日々の栞

本や映画について気ままに書く。理系の元書店員。村上春樹や純文学の考察や感想を書いていく

とんがり焼は村上春樹の文壇批評? / 『とんがり焼の盛衰』 村上 春樹

とんがり焼」と聞くと「とんがりコーン」の事を思い浮かべる。名前がほとんど同じだし、「とんがり焼」は「とんがりコーン 」のことを言っているのだろうと思っていた。「とんがり焼き」とは何ぞやと思う人が多いと思うが、知らない人が大半だろう。

「とんがり焼」は村上春樹の短編小説「とんがり焼の盛衰」に登場する謎のお菓子だ。「とんがり焼の盛衰」は短編集『カンガルー日和』に収録されている。作中では、「とんがり焼」は伝統ある銘菓として説明されている。気になる味の方はどうかというと、作中の言葉を借りれば、「とくに感心する味ではなかった」とのことだ。

こんな不思議なお菓子が登場する「とんがり焼の盛衰」はどんな話かというと、主人公がとんがり焼きの新製品募集に応募するというところから話が始まる。主人公は現代的なアレンジをした「新とんがり焼」を応募するのだが、無事選考を通過しとんがり製菓から会社に呼ばれたのである。そこで、「新とんがり焼」は若者からは人気だったが、年配からは「とんがり焼」ではないとのコメントがあることを社員から伝えられる。

主人公は、とんがり焼きの選考過程を見ることになるのだが、「とんがり焼」の評価は「とんがり鴉」なるものが行なっていたのだ。主人公の「新とんがり焼」を食べた「とんがり鴉」の間では賛否が分かれ、最後には互いにつつきあい共食いのような様相と化してしまう。主人公はこれを見て、自分の好きなものだけを作ることを決意するのであった。

これだけ読むと、なんのこっちゃ分からない小説だ。村上春樹の小説らしい不思議な話。

この短編を村上春樹本人自身のコメントを参考にして解釈していこうと思う。

 

 

 村上春樹の文壇批評?

 村上春樹は『とんがり焼きの盛衰』について、以下のコメントを短編集『めくらやなぎと眠る女』の前書きに寄せている。

 

『とんがり焼の盛衰』は、一見してわかるように、小説家としてデビューしたときに、文壇(literary world)に対して抱いた印象をそのまま寓話化したものである

 

 このコメントを読むと、『とんがり焼きの盛衰』には文壇批評が込められていることが分かる。このコメントを基に、文壇の村上春樹への評価などを参考にして『とんがり焼きの盛衰』を解釈してみようと思う。

作者の作成意図ではなく小説の本文に注目するテクスト論的な読み方からは外れるが良しとしよう。僕自身は小説に込められた作者の意図を読むことが重要ではないと考えている。むしろ、作者についての背景は読解のヒントから外して本文から解釈を引き出すテクスト論的な読解方法が好きだ。

 

話が逸れてしまった。文壇批評として考えると、「とんがり焼」が意味するのは純文学のことではないかと考えられる。そして「新製品募集」とは純文学の公募新人賞のことではないか(芥川賞でも解釈できる?)。「とんがり焼」に対するコメントを本文から引用してみる。

 

今の若い人間がこんなものを好んで食べるとはとても思えない。でも説明会に来ていたのは僕と同じくらいか、もっと年下の若い人ばかりだった。

 

純文学も今の若者が読むようなジャンルではないと思う。文学好きの一部の人は読むだろうが、読書離れが言われて久しい中、若者は文学からどんどん離れているだろう。けれども、純文学作家を志すのは若者だ。

 

長い歴史を誇る国民名菓とんがり焼もそれぞれの時代に即した新しい血を入れて弁証法的に発展していかねばならないとかいった明だ。そういうと聞こえはいいが、要するにとんがり焼の味が古くさくなって売上げが落ちてきたので若い人のアイデアが欲しいということである。それならそうとはっきり言えばいいのだ。

 

