない。

資本主義社会においては、ピケティが指摘したr>gという不等式に象徴されるように、資本側の人間が莫大な富を手にする。資本が資本を生む資本主義のサイクルは勝ち組と負け組の分断を産み、今もなお格差は広がり続けている。資本主義によって生まれた貧困や労働者の搾取は文学によって描かれてきた。プロレタリア文学の『蟹工船』がそうだ。これはいってみれば、資本主義で恩恵を得れない負け組側の文学だ。

これに対して『キャピタル』は、戦略コンサルというグローバル資本主義の最前線で戦う主人公の「勝ち組なりの憂鬱」を描いている。この視点は、文学にとって新しいなと感じる。「結果を出さないと生き残れない」という厳しい競争社会を生き抜き、高給を得ている彼らにも「勝者なりの苦労」があるのだ。この小説の根底には「市場で評価されるものしか生き残れない」という残酷な競争原理が流れている。

全体的な雰囲気や文体は非常に村上春樹に近い。曖昧な表現や、〇〇的という言い回し、ウィットに富んだ表現など、春樹チルドレンといってもいいほど村上春樹的な表現が多い。さらに双子まで登場する。村上春樹がマッキンゼーに入っていたらこんな小説を書いていたであろうか。

また、『キャピタル』のストーリー自体も村上春樹の『羊をめぐる冒険』のストーリーをなぞったものだ。蓮實重彦が『小説から遠く離れて』で指摘したような、依頼と代行の物語だ。村上春樹要素が多い『キャピタル』ではあるが、小説の根底にある「市場で評価されるものしか生き残れない」というサバイブ意識がこの小説に加藤秀行らしさを与えている。

『羊をめぐる冒険』を参考にして『キャピタル』を読み解いて行こうと思う。

 

 

コンサルの憂鬱

主人公の須賀は戦略コンサルに7年間勤めており、勤続の褒賞として1年間の一時休養を取っている。休暇の間、須賀は時間を持て余しており、須賀に持ち込まれる雑用、本文の言葉を借りれば「戦略的ゴミ捨て」、を請け負っていた。須賀にとって、1年間の一時休養はある種のモラトリアムであった。休暇の後にファームに戻るか戻らないか、須賀は日々の空虚さに悩み、決めかねていた。『キャピタル』は主人公・須賀のモラトリアム小説でもあるのだ。コンサルがモラトリアムで悩むというのはなかなか新鮮だ。あまりイメージがない。

 

須賀は7年間コンサルティングファームに勤めていたこともあり、資本主義の冷徹なルールを叩き込まれている。例えば、コンサルに入社した当初、須賀は先輩の高野にこう言われる。

 

「全部事実なんだ。隠すつもりもない。俺が残酷なわけではない。ファームが残酷なわけでもない。選ぶやつがいて、選ばれるやつがいる。扉を閉めたら選ばれないやつだけが残っている。選ばれないまま檻の中にいたらどこかで殺処分になる。だから不安になる気持ちはわかる。だがな」

 

このような「市場に評価されなければ生き残れない」というグローバル資本主義の競争原理が 須賀の価値観として叩き込まれている。須賀はこの行動原理に従い、プロジェクトをこなしていく。ただ市場に必要とされるために。

バンコクで時間を持て余した生活を送っていた須賀だが、かつての上司高野から依頼を受ける。その依頼というのが、高野が務めるファンドへの就職を辞退したタイ人女性・アリサから辞退した理由を聞いて欲しいというものだ。ここに「依頼と代行の物語」が顔を出す。

 

 

依頼と代行という物語の骨格

かつて蓮實重彦は、『小説から遠く離れて 』で、『羊をめぐる冒険 』と『同時代ゲーム』、そして同時代に書かれた『コインロッカー・ベイビーズ』 などの小説にはすべて同じ物語構造があると指摘した。その物語構造が、「依頼と代行」 による 「宝探し」の物語だ。これらの小説の物語の構造は 「依頼」→「代行」→「出発」→「発見」の流れをとる。

