日々の栞

本や映画について気ままに書く。理系の元書店員。村上春樹や純文学の考察や感想を書いていく

センター試験で話題になったボクっ娘小説 / 『僕はかぐや姫』 松村 栄子

進学校の女子高で、自らを「僕」と称する文芸部員たち。17歳の魂のゆらぎを鮮烈に描き出した著者のデビュー作「僕はかぐや姫」。

センター試験の国語で出題される小説は毎回話題になってきた。

スピンスピンスピンというパワーワードが話題を集めたこともあったし、江國香織の「デューク」のように感動を誘った問題文もあった。2006年のセンター試験に出題された『僕はかぐや姫』も話題を集めた出題文の一つだろう。

僕はかぐや姫』は松村栄子の作品で、海燕新人文学賞を受賞したデビュー作である。『僕はかぐや姫』の何が話題になったのかというと、主人公の少女の一人称が「僕」なのだ。いわゆるボクっ娘が主人公の小説だ。確かに、センター試験の問題文にボクっ娘が急に出てきたら、ちょっとパニックになるだろう。

『僕はかぐや姫』は、17歳の目から切り取られた世界を繊細かつ鋭い文体で描いている。問題を解いていて、心に迫るものや共感した人も多いだろう。僕もこの問題を解いた後に『僕はかぐや姫』の続きを読みたくなったものだ。しかし『僕はかぐや姫』はその当時絶版になっていたので、読みたくても読むことができなかった。

この度復刊されたので、全体を通して読んでみた。全体を通して、内容に深く踏み込み、読み解いていこうと思う。未読の人はネタバレ注意!

 

 

白雪姫でもシンデレラでもなく、かぐや姫である訳

タイトルが『僕はかぐや姫』となっているように、「かぐや姫」はこの作品を読み解くキーワードだ。主人公の千田裕美は「かぐや姫」にこだわりを見せる。白雪姫でもシンデレラでもなく、かぐや姫に。

千田裕美は文芸部の合宿で、好きな作品を語る際に「竹取物語」を上げる。

 

裕生は何と言ったのだったか。…裕生が尋ねられたときには、すでに彼女の知る作家たちはあらかた出し尽くされていて、戸惑って……〈かぐやひめ〉だと彼女は言った。

「竹取物語?」

「いいえ、〈かぐやひめ〉の絵本です。朝倉摂の挿絵のある紫の表紙の。幼稚園の頃、僕はどうしてもそれが欲しくて……」           p40

 

裕美は「白雪姫やシンデレラよりは月に帰るかぐや姫に心を打たれた」のであった。羨ましいという気持ちを持って。

では、なぜ「かぐや姫」なのだろうか?ここに作品を読み解くヒントがある。白雪姫・シンデレラとかぐや姫との間にある決定的な違い、それは作中で裕美の元カレ藤井くんが指摘している。

「かぐや姫って結局、男のものになんないのな」

 

そう、白雪姫とシンデレラは王子様と結ばれるが、かぐや姫は帝と結ばれず月に帰ってしまう。その後の文章はこう続く。

 

じゃあ、と彼が去ってから裕生はそこにしばらく立ち尽くしていた。なるほど、自分が恐れているのはそのことかもしれない。〈僕〉が忌避しているのはそのことかもしれない。その具体性はいたく彼女の自尊心を傷つけた。

 

裕美は「女性」として男性から扱われることを避けていたのだ。実際に、裕美は元カレの藤井君に純朴な男性像を思い描いていた。制欲から切り離された男性像だ。そんな裕美の男性観と実際の藤井君には齟齬があった。年頃の男子はそんなにも純朴ではない。

それに気づいた裕美は、「女性性」を受け入れることができずに藤井君を振ったのだろう。裕美は自分が対象としての「女性性」を受け入れる準備ができていなかった。だから「僕」という一人称で自己を外界から守っていたのだ。

 

 

「僕」という一人称

では裕美が「僕」という一人称を使い始めたのはいつからだろうか?それは自分が女性であることを突きつけられる瞬間、初潮の時からだ。裕美と穂香の会話にこんな記載がある。

 

「いつから〈僕〉って言い始めたの?」

「そんなの覚えてないよお」

嘘だった。人より遅い初潮を迎えた頃からだったと裕生は記憶している。けれどもそんな話を他人にしたくはない。ましてこんな明るい午後、彫刻のような想香を前にして。

 

自分は女性であることを認識させられる初潮の頃から、裕美は「僕」という一人称を使い始めたのだ。性の匂いがない性以前の透明な人間性を求めて。

「僕」という一人称について、裕美はこう語っている。

 

女らしくするのが嫌だった。優等生らしくするのが嫌だった。人間らしくするのも嫌だった。どれも自分を間違って塗りつぶす、そう感じたのはいつ頃だったろう。器用にこなしていた(らしさ〉のすべてが疎ましくなって、すべてを濾過するように〈僕〉になり、そうしたらひどく解放された気がした。女子高に来ると他にも〈僕〉たちはいっばいいて、裕生はのびのびと〈僕〉であることができた。

裕美の通う高校では、裕美以外にも「僕」という一人称を使う女子はいる。尚子もかつてはそうだった。だが、尚子は「僕」という一人称を捨て、「あたし」という一人称に移行した。尚子は「女性性」を拒絶することをやめ、受け入れたのだ。それに対して裕美は受け入れられずにいた。

 

ボーヴォワールは「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」と言っているが、裕美は「女らしさ」をただ受け入れることを拒んだのだ。

 

 

「僕」から「わたし」へ

この『僕はかぐや姫』のストーリーは、裕美が対象としての女性性を受け入れる準備をしていくのを描いた小説だ。ストーリーラインの重要なところはそこになる。そしてそれを象徴するのが、一人称が「僕」から「わたし」に変わったことだ。

裕美は「僕」の一人称の世界にとどまるのではなく、「わたし」へと変化を遂げる。「僕」という一人称を使って女性性を受け入れるかどうかの悩みから離れて言ったのだ。「女性性」を受け入れる準備を整え、「僕」という一人称を裕美が捨てたところでこの小説は終わる。

 

『僕はかぐや姫』は、一人の少女が女性性を受け入れる準備をし、少女の世界から飛び出すまでを繊細な文体で描いた心に刺さる小説だ。

 

 

 

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