日々の栞

本や映画について気ままに書く。理系の元書店員。村上春樹や純文学の考察や感想を書いていく

ウディ・アレンがギリシャ悲劇を映画にしたら /『誘惑のアフロディーテ』 ウディ・アレン

『誘惑のアフロディーテ』はギリシャ悲劇のパロディ!?


Mighty Aphrodite Trailer 1995

 

ウディ・アレンは、人生の不条理や悲劇をコミカルに描いてきた映画監督だ。『誘惑のアフロディーテ』がテーマとするのも、ある男の運命の悲劇に他ならない。タイトルのアフロディーテはギリシャ神話の美しい女神のことだ。

この作品ではリンダという美しい女性が悲劇のカギを握っている。主人公レニー(ウディアレン)は養子マックスを取るが、マックスはとても優秀で自慢の息子に育ってゆく。レニーは、マックスの母親が気になり、母親のリンダを探し当てる。しかし、リンダは娼婦でありポルノ女優だった。このあらすじがあらすじなので、ウディ・アレン作品の中でもハイレベルな下ネタが繰り広げられている。

また、『誘惑のアフロディーテ』は『地球は女で回っている』のように演出が特殊で、人によって楽しめるかどうかがかなり違うと思う。特殊な演出というのは、劇中にコロス(合唱団)が出てくるように、『誘惑のアフロディーテ』がギリシャ悲劇のパロディになっているところだ。この映画はレニーとリンダの悲劇的で喜劇的な運命を、『オイディプス王』といったギリシャ悲劇になぞらえて描いている。だから、ギリシャ悲劇を知っていると何倍もこの作品が楽しめるのだ。

 

 

 

コロス(合唱隊)が物語の進行を盛り上げる

 冒頭では、いきなり仮面を付けた怪しい人たちが出てくる。彼らこそ、ギリシャ悲劇に命を吹き込んできたコロス(合唱隊)なのだ。怪しいおじさんではない。コロスは、ギリシャ悲劇のパートだけではなく、レニーのいる現実世界にも現れ、物語を盛り上げ進行させていく。完全にリアリズムの映画じゃなくて、ちょっとしたファンタジーのようになっている。

最初にコロスは、父を殺し母と交わったオイディプスの悲劇『オイディプス王』、復讐のために我が子を殺した王女の悲劇『メディア』 と有名なギリシャ悲劇の作品をあげていき、運命の残酷さを語る。そして、レニー・ワインリブの物語もギリシャ悲劇に並ぶ悲劇だということを告げる。

『誘惑のアフロディーテ』の主人公であるレニー・ワインレブと妻のアマンダには子どもがいなかった。そこで、レニー夫妻は養子を取ることを決め、マックスを家族に迎え入れたのだった。そのマックスは非常に優秀で、頭も良く、おまけに顔も良いと来ている!レニー夫妻は倦怠期にあったこともあり、レニーは妻のアマンダから逃避して、優秀なマックスの母親探しに熱中するのである。これだけ優秀な子どもなんだから、母親もきっとしっかりとした人であると思いながら。しかし、その母親探しがすべての悲劇の始まりだった...

 

 

知りたいという欲望が悲劇を招く 

有名なギリシャ悲劇の『オイディプス王』の中で、オイディプスは自らの出自の秘密を知りたいと思い、真実を追い求めた。その結果、皮肉にも明らかとなった真実はオイディプス王を苦しめることとなり、すべての悲劇の発端となった。

この『オイディプス王』のように、レニーはマックスの母親を探し求める。その中で、レニーはマックスの母親が娼婦でありポルノ女優であることを知ってしまうのだ。このことをしったレニーは落胆するも、自分がマックスを引き取っていることを知らせずに、母親のリンダに接触を試みる。リンダは我が子を養子に出してしまったことを凄く後悔していた。レニーは、リンダにマックスの母親としてふさわしい女性になってもらうために、リンダを娼婦から引退させようとあの手この手で奮闘する。このリンダという女性が天然で、どんどん過激な下ネタを連発するのが凄く面白い。リンダの部屋のインテリアも下ネタで溢れているのだ。

 

 

すべてはうまくいくと思われたが...