『キャピタル』においてもその物語の流れを踏襲している。須賀が高野から依頼を受け(依頼)、須賀はアリサに会いにいく(代行)。そして、アリサから家族のことについて聞かされる。アリサの家族は会社を経営しており、母や父、姉はすでに死んでいた。また、姉は不思議な力を持っており、その力のおかげで一族は「資本」を守ってきた。アリサが交通事故を起こし内定を辞退した理由はここにあった。すでに亡くなった姉がアリサにファンドに行ってはいけないと忠告したのだ。

だが真相はこれだけでない。『羊をめぐる冒険』がそうであったように、依頼者が黒幕であった。実は高野はアリサと付き合っていた。内定を辞退したと同時に別れ話も切り出されていたのだ。理由がわからなかった高野は須賀に依頼することにした。それだけではなく、高野はアリサの会社を買収対象として狙っていた。会社を狙ってアリサに近づいたことが示唆されている。須賀は高野の手の平の上で踊っていただけなのだ。

須賀がモラトリアムからどのように離脱するかは書き込まれずに終わる。空虚な霞が関の中心で須賀は何を思ったのか。

 

 

 

 

作者へのインタビュー記事

pdmagazine.jp

人生は偶然に左右されるもの / 『マッチポイント』 ウディ・アレン

 

人生は偶然の連続だ。宝くじが当たったり、事故に巻き込まれたり、運命の人に出会ったり、世の中には人が制御できない偶然が多い。「人生は偶然によって大きく左右される」というテーマはウディ・アレンの映画で何度も使われている。

 

『マッチポイント』は偶然や運をテーマにしたウディ・アレン映画の集大成だ。映画のタイトルの『マッチポイント』とはテニスのことだ。マッチポイントを迎えている時に、偶然ボールがネットにひっかかる。相手のコートに落ちたら、勝ち。自分のコートに落ちたら、マッチポイントが消滅し、負けもありうる。ボールがどちらに落ちるかは運だ。

 

主人公のプロテニス選手のクリスは、テニス選手以外の道を模索していた。指導しているテニスクラブがきっかけで、上流階級のトムとその家族と親しくなる。そのうちクリスはトムの妹クロエと付き合うようになるが、トムのフィアンセのノラにも強く惹かれ関係を持ってしまう。 クリスは結局、クロエと結婚し上流階級への道を選んだ。しかし、ある日偶然ノラと再会し、再び関係を持ち始めてしまう。欲望と野望の狭間で、クリスの想いは激しく揺れ動き、偶然に委ねられた結末へ辿りついてしまう。クリスに幸運の女神は微笑むのか?ウディ・アレン版「罪と罰」とも言える『マッチポイント』。是非、結末は自分の目で確かめてみて。

 

 

マッチポイント (字幕版)

マッチポイント (字幕版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 

阿部和重と伊坂幸太郎の夢の共作! / 『キャプテンサンダーボルト』阿部和重 伊坂幸太郎

 伊坂幸太郎阿部和重の共作小説。エンタメと純文学を代表する作家のコラボということもあって、期待に胸を膨らませて読んだ。単行本が発売された当初から話題になっていて読みたかったが、結局文春文庫になっても読まずに新潮文庫の新装版になってから読むことになった。

阿部和重の陰謀的な要素と伊坂幸太郎ストーリーテリングが合わさって面白いエンタメに仕上がっている。伊坂作品をベースにして比較すると伏線回収の量はそこまでないが、陰謀や謎の組織の計画など気になる謎に引っ張られて一気に読んだ。また本編には「村上病」という感染症が登場するのだが、新型コロナのこともあってタイムリーに感じた。「魚が跳ねた」あたりからの怒涛の展開には、ページをめくる手が止まらなくなった。

 

 

『キャプテンサンダーボルト』の物語構造の考察

キャプテンサンダーボルトって「小説から遠く離れて」で言及されている「双子」が「依頼」と「代行」によって「宝探し」をするという物語構造に収まる気がする。

 

