日々の栞

本や映画について気ままに書く。理系の元書店員。村上春樹や純文学の考察や感想を書いていく

奇妙な図書館からの脱出 / 『図書館奇譚』 村上 春樹

図書館の地下のその奥深く、羊男と恐怖と美少女のはざまで、ぼくは新月の闇を待っていた。

図書館奇譚』は一般的にはメジャーな作品ではないと思うけれど、村上作品ではお馴染みの「羊男」というキャラクターが出てきたり、超現実的な展開であったり、異世界に行くストーリーであったりと、村上春樹のエッセンスが詰め込まれている。

村上春樹版の「不思議な国のアリス」のような小説だ。今流行りの脱出ゲーム風に言うと、「奇妙な図書館からの脱出」と言ったところか。村上春樹作品の中では『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』に雰囲気が近いかな。大人向けのファンタジー小説だ。

この記事では謎めいた『図書館奇譚』について本文に基づき考察・解説してみようと思う。

キーワードは「母殺し」(母からの自立)だ。

 

 

『図書館奇譚』は「母殺し」の物語?

『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』に近いテイストの『図書館奇譚』は不条理ファンタジーとして楽しめる。図書館の地下からの脱出というワクワクできる冒険譚であるが、『図書館奇譚』に込められた意味はなんだろうか?

村上春樹の小説だけでも無いが、小説や物語にはメタファー(暗喩)が込められている。そこにはなんらかの象徴的な意味合いや物語的な意味合いが存在する。『図書館奇譚』の物語やメタファーを考察・解釈していこうと思う。

『図書館奇譚』を、主人公の「僕」が図書館の地下に行って帰ってくる中で成長(母離れ)する物語として考察・解説していこうと思う。キーワードは、「母殺し」(母からの自立)だ。

 

 

「僕」の「母殺し」の物語

「母殺し」というと物騒な響きだが、ユングの心理学では「精神的に成長することで母親から離れること」を意味している。簡単にいうと親から自立することだ。

この『図書館奇譚』では母に対する言及が多い。例えば、下記に引用をあげてみよう。

 

時計は六時半を指していた。夕食の時間だ。家では母親が心配しているに違いない。夜中になっても僕が帰らなかったら発狂してしまうかもしれない。そういう母親なのだ。いつも悪いことばかり想像するのだ。悪いことを想像するかテレビを観ているか、そのどちらかだ。彼女は僕のむくどりにちゃんと御をやってくれるだろうか? 

 

図書館の地下に閉じ込められた後のシーンだ。子どもが帰ってこなかったら心配するのは当たり前だが、「僕」はかなり母親を恐れているような印象を受ける。このように「僕」が母親を恐れているような描写がいくつか書き込まれている。「僕」は母親からの自立ができていないのだ。

では、どのようにして「僕」は母親から自立(母殺し)するのだろう。それは「老人」と言う強敵を倒して図書館の地下から脱出することで、象徴的に自立(母殺し)を達成するのである。ちなみに「老人」のような権威的な存在を乗り越えるような物語の型を「父殺し」と言ったりする。

 

母殺しを象徴するのが、靴のシーンだ。「僕」は母親に買ってもらった靴を履いている。これは母親に庇護下にあり、自分の足で歩くことができていない(自立できていない)ことを暗示している。

でもそのおかげで僕はまた靴のことを思いだした。それは誕生日に母親が買ってくれた、とても大事な革靴だったのだ。こつんこつんという気持の良い音のする立派な革靴だ。

「僕」は図書館からの脱出を試みる中で、母親からもらった靴を図書館の地下に置いてきてしまう。その後。「僕」は文字通り自分の素足で図書館からの脱出を試みるのだ。それは母親の庇護の下から離れ、自分の足で歩く(自立する)ことを象徴していると言えるのではないだろうか。そうやって「僕」は母親からの自立(母殺し)を象徴的な意味合いで達成したのだ。

 

「僕」が図書館から帰ってきた後、母親はくつについては何も言わなかった。そして悲しそうな顔をしていた。これは「僕」が母から自立してしまったことを寂しく思っているからではないだろうか。子が親離れするのは、親にとって嬉しくも寂しいものだと思う。

