小中学校の同級生にとてもサッカーが上手い子がいた。運動神経がとても良くて、走りも早い。ドリブルをすれば誰も止めることができなかった。おまけに顔がカッコよくて、女の子にとてもモテた。まさしく神童だった。
高校からは名のしれた強豪校に推薦で入学していたはずだ。あの頃の僕は、この子が将来サッカー選手になるだろうと思っていた。
しかし、同窓会で再開してみると、その同級生はサッカー選手ではなくフリーターになっていた。
高校の時もスタメンには入れなかったようだ。その時に僕はなんとも言えない物哀しさを感じた。僕の期待や理想をその同級生に投影していた分、落胆がすごかった。なんだか現実を見せられたかのようだ。
皆さんにも同じような体験はないだろうか?
昔は輝いていた友人に再会したが、その友人は過去の輝きを失っていて、なんだか残念な気持ちになるような体験だ。
そのなんとも言えない気持ちをうまく言語化してくれたのが、村上春樹の「駄目になった王国」という短編だ。『カンガルー日和』という短編集に収録されている。
昔は輝いていた人がその輝きを失ってしまったことを「立派な王国が色あせていく」と例えているのだが、とてもしっくりくる。僕のサッカーが上手な同級生も、言い方が悪いかも知れないが「駄目になった王国」になってしまっていた。
「駄目になった王国」は、主人公の「僕」の友人・Qの話を「駄目になった王国」の挿話で挟んだ構成になっている。
主人公の大学時代の友人Qは欠点のない男だった。「僕」の570倍くらいハンサムで、性格も良かった。ファッションセンスも洗練されていて、スポーツもできた。勉強もそこそこできて、モテる。完璧な男性だ。
そんな友人Qと「僕」はプールサイドで再会する。Qは女の子を連れていた。Qはテレビ局のディレクターのような職についていて、女の方は歌手か女優のようだった。Qは女に番組の降板を伝える役目らしい。Qは無事役目をまっとうしたが、女にコーラを投げつけられてしまう。
輝いていた友人が情けないことになっているのを見るのはなんとも物悲しい。さらに悲しいのは、Qが「僕」に気づかなかったことだ。昔は友人だったけど、今はすっかり忘れてしまっているというのも物哀しい。
輝いていた友人と二人の関係性の2つが「駄目になった王国」になってしまったのだ。
「立派な王国が色あせていくのは」とその記事は語っていた。「二流の共和国が崩壊する時よりずっと物哀しい」
「立派な王国が色あせていくのは二流の共和国が崩壊する時よりずっと物哀しい」というフレーズは、このなんとも言えない気持ちを的確に表現しているなと思う。
自分の同級生の話と村上春樹の「駄目になった王国」を絡めて記事を書いてみた。
けれども、自分も同級生から見ると駄目な王国になってしまったように見えているのかもしれないなってふと思った。
栞の一行
「立派な王国が色あせていくのは」とその記事は語っていた。「二流の共和国が崩壊する時よりずっと物哀しい」
関連記事(『カンガルー日和』に収録されている他の短編について)