日々の栞

本や映画について気ままに書く。理系の元書店員。村上春樹や純文学の考察や感想を書いていく

パリは移動祝祭日 / 『移動祝祭日』 ヘミングウェイ

パリは移動祝祭日

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もし幸運にも、若者の頃、パリで暮らすことができたなら、その後の人生をどこですごそうとも、パリはついてくる。パリは移動祝祭日だからだ 

誰にとっても青春時代はかけがえのないもので、そこでの経験が自分を支える大きなピースになる。ヘミングウェイにとってそのピースは、パリでの修業時代だった。

パリは移動祝祭日」という素敵なエピグラムから始まる『移動祝祭日』はヘミングウェイのパリ修行時代が綴られたエッセイだ。スコット・フィッツジェラルドやガートルード・スタインといった様々な芸術家との交流、パリでの暮らしや執筆活動がヘミングウェイの目を通して魅力的に描かれている。

ヘミングウェイは『日はまた昇る』、『老人と海』、『武器よさらば』といった作品を残しており、男性的というかマッチョなイメージがあった。だが、『移動祝祭日』は青春時代を回顧して書かれたということもあってか、繊細でリリカルでどこかノスタルジックな雰囲気があるエッセイになっている。

 

タイトルの移動祝祭日 (英語では A Moveable Feast) はキリスト教の用語で、クリスマスのように日付が固定されている祝日ではなく復活祭の日付によって移動する祝日のことである。

新潮文庫版の解説に書かれているように、本書のタイトルの意味はこのような辞書的なものだけではないだろう。その後の人生に大きく影響をあたえたパリでの青春時代、それはヘミングウェイにとってその後の人生についてまわる祝祭のような日々だったのだろう。このタイトルはヘミングウェイ自身が決めたものではない。『移動祝祭日』はヘミングウェイの遺作で、タイトルは生前ヘミングウェイがホッチナーというライターに言ったセリフをもとにつけられている。この移動祝祭日というタイトルは本当に素敵だ。

 

本書では、ヘミングウェイが過ごしたパリでの甘美な思い出が綴られている。舞台となった1920年代のパリには、コクトー、フィッツジェラルド、ピカソ、スタイン、ジョイス、パウンドらの名だたる芸術家がひしめいていた。芸術家にとってこの時代のパリで過ごす日々はきっと祝祭のように煌めいたものであっただろう。

『移動祝祭日』では芸術家が集まっていたスタインのサロンの様子が描かれている。そこで繰り広げられるスタインとヘミングウェイの絵画や小説談義はとても魅力的だ。スタインはヘミングウェイを語るうえで欠かせない存在である。ヘミングウェイやフィッツジェラルドといった作家のことを指すロストジェネレーション(自堕落な世代・迷子の世代)という名称はスタインがヘミングウェイに言った言葉に由来している。ロストジェネレーションを「失われた世代」と訳すのは今では誤訳らしい。

 

スタインに加え、パウンドとの交流も描かれている。ヘミングウェイはパウンドから「形容詞を信頼しすぎること」の危険性を学んだ。良き友人でありライバルでもあったフィッツジェラルドについても書かれている。特にフィッツジェラルドとのリヨンへの旅は凄く面白い。フィッツジェラルドってお酒に弱かったんだな。フィッツジェラルドについて書かれた章を読むと、ヘミングウェイがフィッツジェラルドの才能を認めていたことがよく分かる。そして、フィッツジェラルドが自身の才能を上手く発揮できないのはフィッツジェラルドの妻のゼルダのせいだと考えていた。ゼルダが夫の才能に嫉妬し、彼を邪魔していると。ヘミングウェイにとってフィッツジェラルドがかけがえのない存在であることが分かる。

なんといってもカフェでの執筆シーンが素敵だ。サン・ミシェル広場のカフェ、クロズリー・デ・リラとパリのカフェが魅力的に描かれている。執筆に邪魔が入ると露骨に嫌悪感を示すのが面白い。あとところどころにヘミングウェイの執筆の心構え(氷山理論)や小説の批評が書かれていて、読むのがすごく楽しい。原稿がなくなったことや、競馬にはまっていたことなど新しい一面を知ることができる。

 

 

ミッドナイトインパリ

youtu.be

 

 

