日々の栞

本や映画について気ままに書く。理系の元書店員。村上春樹や純文学の考察や感想を書いていく

村上春樹初心者でも読みやすい短編集 / 『カンガルー日和』 村上 春樹

『カンガルー日和』は、村上春樹の短編小説の中でもショートショートに近い小説が集められた短編集だ。印象的な短編が多く収録されていて、村上春樹初心者にもオススメの短編集だ。収録作品を一つ一つ見ていこう。 

 

 

カンガルー日和

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カンガルーの赤ちゃんを見に行くという、男女の何気ない1日を描いた小説だ。この小説の英訳のタイトルが、A Perfect Day for Kangaroosとなっていて、サリンジャーの「バナナフィッシュにうってつけの日(A Perfect Day for Bananafish)」に因んでいるのだろう。「青山通りのスーパー・マーケットで昼下がりの買物を済ませ、コーヒー・ショップでちょっと一服しているといった感じだ。」といった村上春樹特有の比喩が散りばめられている。 「カンガルー日和」は男女の微妙な関係性を描いていて、2人の距離感というか、すれ違いが描き方が上手い様に感じた。

 

 

タクシーに乗った吸血鬼

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 文字通りタクシーの運転手が吸血鬼だったという話。いかにも村上春樹らしい言い回しが随所に散りばめられていて、読んでいて楽しい。あらすじは、タクシー(練馬ナンバー)に乗り込んでいた「僕」は運転手に話しかけられる。「吸血鬼って本当にいると思います?」そこから禅問答のような会話が始まる。 それから話が進み、運転手は吸血鬼の存在を実証できると言った。なぜなら運転手が吸血鬼だからだと。吸血鬼が意味するのはなんだろうかと考えるが、よくわからない。神のメタファーで、神の存在証明的なことをテーマにしているのかとも思うが、この短編は村上春樹的なナンセンスを楽しむべきものだろう。 皆さんも練馬ナンバーのタクシーには気をつけて下さい。吸血鬼の運転手がいるから。 

 

 

あしか祭り

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 「あしか祭り」に登場するあしかは、ある種の象徴性を備えたメタファー的な存在としてあらわされている。といった感じでこの「あしか祭り」は、よくパロディの題材として扱われる村上春樹文体のまわりくどさが前面に押し出された短編。あしかルネサンスとか意味が分からないし、「あしか性を確認する作業」に至っては意味が分からないを通り越して、何か神聖な意味合いがあるのではないかと思えてくる。この短編の「あしか」という言葉は、他の言葉に置き換えても問題がない気がする。カンガルーでもいいし、たまねぎでもいいような気がする。そう言う意味ではあしかは象徴的なものとして機能しているのかもしれない。とにかく色々とシュールなので、少し笑ってしまった。形而学的な意味合いを持ち、メタファーとして機能するあしか。書いてる僕自身もさっぱり意味が分からない。

 

 

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「鏡」という短編は、来客が怖い話を語り合う会で、主催者が最後に自分の話を語るという体裁になっている。このスタイルは村上春樹の別の短編『7番目の男』にも受け継がれている。主人公が語る「鏡」についての話は、こんな内容だ。語り手の「僕」は高校を卒業したあと肉体労働をしながら放浪生活を送っていた。ちょうど学園紛争が盛んな1960年代末の頃のことだ。その事件は中学校に夜警の仕事をしていた時に起こった。その日の夜、「僕」はいつもはない違和感を覚える。夜3時の見回りをした時に、「僕」は暗闇の中で何かの姿を見かける。それは鏡の中の「僕」だった。翌朝確認してみると「僕」が見た鏡は存在しなかった。この話は作り話とも思えるし、本当に怖いのは自分自身だみたいな教訓を引き出せる話の様にも思える。

 

 

バード・バカラックはお好き?

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「もしかしたらやれていたかもしれない」という経験を世の男性たちはどの位経験しているのだろうか。最近「やれたかも委員会」って言う漫画があるけど、『 バード・バカラックはお好き?』はそんな感じの話だ。村上春樹ってそんな感じの話が多いよねと思ったが、冷静に考えれば「やれたかも」ではなく実際に「やっている」。文通をきっかけで出会った男女の淡い関係性が感傷的に描かれている。

 

 

スパゲティーの年に

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 村上春樹といえば何かとスパゲティーを茹でがちだが(アルデンテが多い)、スパゲティーそのものを題材にした短編がある。それが「スパゲティーの年に」だ。

主人公の僕が1971年にスパゲティーを茹で続けるというあらすじ。そう、1971年がスパゲティーの年。「僕」は春、夏、秋と1人でスパゲティーを茹で続ける。スパゲティーは1人で食べるべき料理と「僕」が述べているように、この作品ではスパゲティーが孤独や隠遁と深く結びついているイメージを受ける。「僕」は誰かが訪ねてくる可能性を感じるが、誰も訪れない。知り合いの女から電話がかかってきても、ドタバタに巻き込まれたくないから断っている。人と深く関わらない現代人とその孤独を描いているのか。この主人公の他者との距離感が都市の孤独に繋がっているのだろか。村上春樹は他者との距離感を描くのが凄く巧みな作家だと思う。