 

フランツ・カフカが好きな人にオススメのカフカっぽい作家

 

気がかりな夢から目をさましたら虫になっていたでおなじみのフランツ・カフカ。

代表作の不条理文学『変身』を筆頭に、官僚機構のナンセンスさを描いた『城』や訳の分からない裁判に巻き込まれる男が主人公の『審判』など名作を残していた。カフカの影響もあってか、官僚機構に関わる複雑だったり、煩わしかったりするようなことをカフカエスクと言ったりする。

カフカは生前評価されず、今の世界文学としての地位を確立したのはカフカの死後のことだ。カフカの文学は広く読み継がれ、カフカの影響を受けた作家は数多く存在する。

現在でも、カフカのような不条理や、官僚機構やシステムのナンセンスさを描いている作家は何人かいる。カフカのような、カフカっぽい作家を紹介する。カフカエスクな作家とでもいうのだろうか?

 

 

 

 ブッツァーティ

タタール人の砂漠 (岩波文庫)

タタール人の砂漠 (岩波文庫)

 

幻想的な小説や、不条理を描いた小説から「イタリアのカフカ」と称されているブッツァーティ。カフカほど重苦しい雰囲気がなく読みやすい。オススメは、いつ来るかわからない敵を待ち続ける 『タタール人の砂漠』と『神を見た犬』。

 

 

 残雪

突囲表演 (河出文庫)

突囲表演 (河出文庫)

  • 作者:残雪
  • 発売日: 2020/09/05
  • メディア: 文庫
 

残雪は「中国のカフカ」と称される作家だ。

 

 

 安部公房

壁 (新潮文庫)

壁 (新潮文庫)

 

日本を代表する前衛文学を代表する作家・安部公房。カフカの文学はシュールレアリスムだと言われたりするが、安部公房の作品も超現実的だ。カフカでは人が虫に返信するが、安部公房の作品では、人が壁や棒や赤い繭になってしまう。虫という有機物になるカフカに対して、棒のような無機物になる点に安部公房の特徴がある。安部公房の作品でも官僚的というか役所的なものの弊害が描かれている 。安部公房のオススメ作品として推したいのは、人が壁になってしまう『壁』と、砂漠の中の穴に閉じ込められる男を描いた『砂の女』、失った顔を取り戻そうとして仮面制作に取り組む男を描いた『他人の顔』だ。

 

 

三崎亜記

三崎亜記は、公共事業としての見えない戦争を描いた『となり町戦争』でデビューした作家だ。三崎亜記は不条理をテーマにした作品を数多く執筆している。人が失われるなどの理不尽な不条理を前にした時の人間を描くのが上手い。また、いわゆる「お役所的な」縦割りなど、官僚的ナンセンスを表現した作品も多く描いている。三崎亜記のオススメは、となり町との見えない戦争を描いた『となり町戦争』、本物とニセモノの妻に関する話の『ニセモノの妻』、鼓笛隊が日本に襲来する様子や彼女の痕跡が展示された展覧会の話など短編を集めた『鼓笛隊の襲来』だ。

 

 

 砂川文次

砂川文次は自衛隊出身の異例の作家だ。自衛隊にいたということもあってか、自衛隊が関係する話はもちろん、官僚的な組織の不条理を描いた小説を数多く描いている。

『臆病な都市』 では謎の感染症に振り回される世間と組織の不条理が描かれている。また芥川賞候補にもなった小隊では、自衛隊小説と組織の不条理を掛け合わせた会心の一作だ。戦争に参加したこともない自衛隊員が自衛隊という官僚的な組織のメカニズムに身を任せて戦争を行う話だ。砂川文時のオススメは、新興感染症によるパニックを描いた『臆病な都市』と、突如北海道でロシア軍との衝突を余儀無くされる『小隊』、芥川賞を受賞した『ブラックボックス』だ。