日々の栞

本や映画について気ままに書く。理系の元書店員。村上春樹や純文学の考察や感想を書いていく

第164回芥川賞受賞作を全力で予想してみた!

第164回芥川龍之介賞受賞作を予想してみた!

1月といえば芥川賞受賞作発表の月だ。今回の候補作品を全部読んでみて芥川賞受賞作を予想してみた。今回の候補作はどれもレベルが高く甲乙付け難かった。今回の候補作は、クリープハイプ尾崎世界観の『母影』や、アイドルを推すこと題材にした『推し、燃ゆ』など話題作が多い。

さらには、今回の候補作は、「新潮」・「群像」・「文藝」・「文學界」・「すばる」の五大文芸誌からそれぞれ選出されている。これって意外と珍しい。純文学雑誌バトルロイヤル感があってゾクゾクする。まず先に僕の予想を書いておく。

 

芥川賞

乗代雄介『旅する練習』と宇佐見りん『推し、燃ゆ』のW受賞と予想!

 

この2作はコロナ禍やアイドルを推すという文化など、今の時代を反映した内容となってる。僕は芥川賞の受賞作の役割には、その当時の時代を反映しているというものがあると思っている。その点で、この2作はぴったりじゃないかと思う。

 

次にそれぞれの作品の選評的なものを書いておく。選評って何様だよと思った方も多いだろうが、生暖かい目で見守ってもらえたら幸いだ。

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「歩く、書く、蹴る」の練習の旅 /『旅する練習』 乗代 雄介

中学入学を前にしたサッカー少女と小説家の叔父。 
2020年、コロナ禍で予定がなくなった春休み、 ふたりは利根川沿いに、徒歩で 鹿島アントラーズの本拠地を目指す旅に出る。 

新型コロナウイルスが流行してから、日常の景色が一変した。マスクは必需品になったし、密な場所やイベントは随分と減った。今振り返ると、コロナ流行前の何気ない日常がこんなにも愛おしいものだったのかと思う。

乗代雄介の『旅する練習』は、新型コロナウイルスが流行する直前とその後から日常を描いた小説だ。ちょうど最初の緊急事態宣言が出る前の2020年の3月の話である。

タイトルに旅と入るように、サッカー少女・亜美(あび)と小説家である叔父が利根川沿いに鹿島アントラーズの本拠地を目指すという内容だ。千葉の我孫子からスタートし鹿島アントラーズの本拠地を目指し、その道中で二人は「練習」に励む。サッカー少女・亜美はドリブルやリフティングをしながら歩き、叔父は行く先々の名所の描写に励む。「歩く、書く、蹴る」の「練習の旅」だ。なぜ鹿島アントラーズの本拠地に行くのかというと、亜美が近所の合宿所から持ち帰ってしまった本を返すためだ。

乗代雄介の小説は、書物の題名や引用、エピソードが読み込まれるのが特徴だ。その特徴は『旅する練習』でも健在で、柳田國男小島信夫それに加えてサッカー選手のジーコの引用やエピソードが挿入される。さらにはおジャ魔女どれみ真言宗も重要なモチーフとなっている。

『旅する練習』は、叔父が語り手として亜美との「練習の旅」を描くという構造になっている。「練習の旅」の時点で描いた名所の描写に、後から当時の様子を細かく描いたという体裁だ。『旅する練習』はこの構造にちょっとした仕掛けがある。語りの工夫によって、『旅する練習』は最初に読んだ時と2度目に読んだ時とでは印象が異なる小説に変貌する。僕は1度目に読んだときは衝撃を受けて、読み返したときは語りに隠された真実に心を揺さぶられた。

下記では、内容の詳細に触れ『旅する練習』について読み解いていこうと思う。未読の人はネタバレに気をつけて。

 

 

新型コロナウイルス感染拡大のために臨時休校→「練習の旅」へ

 

亜美の中学受験が無事に終わったところからこの小説は始まる。亜美はサッカーが大好きで、強豪校に行くために中学受験をした。無事に中学受験が終わったので、亜美と叔父は鹿島アントラーズの試合を見にいこうとする。試合だけが目的ではなくて、返すのを忘れていた本を合宿所に返すためでもある。