レニーは、リンダの夫にふさわしい男を見つけ、お見合いをさせる。もちろん、リンダが元娼婦であったことは相手の男性に隠して。二人は仲良くなり、結婚も現実味を帯びていた。

しかし、そう簡単にハッピーエンドにはならない。リンダがポルノ女優で娼婦であることがばれてしまうのだ。結局、結婚は破談に...一方レニーの方も、妻が浮気をしていることに気づいてしまう。傷ついたレニーとリンダは関係を持ってしまうのだ。これが、新たな悲劇を生むのである。

 

 

思いがけない神の配慮(デウス・エクス・マキナ)が起こる

このままでは、悲劇の幕が閉じない。ギリシャ悲劇ではこんなとき、強引な幕引きが去れる。それはデウス・エクス・マキナだ。傷心のリンダの身に、脈絡のない奇跡がおこる。なんと、空から理想の男性がヘリコプターで降りてくるのだ。

この場面でのナレーションの日本語字幕では「思いがけない神の配慮」と訳されているが、英語ではデウス・エクス・マキナと発音されている。この「デウス・エクス・マキナ」は何かというと、これにもギリシャ悲劇が絡んでくる。Wikipediaから引用すると

 

デウス・エクス・マキナとは演出技法の一つである。「機械仕掛けから出てくる神」、あるいは「機械仕掛けの神」などと訳される。古代ギリシャの演劇において、劇の内容が錯綜してもつれた糸のように解決困難な局面に陥った時、絶対的な力を持つ存在(神)が現れ、混乱した状況に一石を投じて解決に導き、物語を収束させるという手法を指した。悲劇にしばしば登場し、特に盛期以降の悲劇で多く用いられる。

 

 絶対的な存在を利用して、脈絡もなく物語を終わらせるこの手法はご都合主義的だし、古代ギリシャでも批判されていたようだ。なにはともあれ、空から寛大で優しい理想の男性が、「機械仕掛けの神」ならぬヘリコプターで降りてくるのである。まさにご都合主義!この男性とリンダは結ばれるのであった。めでたしめでたし...ではない。なんとリンダはレニーの子どもを身ごもっていたのだ。一方のレニーはそのことを知らない。

なんて残酷な運命...

 

 

人生は悲劇が好きな喜劇作家が書いた喜劇

その後、レニーとリンダは別れたが、リンダはレニーの子どもを身ごもっていた。レニーはそのことを知らないのである。数年後に二人は出会うこととなる。レニーはマックスと一緒に、リンダはリンダとレニーの子どもと一緒に。互いに、相手の子が自分の子どもであることに気づかないまま二人は別れてしまう。運命のいたずらというか、人生の悲劇というか。人生は皮肉なものだ。奇想天外で、悲劇的だけれども、素晴らしい。

ウディ・アレンの別の映画の『カフェ・ソサエティ』ではこんな台詞がある。「人生は喜劇さ。悲劇が好きな喜劇作家が書いたんだ。」ウディ・アレンはそんな悲劇的だけど喜劇的な人生を映画の中に描いているのではないかと思う。

村上春樹の『ノルウェイの森』ではこんな一節がある。「ギリシャ悲劇より深刻な問題が現在の世界に存在するとは私には思えないが。」ウディ・アレンはギリシャ悲劇を下敷きにすることで、身近な運命の悲劇とギリシャ悲劇は同じようなものだといっているように思えた。ニッコリほほえめば、あなたがほほえめば、世界中がほほえみ返す。

 

 

大学生のうちに読んでおきたい本リスト

大学を卒業するまでに読んでおきたい本

大学を入る前は、名作古典小説をどんどん読んでいくと意気込んでいたけれども、いざ大学に入ってみると、なかなか本が読めない。バイトやら、部活やら、実験レポートやらなんやらで、時間がどんどん削られていく。まあ時間を捻出しろよっていう話になるけれど、なかなか時間が捻出できない。もう卒業まで半年ぐらいしかないけれど、大学を出る前にこれだけは個人的に読んでおきたい本をとりあえず殴り書きしてみる。

 

日本近現代文学

 

内向の世代

 

日本現代文学

 

シェイクスピア四大悲劇

 

ロストジェネレーション

 

ポストモダン文学

ヌーヴォー・ロマン

 

 

螢の旋律にあなたは騙される / 『螢』 麻耶 雄嵩

オカルトスポット探険サークルの学生六人は京都山間部の黒いレンガ屋敷ファイアフライ館に肝試しに来た。ここは十年前、作曲家の加賀螢司が演奏家六人を殺した場所だ。そして半年前、一人の女子メンバーが未逮捕の殺人鬼ジョージに惨殺されている。そんな中での四日間の合宿。ふざけ合う仲間たち。嵐の山荘での第一の殺人は、すぐに起こった。