輝かしい1920年代のパリを描いた『移動祝祭日』を下敷きにした映画がウディ・アレン監督によって撮られている。その映画は『ミッドナイト・イン・パリ』。作家志望の主人公・ギルが真夜中のパリにタイムスリップするという話だ。映画の中でヘミングウェイの『移動祝祭日』が少し触れられる。『移動祝祭日』で描かれたような芸術が花開いている1920年代のパリが描かれていて、観ていてワクワクする映画だった。ヘミングウェイやフィッツジェラルドなど出てくる芸術家たちが本物に似ていて、本当に1920年代のパリにタイムスリップした気分になる。とくにダリは凄く似ていて、会話のシーンは笑ってしまった。あとルイス・ブニュエルに映画のアドバイスをするところが面白い。『皆殺しの天使たち』が観たくなってくる。

 

ロマンチックなコメディ映画とも見て取れるこの『ミッドナイトインパリ』だが、人生に関する深い示差を与えてくれる。1920年代のパリにタイムスリップしたギルはそこでアドリアナに恋をする。主人公のギルは1920年代が素晴らしい時代だと考えている。しかし、1920年代に住むアドリアナにとってはいいように思えず、むしろ19世紀末の時代の方がいいとかんがえている。そう、過去はいつだって美しい。ギルがつぶやく下の言葉は人生の本質を突いているのではないか。

 現在って不満なものなんだ。それが人生だから。 

現在から振り返る過去は多かれ少なかれ美化されているもの。いつでも未来は不安なもので、今は苦しく、過去は甘美な郷愁に満ちている。ヘミングウェイが『移動祝祭日』の中で描いたパリもどこか甘美な郷愁を帯びている。

 

ミッドナイト・イン・パリ(字幕版)

ミッドナイト・イン・パリ(字幕版)

  • オーウェン・ウィルソン
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再び脚光を浴びた『移動祝祭日』

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あまりメジャーな作品とは言えないヘミングウェイの『移動祝祭日』だが、ある事件をきっかけに注目を集めることとなる。その事件とは、パリ同時多発テロ。多くの命が奪われた痛ましい事件だ。テロの後この『移動祝祭日』は抵抗のシンボルとなった。あるおばあちゃんへのインタビューがきっかけとなって、フランスではベストセラーとなっている。生き生きと描かれたパリの日常風景がフランス人の心に響いだろう。『移動祝祭日』の章のタイトルにあるようにパリに終わりはない。

 

 

パリに終わりはない

 パリには決して終わりがなく、そこで暮らした人の思い出は、それぞれに他のだれの思い出ともちがう。私たちがだれであろうと、パリがどう変わろうと、そこにたどり着くのがどんなに難しかろうと、もしくは容易だろうと、私たちはいつもパリに帰った。

 生き生きと描写されるパリの風景はとても魅力的で、パリに行ってみたくなる。妻・ハドリーとの生活は微笑ましく、読んでいると心が温かくなる。文章からは妻・ハドリーへの愛が感じられて、この『移動祝祭日』の主人公はハドリーとも思えてくる。結局のところ、ヘミングウェイはハドリーと別れてしまうこととなる。晩年のヘミングウェイはハドリーとの愛おしい日々を懐かしんで書いたのだろうか。

ミッドナイトインパリでも描かれていることだが、誰にとっても過去は美しく魅力的なものだ。誰にとっても青春時代は特別なもので、それぞれの「移動祝祭日」になる。ヘミングウェイにとってはそれがパリの修業時代だった。上に引用した文章がすごく印象的だ。最初から読むのではなく、折にふれて適当にページを開いて文章を楽しみたくなる本だな。『移動祝祭日』は甘美なノスタルジーに包まれた名作だ。

 

 

村上春樹『騎士団長殺し』と又吉直樹『劇場』で新潮社の勢いが止まらない

調子いいんじゃない!?新潮社

 

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

 

 

 

騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

 

 

 

どこの本屋に行っても大量に置かれている村上春樹の新刊『騎士団長殺し』。『1Q84』以来の本格長編ということもあり、売れに売れている。いつもの内容を明かさない手法をとっていてそれもきいているのかな。もうすでに累計発行部数が100万部以上になっているらしい。恐るべし村上春樹。ここまで話題になって、売り上げもある作家って日本には村上春樹ぐらいしかいないのでは。

 

新潮 2017年 04月号

新潮 2017年 04月号

 

 

そして、五大文芸誌の一つ、新潮社の『新潮』も売れている。又吉効果で「劇場」が掲載された4月号は異例の売り上げを見せているようだ。そして、この「劇場」は早くも単行本化が決まったらしい。又吉先生凄いな。