しかし、新型コロナウィルスの感染拡大で、亜美の計画は狂ってしまった。記憶にも新しいと思うが、あの頃は感染の拡大初期で、学校は休校になっていた。新型コロナにより日常が一変したことを、この小説は丹念に書き込んでいく。

鹿島アントラーズの試合もなくなり、計画も中止になりそうであったが、語り手の叔父があることを思いつく。それは、千葉の我孫子から利根川沿いに鹿島アントラーズの本拠地まで歩くというものだ。ただ歩くだけではない。亜美はドリブルとリフティングの練習を、叔父は情景描写の練習をする。「練習の旅」だ。

 

この『旅の練習』という小説は、「練習の旅」のことを後に振り返り、書き上げたという体裁になっている。『旅の練習』の本文には、「練習の旅」の時に叔父が書いた情景描写が挿入され、その当時を振り返りながら叔父が筆を進める。情景描写には、亜美のリフティングの回数も書き込まれていて、なんだか微笑ましい。

 

基本的には利根川沿いに歩くのだけれど、叔父が行きたいと思った場所に立ち寄り、情景描写の練習を行う。「滝井孝作仮寓跡」や「鳥の博物館」などだ。何気ない日常を描写しているが、コロナ禍の影響で「鳥の美術館」が閉館しているなど、新型コロナウィルスがもたらした日常の変化が時折顔を出す。もうあの日常は失われてしまったのだ。

 

亜美と叔父は寄り道をしながらも旅を続ける。旅には思いもがけない出会いがあるというが、亜美と叔父は、同じく鹿島への旅をしているみどりさんと出会う。意気投合して三人は一緒に鹿島に向かうことになる。

 

 

「練習の旅」を通じて亜美は成長する

この練習の旅を通じて亜美は成長した。サッカーの面でもそうだし、精神的な面でもだ。みどりさんが旅の途中にいなくなってしまった時も、亜美の言葉がみどりを救った。みどりは内定が決まっていたのだが、新型コロナの影響で内定先から辞退しないかと言われ、悩んでいたのだ。そんなみどりを救ったのは亜美の言葉だった。

 

「この旅のおかげでわかったの。本当に大切なことを見つけて、それに自分を合わせて生きるのって、すっごく楽しい」

 

この言葉がきっかけで、みどりは内定を辞退し、自分が好きな鹿島の街で生きることを決意する。旅のおかげでみどりも成長できたし、亜美も成長できた。『旅の練習』は「練習の旅」を通じた亜美の成長譚だと思っていた。最後のページを読むまでは...

 

 

叔父はなぜこの文章を書いたのか?

 

話が変わるが、なぜ叔父はこの文章を書いたのだろうか?練習のためだろうか?キーワードは「忍耐」だ。後半にいくにつれてこの小説には「忍耐」というワードが頻出する。

叔父は一体何に忍び耐えて文章を書き上げたのだろうか?本文中にこんな一節がある。

ただ大事なのは発願である。もう会えないことがわかっている者の姿を景色の裏へ見ようとして見えない、しかしどうしようもなく鮮やかに思い出されるものがある。その感動を正確に書き取るために昂ぶる気を抑えようとするこの忍耐も、終わりに近づいてきた。

 叔父はもう会うことができない者への思いを抑えながらこの文章を書いていたのだ。しかし、完全に抑えることができず、地の文に思いが染み出していた。それは終わりに進むにつれて顕著になる。亜美を慈しむような文章が時折挟まれていたが、後半になってその意味に気づく。叔父は亜美にもう会うことができないのだ。気持ちを抑えて描き続けた叔父のことを思うと胸が熱くなる。

私がこの目で見た亜美の姿が、同じように流れる言葉が、あの時はこらえていたはずの感動が、あの浜へ私を飛ばして手が止まる。そのたびにまた会えるけれど、もう会えない。この練習の息継ぎの中でしか、我々が会うことはない。