今までに僕は光る蛍を実際に見たことがない。蛍の光に包まれるという幻想的な体験を一度でもいいから体験してみたい。ホタルを漢字で書くと蛍だが、難しい方の漢字では螢と書く。この二つの違いはよく分からないけれど、漢字が難しい方の蛍は村上春樹の短編とか、小説のタイトルではよく見かける気がする。今回の「螢」はミステリーのほうの螢。作者は、問題作を次々に発表している麻耶雄嵩。この『螢』もどんでん返しの名作と言われているけれど、他のどんでん返しとは一線を画す、変化球的なミステリである。どんでん返し系のミステリを読みなれている人の方が楽しめると思う。

 

ストーリーは、突然の嵐で陸の孤島と化したファイアフライ館でおこる殺人事件という、クローズドサークルの定番となっている。舞台のファイアフライ館は、過去に作曲家の加賀螢司が演奏家六人を殺したいわくつきの場所だ。そこを訪れたオカルトスポット探険サークルの学生六人はファイアフライ館に合宿に来るのだが、例によって嵐がきて、外部にでれなくなるのである。ここまで読んでいると、なんだ普通のクローズドサークルじゃないかと思うかもしれない。しかし、普通のミステリーで終わらないのが麻耶雄嵩この本には色々と仕掛けが張り巡らせる。ある仕掛けは、どんでん返しもののミステリーを読みなれた人なら気づくかもしれない。だが、ある仕掛けは絶対に見破れないだろう。こんな仕掛けは前代未聞だし、違和感を感じていても、まさかそんなことになっているとは誰も思いつけないだろう。これは絶対に騙される。ぜひ挑戦してみてほしい。

 

 

一つ目の叙述トリック:三人称諫早視点ではなく長崎の一人称視点

主人公の人称にはうすうす気づいたけど、性別誤認をそう使ってくるのが新鮮やな。単に、ボクっ娘で、百合なのかなって思いながら読んでいたら、

 

ファイアフライ館の秘密

 

館自体が楽器になっている。サクラダファミリアみたい

 

衝撃のエピローグ

エピローグで誰が生き残ったかはよく分からない。

 

 

螢 (幻冬舎文庫)

螢 (幻冬舎文庫)

 

 

ヌーヴォー・ロマンって知ってる?

ヌーヴォー・ロマンって知ってる?

「ヌーヴォー・ロマン」という言葉をご存じだろうか?たぶん、かなりの文学好きじゃないと知らないのではないかな。

ヌーヴォー・ロマンとは、1950年代のフランスで盛り上がった、前衛・実験文学の潮流だ。戦後のフランスでは、これまでの小説の根幹を覆すような小説が次々と発表されていた。その小説群は前衛的で実験的な内容から「ヌーヴォー・ロマン(新しい小説)」と呼ばれるようになった。

ヌーヴォー・ロマンを代表する作家としては、アラン・ロブ=グリエ、ミシェル・ビュートル、クロード・シモン、ナタリー・サロートなどが挙げられる。サミュエル・ベケットやマルグリット・デュラスの小説も含まれる場合がある。

ヌーヴォー・ロマンの作家たちが追い求めたのは、文章の魅力やストーリーの面白さではなく、小説の可能性だ。二人称などの人称の実験(『心変わり』)、プロットの一貫性や心理描写の欠落、意識の流れの叙述、客観的な描写の徹底など、ヌーヴォー・ロマンでは様々な実験が試みられた。下に代表的な作品を上げていく。

 

 

アラン・ロブ=グリエ 

 ヌーヴォーロマンといえばアラン・ロブ=グリエ 。河出文庫や講談社学術文庫、光文社古典新訳文庫などで出版されているので、ヌーヴォーロマンの作家の中でも、作品が入手しやすい。小説だけではなく、『新しい小説のために』という批評集も書いていて、理論的にもヌーヴォーロマンの代表格となった。また映画にも関わっていて、ロブ=グリエが脚本を書いた『去年、マリエンバートで』は難解な映画として有名である。ロブ=グリエ自身も映画を撮っていて、『快楽の漸進的横滑り』などの作品を残している。

 

消しゴム

消しゴム』では、謎が宙吊りにされて「宿命的結末」を招いてしまう様子が描かれている。殺人事件発生の報せを受けてやってきた捜査官ヴァラスだったが、肝心の遺体も犯人も見当たらない。オイディプス王のように、宿命的としか言いようがない結末を招くのだ。