純文学の公募新人賞(新潮・群像・文學界・文藝・すばるの五代文芸誌の新人賞)の募集要項にも「本賞が待ち望むのは、文芸の新たな可能性を拓く未知の才能の劇的な登場です。」みたいなことがよく書いてある。それに純文学雑誌の売り上げも年々低下しているのだ。

 

主人公が受けた「新とんがり焼」の評価のところについて見てみよう。

 

「あなたの応募された新とんがり焼は社内でもなかなか好評であります」と専務が言った。

「なかでも、あー、若い層に評判がよろしい」

「それはどうも」と僕は言った。

「しかし一方でですな、んー、年配のものの中には、これではとんがり焼ではないと申すものもおりましてですな、ま、甲論乙駁という状況でありますな」

「はあ」と僕は言った。

いったい何が言いたいのかさっぱりわからない。

 

村上春樹自身もデビューした時は、アメリカ文学からの影響を指摘され「翻訳小説の読み過ぎで書いたような、ハイカラなバタくさい作」などと文壇からは否定的な見方をされていた。ここで文壇の村上春樹の評価について詳しく見ていこう。

 

 

文壇と村上春樹

村上春樹は『風の歌を聴け』で群像新人文学賞を受賞しデビューしている。今では世界的な作家となっている村上春樹だが、デビュー当時の文壇の反応は賛否が分かれていた。

この時の群像文學新人賞の選考委員は佐々木基一、佐多稲子、島尾敏雄、丸谷才一、吉行淳之介だ。この中では、丸谷才一と吉行淳之介からは高い評価を受けた。しかし講談社の内部では「こんなちゃらちゃらした小説は文学じゃない」という声があり、出版部長にも受け入れられなかったようだ。

『風の歌を聴け』は芥川賞候補作品にも選ばれるが、そこでは否定的な反応の方が多かった。まず村上春樹を肯定的に捉えていた丸谷才一、吉行淳之介のコメントを紹介しよう。

 

「村上春樹さんの『風の歌を聴け』は、アメリカ小説の影響を受けながら自分の個性を示さうとしてゐます。もしこれが単なる模倣なら、文章の流れ方がこんなふうに淀みのない調子ではゆかないでせう。それに、作品の柄がわりあひ大きいやうに思ふ」(丸谷才一)

 

「しいてといわれれば、村上春樹氏のもので、これが群像新人賞に当選したとき、私は選者の一人であった。しかし、芥川賞というのは新人をもみくちゃにする賞で、それでもかまわないと送り出してもよいだけの力は、この作品にはない。この作品の持味は素材が十年間の醱酵の上に立っているところで、もう一作読まないと、心細い」(吉行淳之介)

 

村上春樹に否定的だった滝井孝作は 「翻訳小説の読み過ぎで書いたような、ハイカラなバタくさい作」という辛辣なコメントを残している。このように否定多数で『風の歌を聴け』は芥川賞を受賞するに至らなかった。

その後『1973年のピンボール』で再び芥川賞候補になるも受賞には届かなかった。『羊をめぐる冒険』あたりから村上春樹は長編小説に力を入れるようになり、それ以降中短編の小説を対象とする芥川賞の候補になることはなくなったのである。

村上春樹はいわゆる文壇とは距離を取っている。作家は賞を取ったりとベテランになると芥川賞や公募新人賞の審査員になることが普通だ。しかし村上春樹はそういった選考委員になることはなく、黙々と創作活動を続けている。文壇に対する村上春樹のスタンスを考えると『とんがり焼の盛衰』の最後あたりの文章は文壇を揶揄しているようにしか読めない。

 

僕は自分の食べたいものだけを作って、自分で食べる。鴉なんかお互いにつつきあって死んでしまえばいいんだ。

 

今も村上春樹は、文壇から距離を置いて「自分の食べたいもの」を書き続けている。

 

栞の一行

僕は自分の食べたいものだけを作って、自分で食べる。鴉なんかお互いにつつきあって死んでしまえばいいんだ。

 

 

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