最後には抑えきれない思いが溢れ出ていて、涙を誘う。

亜美が生まれて初めてただ一冊、楽しんで読んだ本の題名を訊いておけばよかった。この旅で何度呼んだか知れない名前の由来を教えてやればよかった。

叔父は、死んだ亜美への思いを抑えながら「練習の旅」の記憶を書いていたのだ。亜美を失ってから、叔父はなぜなの時こうしていなかったのかという思いに押しつぶされる。新型コロナウィルスが流行った後になって、以前の生活がどんなに幸せなものだったかを認識した私たちのように。亜美は「練習の旅」の後、交通事故で唐突に命を落としてしまったのだ。

新型コロナが流行し、唐突に日常を失った自分にも重なるように感じた小説だった。

 

 

旅する練習

旅する練習

  • 作者:乗代 雄介
  • 発売日: 2021/01/14
  • メディア: 単行本
 

 

 

 

推しに愛される妄想が現実を変える / 『コンジュジ』 木崎 みつ子

芥川賞候補にもあがっていた木崎みつ子の『コンジュジ』を読んだ。

木崎みつ子はこの『コンジュジ』ですばる文学賞を受賞しデビューしている。『コンジュジ』で芥川賞を受賞すれば、すばる文学賞受賞作で芥川賞受賞という金原ひとみ以来の快挙となる。『コンジュジ』だが、かなり面白いし構成・文章とレベルが高い。芥川賞とるぐらいのレベルにはあると思った。文章もこなれていて、ユーモア溢れる表現は魅力的だ。次の作品が楽しみな作家だ。

『コンジュジ』はポルトガル語で配偶者を意味する。実父から性暴力を受ける現実、架空のバンドの緻密な自伝、好きなバンドのボーカルに愛されているという妄想、の3つの物語が交錯する重層的な小説になっている。親からの性暴力という出口のない辛い現実を、好きなミュージシャンに愛されているという妄想(フィクション)で塗り替えて生きていく「せれな」の姿を描いている。フィクションの大切な役割の一つに、辛い現実から避難所という意味合いがあるのではないかと考えさせられた。

 

 

実父からの性的虐待という辛い現実パート

せれなの父親は、仕事を失い、妻にも愛想をつかされて家を出ていかれる。父親はそのショックからリストカットするなど精神が不安定だった。せれなは家事を行ったりと精神不安定な父親を支えていた。ある日、泥酔した父はブラジル人の女を連れ帰ってくる。翌日に父から「今日からのこの家のお母さん」だと紹介され、ブラジル人の女性との共同生活が始まる。
 
そんな崩壊気味の家庭で過ごすせれなの楽しみは、今は亡きリアンの追っかけをし妄想を膨らますことだ。リアンはイギリスのロックバンド「ザ・カップス」のボーカルだ。せれなは、テレビの追悼番組でリアンのことを知った。リアンは三十二歳で既にこの世を去っていたが、せれなはリアンに想いを膨らましていく。CDを読んだり、自伝を読んだりとリアンの追っかけを始める。そして、せれなはリアンの付き人となりツアーに同行する妄想を始める。
 
せれなの父親だが、ブラジル人の女性とも関係が上手くいかず、ブラジル人の女性はついには出て行ってしまう。そこから、父は気がおかしくなったのかせれなに手を出すようになる。せれなは父親に犯されてしまう。辛い現実に直面したせれなを救ったのはリアンだった。

 

リアンの自伝パート

せれなの現実のパートの間には、自伝の形でザカップスのリアンの生い立ちについて語られている。バンドの結成秘話から、バンドの全盛期、メンバー間の確執、リアンの乱れた私生活など緻密に描かれている。バンドのエピソードがかなり面白く、文章もユーモアに溢れていて読んでいて楽しい。バンドマンにありがちだが、リアンは女性関係がだらしなく不倫したり色んな女性と関係を持っていた。これがせれなを傷つけることになるのだが。

 

 