 

しんせかい

しんせかい

 

 

村上春樹又吉直樹の影でもはや話題にもされないし、あまり売れている気配がない山下澄人の『しんせかい』も新潮社から発売されている。新潮社絶好調だな。

 

 

 

同じ歩調で年老いていくことの幸せさ / 「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」 F・スコット・フィッツジェラルド

時間を逆行して生きるベンジャミン・バトンの数奇な人生

 

 

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老人として生まれて、どんどん若返っていき、最後には赤ちゃんとなって死んでいく・・・年を取るたびに若返るなんていいじゃない!って思う人もいるだろう。しかし事態はそう簡単じゃない。人と同じ歩調で年を取るという当たり前に思えることがいかに素晴らしいかをこの「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」は教えてくれる。

 

「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」はF・スコット・フィッツジェラルドによって書かれた短編小説だ。フィッツジェラルドはロストジェネレーション(自堕落な世代・迷える世代)を代表するアメリカの作家である。フィッツジェラルドの代表作『グレート・ギャッツビー』は20世紀アメリカ文学の最高傑作の一つと言われている。『グレート・ギャッツビー』は村上春樹によって訳されており、村上春樹作品の中にもしばしば出てくる(『ノルウェイの森』など)。ロストジェネレーションという言葉は、ガートルード・スタインヘミングウェイに投げかけた台詞からきている。ロストジェネレーションというのは、第一次世界大戦に遭遇して、既成の価値観に懐疑的になった世代の小説家を指し、代表的な作家にF・スコット・フィッツジェラルドアーネスト・ヘミングウェイがいる。

 

ベンジャミン・バトン 数奇な人生 [DVD]

ベンジャミン・バトン 数奇な人生 [DVD]

 

 

この「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」はデヴィッド・フィンチャー監督によって映画化されている。主演はブラッド・ピットで、アカデミー賞美術賞・視覚効果賞を受賞している。

 

「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」は、老人として生まれて、若者へと時間を逆行して生きるベンジャミン・バトンの文字通り「数奇な人生」を描いた作品である。1860年の夏、ロジャー・バトン夫妻のもとに奇妙な「赤ちゃん」が生まれる。なんとその「赤ちゃん」は老人のような姿だったのである。そして精神的にも老人であり、生まれた直後に喋りだすのである。ベンジャミン・バトンと名付けられたその子どもは、周囲に冷たくあしらわれながらも強く生きていく。そして周囲の人間と同じように恋愛や苦悩、成功、結婚を経験していく。だがベンジャミン・バトンは老化することなく、どんどん若返っていく。若返っていくうちに周囲の人との年齢差が縮まり、打ち解けていくベンジャミン・バトン。そして美しい女性ヒルデガルドと恋に落ちて、結婚することになる。仕事も順調で順風満帆のように見えたが、周囲の人とは異なる時間の進み方がベンジャミンを孤独にしていく。年を取るにつれて若返るベンジャミンと年老いていくヒルデガンド。すれ違う電車のように、時の流れの違いによって二人の心が離れていく。ベンジャミンは年老いていくヒルデガンドに魅力を感じれなくなる。そして、若返るにつれて幼くなり頭も上手く働かなくなる。そして最後にベンジャミンの意識は生まれた時と同じ闇の中に埋もれていく…この小説を読んでいると人生の始まりと終わりは案外同じようなものに思えてくる。混濁の中から始まり混濁の中で終わる。同じ歩調で人生を歩き、景色を楽しむという一見して普通のことのように思えることが、実はかけがえのないことなのである。ベンジャミン・バトンが送った数奇な人生は、私たちに一緒に年を取ることの幸せさを教えてくれる。 

ベンジャミン・バトン  数奇な人生 (角川文庫)

ベンジャミン・バトン 数奇な人生 (角川文庫)

 

 

 

哲学的ゾンビ / 『ゾンビ』 村上春樹

 最近どこの本屋に行っても村上春樹の『騎士団長殺し』が平積みされている。本が売れないと言われる中、ここまで売れる村上春樹は本当にすごいなと思う。小説の発売に並ぶというのはほとんどない気がする。村上春樹以外だとハリー・ポッターぐらいかな。純文学ではなくて、大衆寄りだと言われたりして批判を受けることもあるけど、ここまで人を引き付ける作家ってほとんどいない気がする。

