日々の栞

本や映画について気ままに書く。理系の元書店員。村上春樹や純文学の考察や感想を書いていく

本当に怖いものは... / 「鏡」 村上 春樹

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鏡は「この世ではないもの」を映すと言われていて、心霊話の題材としてよく使われる。僕も子どもの時に、合わせ鏡をすると「何か良くないもの」が紛れ込むから辞めなさいと言われた記憶がある。ここでいう「何か良くないもの」というのは心霊的でオカルト的なものであるのだが、村上春樹の「」で描かれているのはそういった意味ではなく別の意味での「何か良くないもの」だ。

村上春樹の「鏡」という小説は、『カンガルー日和』という短編集に収録されている10ページほどの短い短編だ。最近では国語の教科書に採用されているらしく、熱心な村上春樹読者でもない人でも読んだことがある人は多いと思う。僕が高校生だった時には国語の教科書に表題作の「カンガルー日和」が採用されていた。授業としては楽しかったが、先生的には村上春樹の文章で問題を作るのは難しいそうだ。

鏡の話に戻ろう。「鏡」という短編は、来客が怖い話を語り合う会で、主催者が最後に自分の話を語るという体裁になっている。

このスタイルは村上春樹の別の短編『七番目の男』にも受け継がれている。この『七番目の男』という話もなかなかに怖い話なので、気になる人は是非読んでみて欲しい。国語の授業で勉強している人にも参考になるように「鏡」の自分なりの解釈を書いていこうと思う。

 

 

鏡に映ったのは?

主人公が語る「鏡」についての話は、こんな内容だ。

語り手の「僕」は高校を卒業したあと肉体労働をしながら放浪生活を送っていた。ちょうど学園紛争が盛んな1960年代末の頃のことだ。その事件は中学校に夜警の仕事をしていた時に起こった。その日の夜、「僕」はいつもはない違和感を覚える。夜3時の見回りをした時に、「僕」は暗闇の中で何かの姿を見かける。それは鏡の中の「僕」だった。

しかし、鏡の中の「僕」は単なる鏡像ではなく、「僕」とは異なるものだった。そう、鏡の中の僕は僕ではなかったのだ。「僕」は恐怖に駆られ、鏡を割って逃げてしまう。しかし、そんな鏡は中学校にはなかった。その影響で「僕」の家には鏡が置かれていないという。

 

 

本当の話か?それとも虚構か?

この作品で問題となるのは、現実と虚構のどちらか?ということだろう。

実像と鏡に映った虚像、鏡に映った自分が本当の自分なのか、そもそもこの話は本当なのか・虚構なのかといったところか。村上春樹作品の特徴として、生と死・あちら側とこちら側といったように、二つの世界を往き来するという構造がよく見られる。『ノルウェイの森』もそんな構造を部分的に抱えているし、『海辺のカフカ』や『1Q84』でもこの構造が見られる。

まず「僕」の語った話は本当なのかという所を見てみよう。「僕」はこの怪談を語る会の主催であるわけだから、みんなを楽しませるために鏡の話という「虚構」を作り上げたという解釈もできる。家には一つも鏡が置かれていないという見事なオチもつけて。まあ、それも一つの解釈だ。

この話が本当の話かどうかは解釈次第でもあるので置いといて、この「鏡」のエピソードが何を意味するのか考えてみようと思う。

まず「僕」は、自分自身のもう一つの面に向き合ったという解釈ができそうな気がする。鏡の中の「僕」は憎しみを抱えていたというところから、自分には悪の部分もあるということに気づき、それに目を向けることが怖くなったという解釈だ。人には、自分が認識もしていなかった別の面があり、自分でも分からない部分を抱える自分自身が怖くなったというものだ。

幽霊よりも怖いのは、人であり、自分自身であったりするというある意味「教科書的」な教訓話だ。

 

 

実はそもそも鏡の中にいた?

調べてみると、実は「僕」はそもそも鏡の中にいたのではないかという解釈を取っている論文を見つけた。これはかなり面白い解釈で、僕もこのことには全く気づかなかったので参考になった。リンクをつけておいたので是非読んで欲しい。

この解釈で肝となるのが、どちらの手で竹刀を持っていたのかということだ。「僕」は「左手に懐中電灯、右手に木刀」を持っていた。これのどこに問題があるのかというと、謎を解く鍵は剣道にある。剣道であれば竹刀は左手で持つようだ。であれば剣道を経験している「僕」は竹刀を左手で持つはずである。しかし、作中では右手で竹刀を持っているのだ。となるとこの「僕」は最初から虚像の中にいることになるのではないか。これをさらに掘り下げると、1960年代の「僕」は学生運動という全くの「虚構」の中にいたということを象徴していると言えないだろうか。

 

こんな風に「鏡」は短いページでありながら、いろんな解釈を引き出すことができる。まさに教科書にはうってつけの短編だ。優れた小説は、色々な解釈を広げることが出来るんだなと改めて思う。

 

 

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