リアンが現実に登場する現実と妄想が入り混じったパート

せれなが父に犯されてから、リアンは妄想として登場するようになる。出口のない暴力から精神を守るために、せれなは現実と妄想をごちゃ混ぜにするようになる。リアンが実在するかのように振る舞うのだ。父親が死んだ後、せれなは一人暮らしをはじめリアンとの「同棲」を始める。リアンの女性関係などを巡って二人は言い争い(現実にはせれなの一人芝居なのだが)、リアンが出て行ってしまう。

引っ越してからせれなは父親からの性的虐待の記憶がフラッシュバックし苦しめられることになる。リアンとツアーに同行していた時の妄想の裏では、性的虐待が行われていたことが明かされる。辛い現実に耐えるために現実を捻じ曲げていたのだ。

苦しむ中でせれなはリアンも父親から性的虐待を受けていたことを知る。終盤ではせれなとリアンの人生が重なり、現実と妄想が収斂していく。

 

 

静謐なラストシーン

最後にせれなは空想の中で、リアンのお墓を訪れる。せれなはお墓を掘り返し、リアンの棺の中に入る。現実には仕事に追われる一日が待ち受けていることを知りながらも、せれなはリアンとともに棺に入り埋められることを望むのだ。これはリアンの葬式であると同時に、せれなとリアンの結婚式であるように思えた。過去のトラウマで、体の半分を奪われたも同然のせれなは自身を空想のリアンとともに埋葬したのだ。

たかが空想でも、出口のない辛い現実からの避難所にはなる。フィクションの役割について再確認できた良作だった。

 

 

奇妙な図書館からの脱出 / 『図書館奇譚』 村上 春樹

図書館の地下のその奥深く、羊男と恐怖と美少女のはざまで、ぼくは新月の闇を待っていた。

図書館奇譚』は一般的にはメジャーな作品ではないと思うけれど、村上作品ではお馴染みの「羊男」というキャラクターが出てきたり、超現実的な展開であったり、異世界に行くストーリーであったりと、村上春樹のエッセンスが詰め込まれている。

村上春樹版の「不思議な国のアリス」のような小説だ。今流行りの脱出ゲーム風に言うと、「奇妙な図書館からの脱出」と言ったところか。村上春樹作品の中では『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』に雰囲気が近いかな。大人向けのファンタジー小説だ。

この記事では謎めいた『図書館奇譚』について本文に基づき考察・解説してみようと思う。

キーワードは「母殺し」(母からの自立)だ。

 

 

『図書館奇譚』は「母殺し」の物語?

『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』に近いテイストの『図書館奇譚』は不条理ファンタジーとして楽しめる。図書館の地下からの脱出というワクワクできる冒険譚であるが、『図書館奇譚』に込められた意味はなんだろうか?

村上春樹の小説だけでも無いが、小説や物語にはメタファー(暗喩)が込められている。そこにはなんらかの象徴的な意味合いや物語的な意味合いが存在する。『図書館奇譚』の物語やメタファーを考察・解釈していこうと思う。

『図書館奇譚』を、主人公の「僕」が図書館の地下に行って帰ってくる中で成長(母離れ)する物語として考察・解説していこうと思う。キーワードは、「母殺し」(母からの自立)だ。

 

 

「僕」の「母殺し」の物語

「母殺し」というと物騒な響きだが、ユングの心理学では「精神的に成長することで母親から離れること」を意味している。簡単にいうと親から自立することだ。

この『図書館奇譚』では母に対する言及が多い。例えば、下記に引用をあげてみよう。

 

時計は六時半を指していた。夕食の時間だ。家では母親が心配しているに違いない。夜中になっても僕が帰らなかったら発狂してしまうかもしれない。そういう母親なのだ。いつも悪いことばかり想像するのだ。悪いことを想像するかテレビを観ているか、そのどちらかだ。彼女は僕のむくどりにちゃんと御をやってくれるだろうか? 