 

 

迷路のなかで

 

 

快楽の館

『快楽の館』はタイトルからするとただの官能小説のように見えるが、構成が複雑な前衛小説となっている。青い館で行われる夜会と舞台、老人の不可解な死、女を手に入れるために奔走する男。謎に惹きつけられてページをめくっていくが、さらに謎が深まり、真実は一つにならず、色々な解釈が生まれる。決してミステリーのように一つの真相に至らない。一人称は「ぼく」のはずなのに、知りえないはずの光景まで記述されてゆく。まるで夢を見ているよう。そして「意識の流れ」の技法が使われていて、思考がとりとめもなく流れていく。小説内で起こる出来事は、時系列に並べられることを拒絶し、ただイメージや場面が反復されてゆく。

 

 

嫉妬

 

 

ミシェル・ビュートル

 

 

 

心変わり

ミシェル・ビュトールの『心変わり』は二人称小説の先駆けとなった小説だ。パリからローマへ向かう列車で、男がローマにいる愛人について夢想している。過去・現在・未来の時間が多層的に重ね合わされ、意識に去来する想念の移ろいが細部にわたって克明に記述されている。

 

 

時間割

 

 

クロード・シモン

 

路面電車

路面電車

路面電車

 

 

 

農耕詩

農耕詩

農耕詩

 

 

 

フランドルへの道

フランドルへの道

フランドルへの道

 

 

 

 

ナタリー・サロート

 

ナタリー・サロートの作品は入手しづらくなっている。

 

 

 

 

今、日本ではヌーヴォー・ロマンの小説は多くが絶版になっており、手に入れることが難しくなっている。今や、ヌーヴォー・ロマンはすっかり忘れてさられているか、あるいは全く知られていないと思うが、小説の可能性を追求しえられたことは今の文学にも引き継がれていると思う。少し前に純文学で流行っていた視点移動や人称操作も、元をたどればヌーヴォー・ロマンに辿りつくのではないだろうか。またミステリーのトリックにも、ヌーヴォー・ロマンの技法がつかわれていたりする。

今は昔ほど小説が読まれなくなっている。別に小説を読まなくたって、映画にテレビ、ゲーム、スマートフォン、VR、など娯楽は山ほどある。だから、小説にしかできないことがないと読者に選んでもらえないのではないだろうか。小説にしかできないこと、今までにないような小説、そんな小説の可能性を追求する小説を読みたいと思う。

U-NEXTにはウディ・アレンの映画が意外と多い説

最近、動画配信サービスの比較をしている

最近、無料体験期間を利用して、ネットフリックスやU-NEXTなどのサービスの比較をしている。比較する基準の一つに、ウディ・アレンの映画がどの位観れるかがある。ネットフリックスだと、『マジック・イン・ムーンライト』、『ミッドナイト・イン・パリ』など最新のものしかなかったが、U-NEXTはかなり充実していた。

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マジック・イン・ムーンライト』、『ミッドナイト・イン・パリ』、『それでも恋するバルセロナ』など最近の作品はほとんど揃っている。

 

 

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ハンナとその姉妹』などネットフリックスにはないものも多くあった。

 

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更には、『カイロと紫のバラ』といったTSUTAYAにもあんまりおいていない昔の名作も揃っている。これには結構驚いた。他にもTSUTAYAになくて見ることが出来なかった『おいしい生活』などの映画もあり、素晴らしいラインナップだ。ウディ・アレンに関しては、U-NEXTの品ぞろえは充実している!

 

 

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plutocharon.hatenablog.com

超絶技巧の問題作 / 『黒い仏』 殊能 将之

超絶技巧の問題作

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九世紀、天台僧が唐から持ち帰ろうとした秘法とは。助手の徐彬を連れて石動戯作が調査に行った寺には、顔の削り取られた奇妙な本尊が。指紋ひとつ残されていない部屋で発見された身元不明の死体と黒い数珠。事件はあっという間に石動を巻き込んで恐るべき終局へ。ついにミステリは究極の名探偵を現出せしめた。

