日々の栞

本や映画について気ままに書く。理系の元書店員。村上春樹や純文学の考察や感想を書いていく

三四郎から連なる青春文学の系譜〜『三四郎』から『優しいサヨクのための嬉遊曲』まで〜

日本文学には、『三四郎』から続く青春文学の系譜があると思う。当時の時代背景を反映し、「知識人はこの時代をどう生きるべきか」という問いに悩む主人公が描かれた小説だ。それぞれの時代を反映してきた作品は、芥川賞を受賞したり、ベストセラーになったりと、各時代で話題になってきた。

この一連の青春小説の主人公たちは、総じて気が弱くてナイーブで、恋に奥手だ。まあ、本が好きな人の多くはこんな感じだから、主人公に自分を重ねてしまうのだろう。

この「どう生きるべきか」系の青春文学の流れは『三四郎』から始まり『されどわれらが日々ーー』、『僕って何』、『赤頭巾ちゃん気をつけて』、『優しいサヨクの喜遊曲』、そして『なんとなく、クリスタル』で終わると、僕は考えている。知識人の苦悩から、知識人の危機、大衆消費社会の勃興へと時代が移り変わっていく中で、時には「知識人」がどう生きるべきかを問い、時には知識人の役割の終焉を告げた小説だ。一つ一つ見て行こう。

 

 

 

 文明開化の中、知識人はどう生きるべきか?:『三四郎』

三四郎 (新潮文庫)

三四郎 (新潮文庫)

 

ヤワなインテリや、ヘタレなインテリ、苦悩する若者が主人公の青春小説の祖とも言えるのが、 夏目漱石の『三四郎』だ。『三四郎』のメインストーリーは、東京大学に入学するために三四郎が上京して、そこで知的な女性・美禰子に恋をするというものである。東京大学入学という点で、三四郎はインテリで、知識人予備軍だ。舞台は近代化が急速に進む明治時代の東京。『三四郎』では文明開化によって変わる日本や、文明開化への批評が書き込まれている。三四郎は、現在でいうところの草食男子でヘタれている。この頃は知識人というものに権威があって、「知識人はどう生きるか」という問いが有効だった。そこからどの様に変遷していくのか?

 

 

 知識人として生きるだけでいいのか?:『されどわれらが日々』

新装版 されどわれらが日々 (文春文庫)

新装版 されどわれらが日々 (文春文庫)

  • 作者:柴田 翔
  • 発売日: 2007/11/09
  • メディア: 文庫
 

1955年、共産党第6回全国協議会の決定で山村工作隊は解体されることとなった。私たちはいったい何を信じたらいいのだろうか。「六全協」のあとの虚無感の漂う時代の中で、出会い、別れ、闘争、裏切り、死を経験しながらも懸命に生きる男女を描き、60~70年代の若者のバイブルとなった青春文学の傑作。第51回芥川賞受賞作品。

戦後、知識人は挫折をしていくことになる。その中心的な出来事が学生運動だ。戦後、学生運動を題材にした青春小説でヒットしたのが『されどわれらが日々」と『赤頭巾ちゃん気をつけて』だ。二作品とも似た様な作品構造を持っている。

『されどわれらが日々 』は1950年代末が舞台の小説だ。語り手の「私」こと文夫は東京大学大学院程に在籍中で、まさに「知識人予備軍」。文夫には節子という婚約者がいる。エリートの文夫と対照的な生き方をしている登場人物として佐野という男性が描かれている。彼は共産党員で、大学時代は「山村工作隊」として地下に潜っていた。しかし彼は後に自殺したのである。佐野を自殺に追い込んだのは、「六全協」だ。六全協とは、1955年7月の日本共産党第六回全国協議会のことで、この会議を機に日本共産党は、「武装闘争」を放棄して、議会を重視した方針に変更した。「武力闘争」という生活の中心を失い、虚無感に襲われた佐野は自殺を選んだのだ。文夫と節子は佐野の死に衝撃を受け、自分の人生に後ろめたさを感じるのであった。『されどわれらが日々』は、「革命に命をかける人もいる中で、自分は知識人として生きるだけでいいのか」というという問いを突きつけているのである。

 

 

 知識人の危機の時代において、どう生きていくべきか?:『赤頭巾ちゃん気をつけて』

赤頭巾ちゃん気をつけて (新潮文庫)

赤頭巾ちゃん気をつけて (新潮文庫)

  • 作者:庄司 薫
  • 発売日: 2012/02/27
  • メディア: 文庫
 

学生運動の煽りを受け、東大入試が中止になるという災難に見舞われた日比谷高校三年の薫くん。そのうえ愛犬が死に、幼馴染の由美と絶交し、踏んだり蹴ったりの一日がスタートするが――。真の知性とは何か。戦後民主主義はどこまで到達できるのか。青年の眼で、現代日本に通底する価値観の揺らぎを直視し、今なお斬新な文体による青春小説の最高傑作。

『赤頭巾ちゃん気をつけて』は学生運動や東大入試や学校群制度を背景とした青春小説だ。主人公は、日比谷高校三年生の薫くん。薫くんは日比谷高校に学校群制度が導入される前の最後の日比谷高校生である。薫くんは高校三年生なので大学受験を控えていたが、東大紛争のあおりで東大入試がなくなってしまう。この小説は、東大を受けようとしていた薫くんが大学に行かない決心をしたある一日の話だ。