 

図書館の地下に閉じ込められた後のシーンだ。子どもが帰ってこなかったら心配するのは当たり前だが、「僕」はかなり母親を恐れているような印象を受ける。このように「僕」が母親を恐れているような描写がいくつか書き込まれている。「僕」は母親からの自立ができていないのだ。

では、どのようにして「僕」は母親から自立(母殺し)するのだろう。それは「老人」と言う強敵を倒して図書館の地下から脱出することで、象徴的に自立(母殺し)を達成するのである。ちなみに「老人」のような権威的な存在を乗り越えるような物語の型を「父殺し」と言ったりする。

 

母殺しを象徴するのが、靴のシーンだ。「僕」は母親に買ってもらった靴を履いている。これは母親に庇護下にあり、自分の足で歩くことができていない(自立できていない)ことを暗示している。

でもそのおかげで僕はまた靴のことを思いだした。それは誕生日に母親が買ってくれた、とても大事な革靴だったのだ。こつんこつんという気持の良い音のする立派な革靴だ。

「僕」は図書館からの脱出を試みる中で、母親からもらった靴を図書館の地下に置いてきてしまう。その後。「僕」は文字通り自分の素足で図書館からの脱出を試みるのだ。それは母親の庇護の下から離れ、自分の足で歩く(自立する)ことを象徴していると言えるのではないだろうか。そうやって「僕」は母親からの自立(母殺し)を象徴的な意味合いで達成したのだ。

 

「僕」が図書館から帰ってきた後、母親はくつについては何も言わなかった。そして悲しそうな顔をしていた。これは「僕」が母から自立してしまったことを寂しく思っているからではないだろうか。子が親離れするのは、親にとって嬉しくも寂しいものだと思う。

 

この『図書館奇譚』は「母殺し」を象徴的に描いた小説だったが、ラストシーンでは「僕」の母が現実的に死んでしまう。

先週の火曜日、母親が死んだ。ひっそりとした葬儀があり、僕は一人ぼっちになった。僕は今、午前二時の間の中で、あの図書館の地下室のことを考えている。闇の奥はとても深い。まるで新月の闇みたいだ。

母の死がきっかけとなり、母親からの自立を果たした図書館での出来事を思い出したのだろう。

 

ここで冒頭のシーンの文書について考えてみよう。

それでは本に吸い取られた振動はいったいどうなるのだろう?どうにもならない。振動はただ単に消え失せただけなのだ。振動はどうせいつか消える。なぜならこの世界に永久運動は存在しないからだ。永久運動は永久に存在しない。

冒頭では「永久運動」について述べられている。永久運動は存在しないのと同様に、母の元にずっと止まり続ける子どもはいない。いつかは母から離れて自立していく。そのようなことを暗示しているように思える。

このように『図書館奇譚』には、子が母親から自立する「母殺しの物語」が隠されているのである。

 

 

村上春樹でおなじみの異世界に行って帰ってくる物語構造

『図書館奇譚』の物語構造について別の面から考えてみよう。『図書館奇譚』は簡単にまとめると、「図書館の地下」と言う異世界に行って帰ってくる話だ。

この構造は『図書館奇譚』に限った話ではない。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』も同様の構造であり、『1Q84』も月が2つ存在する「1Q84年」と言う異世界に迷いこんで脱出する話だ。

このように、村上春樹の長編小説はその大半が「現実的・象徴的な異世界に行って帰ってくる」という物語構造になっている。他の村上春樹作品を読む際にも参考してほしい。

 

 

謎の少女・羊男は何を意味するのか?

今度は登場人物について考察してみよう。

「羊男」と「少女」についてだ。この二人は「僕」が地下世界から脱出するときに助けてくれた人物だ。この二人のキャラクターは、「僕」の内面の象徴ではないかと考察している。

「羊男」は恐れや怯えなどの負の面「少女」の方が勇敢さなどの正の面の象徴だ。

ラストシーンでは、「少女」が「僕」を助け、脱出を果たしていた。「僕」の勇敢な部分が敵に打ち勝ったと言うところだろう。

反対に「羊男」は脱出後に消滅してしまう。これは「僕」が過去のトラウマでもある犬と対峙し、乗り越えることで「怖れ」などの負の感情に打ち勝ったと言う象徴ではないだろうか。