 

『騎士団長殺し』には、雨月物語が引用されてミイラの話が出てくるけど、今回は村上春樹のゾンビの話。タイトルはそのまま『ゾンビ』で『TVピープル』という短編集に収録されている。ショートストーリーとも言えるような短編小説となっている。あらすじは、あるカップルがいて、実は男の方がゾンビ...だという夢を見る話。しかし、現実も…

 

この話を読んでいると哲学的ゾンビという思考実験を思い出した。他人に心があるのかどうかは分からないということを示唆する思考実験である。確かに、他人に心があることの証拠なんてどこにあるんだろ?と色々関係ないことを考えながら読んでいた。

 

 

 

時の洗礼を受けていないものを読むな/『読書について』

 核心をついている読書論

読書とは他人に考えてもらうことで、読書をしすぎると自分で考えなくなっていく。一見するとそんなことはないだろうと思えるが、実は読書の核心を突いている。この『読書について』は多読を推奨するのではなく、思考停止になっていると批判している。他にも古典作品を推奨したりと、現代の感覚からするとズレているように思える。しかし、自ら考えることもせず、他人の思想をただなぞるだけの読書に何の意味があるだろう。本書で書かれているように、自分で考え抜いた知識にこそ意味があるのだと思う。現代の読書術というのは、いかに短時間で多くの本を読んで情報を得るかに重点が置かれているものが多い気がする。「読書について」のように、しっかり思索することに重点を置いた本は少ないように思える。

 

時の洗礼を受けてないものは読むな

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

 

 『読書について』を読んでいると、村上春樹の「ノルウェイの森」の中で永沢さんが「俺は時の洗礼を受けてないものを読んで貴重な時間を無駄に費やしたくないんだ。人生は短い」と言っていたのを思い出す。大きな書店で働いていたことがあるのだが、時の洗礼に耐えうる本って本当に少ないんだなと実感した。ほんの数年前の本でも絶版になっていることもあるし、数十年前の本なら大半が絶版になっている。一方で、出版不況と言われる今でも数多くの本が出版されている。ビジネス書や自己啓発本を立ち読みしてみると、スカスカであまり大したことを書いていない本も多い。インターネットやSNSの発展により、誰もが気軽に発言できるようになり、私たちは情報の洪水に飲み込まれるようになった。この状況では、効率よく情報を処理することが求められてくる。しかし、その中で時の洗礼に耐えうる本はほんのわずかじゃないだろうか。氾濫する悪書よりも時の洗礼に耐えた良書を読むほうが有意義なんじゃないかなと思えてくる。

 

古典の意義

 

訴訟 (光文社古典新訳文庫)

訴訟 (光文社古典新訳文庫)

 

 古典になる本というのは数少ないと思う。ベストセラーとなった本でも、経年劣化してその輝きを失ってしまうということがよくある。普遍的な真理や感情を描いた本、類稀なる想像力で作られた本などは古典になるんじゃないかなと思う。古典の素晴らしさを考えると、フランツ・カフカの作品が思い浮かぶ。中々城に辿り着けない『城』、よく分からないまま逮捕されてしまう『訴訟』など、システムに翻弄される現代人に当てはまりような内容である。カフカの作品は時を経るごとに色褪せていくのではなく、寧ろ時が経つにつれて新たな解釈が生まれてますます輝きを増しているように思える。カフカの作品を読むと、優れた想像力は経年劣化に耐えうることを実感させられる。

 

多読を奨励しない、古典を奨励しているというのは現代に逆行しているように思う。しかし、情報を処理するので精一杯で、思考停止に陥っていないだろうか?自分で考え抜いた知識にこそ意味があると説くショウペンハウエルの「読書について」は、現代人に警鐘を促す良書だと思う。この本の素晴らしさは、この本が時の洗礼に耐えたという事実が証明している。

雨男・雨女についてのあれこれ

僕は雨男です。雨宿りしたら雨が止むのですが、外にでるとまた雨が降ってくる。家から出たタイミングで雨が降り出すのはしょっちゅうあります。イベント事の幹事をすると天気が悪くなり、挙げ句の果てに家から出すなと言われる始末。駅について外にでると雪が降ってきたことも。雨だけじゃなく雪にも対応してるのか。雨男という自覚はあるのですが、傘を持つのが嫌いで折り畳み傘を携帯してないのでよく雨に濡れます。