 殊能将之といえば、『ハサミ男』が思い浮かぶ。『鏡の中は日曜日』も読んでいたけど、まさか『黒い仏』のような大大大問題作を書いているとは思わなかった。『黒い仏』も大どんでん返しのミステリーだけど、『ハサミ男』や『鏡の中は日曜日』とはベクトルが違う。斜め上すぎるどんでん返しなのだ。怒って壁に叩きつける人と、「凄く面白いものを読んだ」と肯定的に捉える人に大きく分かれそうなミステリーだ。一言で言うと賛否両論の問題作。この本を壁に叩きつけるかどうかは貴方次第

 

この『黒い仏』は殊能将之の石動シリーズの中の一つで、主人公は探偵の石動戯作(石動はいするぎと読む)と助手のアントニオ。『黒い仏』ではアントニオの衝撃としか言いようのない過去が明かされる。『黒い仏』はミステリー作家・クロフツのもじりなのかなと思ってみたり(黒仏=クロフツ!?)。ストーリーは円載の秘宝を巡る謎と、現代で起こる不可解な殺人事件が同時進行で進行していくというものだ。徐々に繋がりが見えてくるのだが、中盤辺りから雲行きが怪しくなってくる...そして衝撃の真相が明かされる。『黒い仏』の最後の一行は色々な意味で衝撃の一行だった。思わず笑ってしまった。途中の日本シリーズネタも、自分自身が野球に詳しくないこともあって面白く読めた。個人的には凄く衝撃的な小説を読めたから満足している。

 

ここから下はネタバレ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 本格ミステリの皮を被ったオカルトミステリー

 

論理的な石動の推理は明かされるのだが、実際は犯人は東京から空を飛んで九州に行き、超常現象的な手法で殺人を行っていたのである。もはやミステリというよりかは、オカルト。 助手のアントニオには並外れた(法力もしくは力(リー)と呼ばれている)があり、中国の情報部に追われている身であるという設定だ。『鏡の中は日曜日』を先に読んだけれど、アントニオにそんな片鱗は全く見えなかったぞ!事件解決後は闇の戦いが行われるような感じで終わりとなっている。

 

 

黒い仏と後期クイーン的問題

 最初に読んで思ったのは、この『黒い仏』は後期クイーン的問題にたいする皮肉というか、パロディ的な解答であるように思えた。

後期クイーン的問題とは、ミステリー作家法月倫太郎が指摘した、本格ミステリにみられる問題である。Wikipediaから引用すると、その問題とは

1.作中で探偵が最終的に提示した解決が、本当に真の解決かどうか作中では証明できない

 

2.作中で探偵が神であるかの様に振るまい、登場人物の運命を決定することについての是非

 

 である。この『黒い仏』では、1の問題が扱われているように思える。さらに、1についての解説をWikipediaから引用すると

つまり“推理小説の中”という閉じられた世界の内側では、どんなに緻密に論理を組み立てたとしても、探偵が唯一の真相を確定することはできない。なぜなら、探偵に与えられた手がかりが完全に揃ったものである、あるいはその中に偽の手がかりが混ざっていないという保証ができない、つまり、「探偵の知らない情報が存在する(かもしれない)ことを探偵は察知できない」からである。

作中の探偵石動はまさにこのような状況に陥っているのではないだろうか。石動は劇中で明らかになっている情報から推理を披露した。犯人側から見ると、殺人は超常現象的な手法で行われているので間違っていることは明らかだ。しかし、犯人たちが超常現象的な存在であることを知らない石動や私たち一般人に取っては、論理だった推理になっている。知らない情報がある限り、どんなに論理的に考えても、唯一の結末にたどり着くことはできないのだ。この『黒い仏』の面白いところは、この超常現象的な真実は超能力者以外には明かされず、逆に石動の推理と辻褄が合うように、タイムトラベルして過去の事実を書き換えるというところだ。もう斜め上過ぎて笑ってしまった。

 

 

 

子どもには読ませたくない / 『神様ゲーム』 麻耶 雄嵩

これは子どもに読ませたくない

 

 

神降市で猫殺しがおこるのだが。

 

ここから下はネタバレ

 

 

 

 

結局、父親と母親のどちらが共犯者なのか?

結論から言うと、共犯者は「母親」だ。だって、神様がそう言っているから。神様はすべての事を知っている。だから、神様である鈴木君は間違えるはずがない。鈴木君が話していることは推理ではなく、真実だ。論理的に推論した推理が、真相に一致しないこともあるという、後期クイーン的問題に行きつくのではないのか。

 

 

 

まあ、どちらの説にせよ、主人公にとってはやるせない結末となるけれども。

 

神様ゲーム (講談社文庫)

神様ゲーム (講談社文庫)