「羊男」についてだが、このキャラクターは『羊をめぐる冒険』に登場している。「羊男」の活躍が気になる方は、『羊をめぐる冒険』の方も読んでみてほしい。

 

 

 

『図書館奇譚』には4つのバージョンがある

この『図書館奇譚』には、4つのバージョンがある。カンガルー日和に収録されている『図書館奇譚』、『村上春樹全作品1979〜1989』に収録されたバージョン、佐々木マキの絵とコラボした『ふしぎな図書館』、そしてカット・メンシックのイラストと組み合わせた『図書館奇譚』の4つだ。この4つを読み比べると通っぽい!?

 

こちらは通常バージョン。

 

全集に入る時に手直しされている。

 

『図書館奇譚』を元に、佐々木マキの絵を追加した絵本になっている。絵本として出版されたので、子どもにとって難しい表現は相応しい言葉遣いに改められている。(例)「オスマン・トルコ帝国の収税政策」→「オスマントルコ帝国の税金のあつめ方」、「禁帯出」→「貸しだし禁止」、「本当に君の意志でここに来たのかい?」→「ほんとうにここに、本を読みにきたくてきたんだね?」など。 

 

こちらはカット・メンシックのイラストが追加されたバージョンの『図書館奇譚』。

同様に『ねむり』や『パン屋再襲撃』などもカット・メンシックの挿絵が追加されたバージョンで出版されている。

残されたモノが突きつける存在の不在 /「トニー滝谷」 村上 春樹

 村上春樹は喪失をテーマに数多くの小説を書いてきた。有名な『ノルウェイの森』もそうだし、『羊をめぐる冒険』や『風の歌を聴け』もそうだ。様々な角度や視点から「喪失」を描いてきた村上春樹だが、「トニー滝谷」という短編は残された「遺品」が存在の不在を訴えかける話だ。残された「モノ」が、失った人の影となって苦しめるのだ。

トニー滝谷について考察や感想を書いていこうと思う。

 

 

孤独なトニー滝谷

「トニー滝谷」は『レキシントンの幽霊』という短編集に収録されている。トニー滝谷とは変わった名前だが、主人公の名前だ。トニーと名前にあるが、主人公はハーフではない。ではトニーはなんだと思うかもしれないが、父の滝谷省三郎が友人のアメリカ人少佐の名前から取ったものである。

父の滝谷省三郎はトニー滝谷が生まれた時に妻を亡くしている。それもあってかトニー滝谷は孤独に慣れた人間に育った。そんなトニー滝谷にも孤独に耐えられなくなる時が訪れる。トニー滝谷は恋に落ちたのだ。彼は恋に落ちた相手に求婚して、無事に結婚することができた。トニー滝谷の孤独はここで終わりを迎えたように思えたが、悲劇が彼を襲う。

 

 

服に異様な執着を見せる妻

トニー滝谷は恋に落ちた相手と無事に結婚することができたが、妻には1つ問題があった。それは服に異様な執着を見せるということだ。妻は服を買うことに飽きることがなく、病的なまでに服を買った。服の量は、一人じゃ到底着れない量までになっていた。

異様に服を買う妻」は、欲望が欲望を刺激する資本主義社会を象徴しているように思える。他人の欲望を見て、自分もその欲望を模倣するというものだ。例えるなら、インフルエンサーや有名人が使っているものが自分も欲しくなるというものだ。ここでは、自分が有名人の欲望を模倣して、あたかも自分の欲望と錯覚している。

話を戻そう。服の量が膨れ上がり、トニー滝谷は妻に服のことで注意する。妻は真摯に受け止めて、買った服を返品しに行った。その帰り道で妻は返品した服のことを考えている中で交通事故に遭遇する。妻は交通事故で死んでしまったのだ。またしても、トニー滝谷は孤独になってしまった。残されたのは妻が大量に買った服だった。

 

 

残されたモノが突きつける存在の不在

トニー滝谷は妻が大量に残した衣服をどうするかに迷う。トニー滝谷は、妻と同じ体型のアルバイトを雇い、残された服を着てもらうことにした。妻のいなくなった日常に体を慣らしていくために。