 

そんなこんなで、雨男なので時たま雨男・雨女についてよく考えます。「雨男・雨女って科学的に根拠があるのか⁉︎」統計とかとったら面白い結果が出るんじゃないかなと思ってます。僕は雨を引き寄せる雨男・雨女というのは、記憶の改竄によって生まれるものだと思ってます。個人的な印象ですが、雨男・雨女と言われる人はネガティブな人が多いなと。ネガティブな人は、ついてないことがあるとそのことが強く印象に残って、運が良かったことを忘れてしまい、あたかも悪いことしか起こっていないと思ってしまうのではないでしょうか。僕も、雨に降られなかったときもあるのですが、雨が降ってきたときの方がよく覚えていて、あたかもいつも雨しか降っていないと感じてしまいがちです。雨男・雨女とは運良く雨が降らなかった時もあるが、結局雨が降った時のことしか覚えていないみたいなことではないでしょうか。被害妄想みたいな感じですね(笑)

 

昔友人に「雨男だったら、雨乞いせずに雨を降らせれるから、昔だったら絶対奉られてたな。卑弥呼みたいになれたわ」と言ったら、「雨を降らせるだけで、止ませることができなかったら意味なくね。コントロールできるからいいんやろ。降らせるだけなら、逆に疎ましがられるやろ」と言われました。確かに。

 

そういえば、雨男・雨女をモチーフにした小説、映画ってあんまりないな。僕が知ってるのは伊坂幸太郎の『死神の精度』ぐらいです。でもあれは死神だったな…やっぱり雨男にいいイメージがない。

 

以上、雨男・雨女についてのあれこれでした。

 

死神の精度 (文春文庫)

死神の精度 (文春文庫)

 

 

深い関係性を求めて/「カンガルー日和」 村上 春樹

 初めて読んだ村上春樹の小説は、高校の教科書に載っていた「カンガルー日和」だ。カンガルーの赤ちゃんを見に行くという、男女の何気ない1日を描いた小説だ。高校生の僕にとって、この小説はよくわからないふわふわした小説として映った。しかし、何度も読んでいるうちに村上春樹の文体の虜になり、村上春樹作品を読むきっかけとなった。なので、この「カンガルー日和」は思入れのある小説になっている。

 

カンガルーを見るのにうってつけの日から、カンガルー日和というタイトルになっている。この小説の英訳のタイトルが、A Perfect Day for Kangaroosとなっていて、サリンジャーの「バナナフィッシュにうってつけの日(A Perfect Day for Bananafish)」に因んでいる。

 

「青山通りのスーパー・マーケットで昼下がりの買物を済ませ、コーヒー・ショップでちょっと一服しているといった感じだ。」といった洒落た比喩、村上春樹特有の諦念が滲み出ている文体に衝撃を受けた。その当時の自分にとって小説の文体と言えば、芥川龍之介、夏目漱石のような古めかしいものというイメージがあった。こんな小説もあるのか!

 

折にふれてカンガルー日和を読み返すけど、明確なテーマというものが掴めない。けれど、こんな感じの話じゃないかなという漠然とした考えがいつも浮かぶ。カンガルー日和は男女の関係性を描いているのじゃないかと。

 

この小説に出てくる男女の関係性を考えてみる。カンガルー日和を読んでみた印象から、この男女は付き合っているが結婚はしていないという風に感じた。2人のあいだに距離感というか、すれ違いがあるように感じるのだ。カンガルーの赤ちゃんに固執する女とそれを理解できない男。男と女は分かりあえないという諦念を感じた。

 

カンガルーの赤ちゃんは女の妊娠願望のメタファーではないかと、高校生の時の同級生は授業中に言っていた。でも僕にはそう解釈できなかった。妊娠願望というよりかは、強い関係性の希求-守る守られる関係性のカンガルー-を表しているのじゃないか。結婚するかしないか瀬戸際の男女の話しに思えた。カンガルーの赤ちゃん(結婚)にこだわる女と、それがよく理解できない男。結婚を巡る水面下のやり取りが描かれているように思えた。彼女がゼクシィで彼氏にプレッシャーをかける的なやつだ。こじつけすぎかもしれないが。いつかこの小説を理解できる日が来るのかな。

 

栞の一行

しかし何はともあれ、カンガルーを見るための朝はやってきた。

 

 

関連記事(『カンガルー日和』に収録されている他の短編について)

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