 

この『図書館奇譚』は「母殺し」を象徴的に描いた小説だったが、ラストシーンでは「僕」の母が現実的に死んでしまう。

先週の火曜日、母親が死んだ。ひっそりとした葬儀があり、僕は一人ぼっちになった。僕は今、午前二時の間の中で、あの図書館の地下室のことを考えている。闇の奥はとても深い。まるで新月の闇みたいだ。

母の死がきっかけとなり、母親からの自立を果たした図書館での出来事を思い出したのだろう。

 

ここで冒頭のシーンの文書について考えてみよう。

それでは本に吸い取られた振動はいったいどうなるのだろう?どうにもならない。振動はただ単に消え失せただけなのだ。振動はどうせいつか消える。なぜならこの世界に永久運動は存在しないからだ。永久運動は永久に存在しない。

冒頭では「永久運動」について述べられている。永久運動は存在しないのと同様に、母の元にずっと止まり続ける子どもはいない。いつかは母から離れて自立していく。そのようなことを暗示しているように思える。

このように『図書館奇譚』には、子が母親から自立する「母殺しの物語」が隠されているのである。

 

 

村上春樹でおなじみの異世界に行って帰ってくる物語構造

『図書館奇譚』の物語構造について別の面から考えてみよう。『図書館奇譚』は簡単にまとめると、「図書館の地下」と言う異世界に行って帰ってくる話だ。

この構造は『図書館奇譚』に限った話ではない。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』も同様の構造であり、『1Q84』も月が2つ存在する「1Q84年」と言う異世界に迷いこんで脱出する話だ。

このように、村上春樹の長編小説はその大半が「現実的・象徴的な異世界に行って帰ってくる」という物語構造になっている。他の村上春樹作品を読む際にも参考してほしい。

 

 

謎の少女・羊男は何を意味するのか?

今度は登場人物について考察してみよう。

「羊男」と「少女」についてだ。この二人は「僕」が地下世界から脱出するときに助けてくれた人物だ。この二人のキャラクターは、「僕」の内面の象徴ではないかと考察している。

「羊男」は恐れや怯えなどの負の面「少女」の方が勇敢さなどの正の面の象徴だ。

ラストシーンでは、「少女」が「僕」を助け、脱出を果たしていた。「僕」の勇敢な部分が敵に打ち勝ったと言うところだろう。

反対に「羊男」は脱出後に消滅してしまう。これは「僕」が過去のトラウマでもある犬と対峙し、乗り越えることで「怖れ」などの負の感情に打ち勝ったと言う象徴ではないだろうか。

「羊男」についてだが、このキャラクターは『羊をめぐる冒険』に登場している。「羊男」の活躍が気になる方は、『羊をめぐる冒険』の方も読んでみてほしい。

 

 

 

『図書館奇譚』には4つのバージョンがある

この『図書館奇譚』には、4つのバージョンがある。カンガルー日和に収録されている『図書館奇譚』、『村上春樹全作品1979〜1989』に収録されたバージョン、佐々木マキの絵とコラボした『ふしぎな図書館』、そしてカット・メンシックのイラストと組み合わせた『図書館奇譚』の4つだ。この4つを読み比べると通っぽい!?

 

こちらは通常バージョン。

 

全集に入る時に手直しされている。

 

『図書館奇譚』を元に、佐々木マキの絵を追加した絵本になっている。絵本として出版されたので、子どもにとって難しい表現は相応しい言葉遣いに改められている。(例)「オスマン・トルコ帝国の収税政策」→「オスマントルコ帝国の税金のあつめ方」、「禁帯出」→「貸しだし禁止」、「本当に君の意志でここに来たのかい?」→「ほんとうにここに、本を読みにきたくてきたんだね?」など。 

 

こちらはカット・メンシックのイラストが追加されたバージョンの『図書館奇譚』。

同様に『ねむり』や『パン屋再襲撃』などもカット・メンシックの挿絵が追加されたバージョンで出版されている。