 

その服は彼には妻が残していった影のように見えた。サイズ7の彼女の影が折り重なるように何列にも並んで、ハンガーから下がっていた。それは人間の存在が内包していた無限の(少なくとも理論的には無限の)可能性のサンプルを幾つか集めてぶらさげたもののように見えた。

 

しかし、妻の残した服を見ていると、妻の不在を突きつけてくるようで、トニー滝谷は耐えられなくなった。結局アルバイトもなかったことにして、服も処分することにしたのだ。トニー滝谷は本当に孤独になってしまった。

妻の残した服は、妻の存在の影となってトニー滝谷を苦しめた。喪失を感じるというのは、日常の中に、失ったものが存在していた履歴を見ることによって生じるのではないかと思う。遺品を見ているとその人の生前の様子を思い浮かべるように。妻が存在していたことの履歴が、トニー滝谷にとっては服だった。妻の残した服は妻の存在の影となってトニー滝谷に「妻がもうこの世にはいない」という残酷な真実を突きつける。

数学では1ー1=0となるが、現実では違う。人がいなくなってしまった時には空白がただ残されるのではない。その人の記憶や存在の不在が残るのだ。1ー1=0ではない。妻を失うことでトニー滝谷が陥ったのは、元の孤独ではなく、妻がいなくなった分より深い孤独なのだ。

 

 

トニー滝谷は映画化もされている 

トニー滝谷

トニー滝谷

  • 発売日: 2018/11/01
  • メディア: Prime Video
 

この『トニー滝谷』だが、映画化もされている。監督の市川準、イッセー尾形は村上春樹のファンであるようだ。坂本龍一の音楽が映画に彩りを与えている。映画では原作にはないエピローグも追加されている。

 

 

 

クリープハイプ尾崎世界観も芥川賞候補に!第164回芥川龍之介賞の候補作まとめ

第164回芥川龍之介賞の候補作が発表された!

1月といえば芥川賞受賞作発表の月ですね。今回の候補作品は話題作が豊富。クリープハイプの尾崎世界観も芥川賞候補にノミネートされています。今回の芥川賞候補って「新潮」・「群像」・「文藝」・「文學界」・「すばる」の五大文芸誌からそれぞれ候補が出てる!今回は芥川賞候補にノミネートされた小説と作家についてざっくり紹介したいと思います。

 

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丑年の始まりにぴったりな小説 / 「牛」 岡本 綺堂

あけましておめでとうございます。今年は丑年なので、タイトルに牛と入る小説を探していたらたまたま出会ったのが『牛』だ。まさに丑年にぴったり。作者は岡本綺堂で、他の作品には『半七捕物帳』などがある。また怪奇譚なども書いており、『牛』にも少しホラー要素がある。

『牛』は、青年が老人から「干支の牛にちなんだ話」について行く話だ。青年は「牛・新年・芸妓」に関連する話を依頼して、老人がそれに答えたのだ。まさに正月あたりの話なので、タイミングがぴったりな小説だった。

内容は、正月に牛車の牛が大暴れして怪我人や死人が出る話だ。牛が大暴れしたのはひょんな偶然であり、色々と考えさせられる。大半は牛がひたすらに大暴れする話なのだが、最後に一捻りある。

牛に襲われた芸妓の一人は一命をとりとめていた。その芸妓は、男と駆け落ちしようとするのだが、牛の姿を見かけて腰を抜かしてしまう。結局、それが原因で芸妓と男の駆け落ちはしっぱいしてしまう。芸妓が見かけた「牛」だが、芸妓以外にその牛の姿を見かけたものはいなかった。芸妓が見たのはトラウマによる幻覚だったのだろうか、それとも…

サクッと読める短編小説なので、丑年記念に読んでみてください。著作権が切れているみたいなので、青空文庫電子書籍で無料で読めます。

 

牛つながりで、昔の話になるが天牛堺書店が倒産してしまったのは悲しすぎるな。 

 

牛