 東大入試の中止によって、エリート(知識人)のキャリアパスが崩れてしまう。また、学校群制により、日比谷高校は知識人養成高校ではなくなり、他の高校と均一化してしまう運命にある。上は東大入試の中止、下には学校群制度の導入と知識人という立場の危機と、これからは大衆の時代がやってくる事が示唆的に描かれている。『知識人の危機の時代において、どう生きるか』、これが『赤頭巾ちゃん気をつけて』のテーマの一つだ。そして、知識人の危機の時代においては、知性も暴力に脅かされている。理念があったはずの学生運動は暴力的になりつつあった。主人公の薫くんの視点から描かれているのは、知性の危機と大衆消費社会の興隆、そして「優しさ」が失われてしまうことへの危惧だ。

 

 

 学生運動の意味が失われた中で:『僕って何』

僕って何 (河出文庫)

僕って何 (河出文庫)

  • 作者:三田誠広
  • 発売日: 2014/07/12
  • メディア: Kindle版
 

田舎から上京し、学園紛争真っ只中の大学に入学した僕。何も知らない母親っ子の僕が、いつの間にかセクトの争いや内ゲバに巻き込まれ、年上のレイ子と暮らすことになる……。芥川賞受賞の永遠の青春小説

『僕って何』は、『されどわれらが日々』や『赤頭巾ちゃん気をつけて』と同じように学生運動が背景にある青春小説だ。この『僕って何』は、セクトやオルグ、内ゲバ、全共闘などの学生運動に関する言葉が出てきて、当時のことをよく知らない今の世代にとっては少し読みずらい。『僕って何』は学生運動を冷ややかな目で見ている小説で、過熱する学生運動やその空疎さを皮肉交じりに描いている。この小説は学生運動そのものが主題というわけではなくて、主人公の「僕」が「B派」というセクトに身を置き、セクト争いに巻き込まれる中で、自らのアイデンティティを模索するというのが大きな筋だ。「僕って何」と主人公は自らに問い続ける。この頃の学生運動は過激さを増し、セクト争いに終始していた。この『僕って何』の主人公は年上のレイ子に振り回されるという構図は、『三四郎』の構図によく似てる。知識人予備軍は年上のお姉さまに振り回されるのがお好きなのだろうか。

 

 

知識人はどう生きるべきかという問いが無効化された時代:『なんとなく、クリスタル』 

新装版 なんとなく、クリスタル (河出文庫)

新装版 なんとなく、クリスタル (河出文庫)

  • 作者:田中 康夫
  • 発売日: 2013/11/06
  • メディア: 文庫
 

1980年東京。大学に通うかたわらモデルを続ける由利。なに不自由ない豊かな生活、でも未来は少しだけ不透明。彼女の目から日本社会の豊かさとその終焉を予見した、永遠の名作。

知識人というものの特権性が失われつつある中で、「知識人はどう生きるべきか」という問いの有効性にとどめを刺したのが、2つのポストモダン小説だ。それは田中康夫の『なんとなく、クリスタル』と島田雅彦の『優しいサヨクのための嬉遊曲』である。

『なんとなく、クリスタル』は大衆消費社会の勃興と、バブル経済前の日本、そして日本に忍び寄る衰退の影を描いた小説だ。長野県知事を務めたこともある田中康夫が作者だ。この『なんとなく、クリスタル』の特徴は、時代を象徴する固有名詞の多用と、それに対する膨大な量の注釈だ。ブランド名と言った固有名詞を多用していることで、大衆が増えたことにより知識人というものには意味がないという知識人を批判している様にも思える。小説の最後には、人口問題審議会の「出生力動向に関する特別委員会報告」と「昭和54年度厚生行政年次報告書」が引用されており、少子化が進行することを示唆している。全編を通して日本の豊かさをアピールするかの様な内容だが、日本の右肩上がりの成長は今後期待できないということを示唆する様なオチになっている。

 

 

学生運動の終焉:『優しいサヨクのための嬉遊曲』

優しいサヨクのための嬉遊曲 (新潮文庫)

優しいサヨクのための嬉遊曲 (新潮文庫)

 

千鳥姫彦はもどかしい。大学のサークルでのサヨク=左翼活動では成果があがらず、美少女みどりとの恋は思い通りに進まない。とまどうばかりの二十代初めの混沌とした日々を、果てしない悪ふざけでごまかしながら漂い続ける姫彦と友人たち。若く未熟であるがゆえに、周囲との距離感が測れず、臆病で自虐的にならざるをえない――、そんな孤独な魂たちが、きらめく言葉の宇宙に浮遊する。

 『優しいサヨクのための嬉遊曲』は少し違う。主人公は左翼的な学生団体に入っているが、革命を目指すとか言った運動をしている訳ではない。大学生がサークル活動を楽しむかのような感覚で左翼活動をしている。主人公の千鳥姫彦は熱心な革命運動を起こす「左翼」ではなく、家庭的な「サヨク」なのだ。優しくてナイーブな主人公像というのは引き継がれている。この小説はソ連の崩壊を予期している様でなかなか興味深い。左翼系の知識人を揶揄するかの様な内容になっている。

 

 

 『三四郎』では文明開化、『されど我らが日々はーー』は六全協と学生運動、『赤頭巾ちゃん気をつけて』は学生運動と大衆社会の始まり、『僕って何』は学生運動に置けるセクト争い、『優しいサヨクのための喜遊曲』は学生運動の衰退を描いている。そして、『なんとなく、クリスタル』ではバブル経済直前の大衆社会が描かれていて、主人公は「いかに生きるべきか」で悩むことがなく、「クリスタルな日々」を送っている。知識人の苦悩から、知識人の危機、大衆消費社会の勃興へと時代が移り変わっていく。知識人はどう生きるべきか?この問いは失われた30年に苦しむ現代の日本でも有効だろうか?

 

 

参考文献