ヌーヴォー・ロマンって知ってる?
「ヌーヴォー・ロマン」という言葉をご存じだろうか?たぶん、かなりの文学好きじゃないと知らないのではないかな。
ヌーヴォー・ロマンとは、1950年代のフランスで盛り上がった、前衛・実験文学の潮流だ。戦後のフランスでは、これまでの小説の根幹を覆すような小説が次々と発表されていた。その小説群は前衛的で実験的な内容から「ヌーヴォー・ロマン(新しい小説)」と呼ばれるようになった。
ヌーヴォー・ロマンを代表する作家としては、アラン・ロブ=グリエ、ミシェル・ビュートル、クロード・シモン、ナタリー・サロートなどが挙げられる。サミュエル・ベケットやマルグリット・デュラスの小説も含まれる場合がある。
ヌーヴォー・ロマンの作家たちが追い求めたのは、文章の魅力やストーリーの面白さではなく、小説の可能性だ。二人称などの人称の実験(『心変わり』)、プロットの一貫性や心理描写の欠落、意識の流れの叙述、客観的な描写の徹底など、ヌーヴォー・ロマンでは様々な実験が試みられた。下に代表的な作品を上げていく。
アラン・ロブ=グリエ
ヌーヴォーロマンといえばアラン・ロブ=グリエ 。河出文庫や講談社学術文庫、光文社古典新訳文庫などで出版されているので、ヌーヴォーロマンの作家の中でも、作品が入手しやすい。小説だけではなく、『新しい小説のために』という批評集も書いていて、理論的にもヌーヴォー・ロマンの代表格となった。また映画にも関わっていて、ロブ=グリエが脚本を書いた『去年、マリエンバートで』は難解な映画として有名である。ロブ=グリエ自身も映画を撮っていて、『快楽の漸進的横滑り』などの作品を残している。
消しゴム
『消しゴム』では、謎が宙吊りにされて「宿命的結末」を招いてしまう様子が描かれている。殺人事件発生の報せを受けてやってきた捜査官ヴァラスだったが、肝心の遺体も犯人も見当たらない。オイディプス王のように、宿命的としか言いようがない結末を招くのだ。
迷路のなかで
快楽の館
『快楽の館』はタイトルからするとただの官能小説のように見えるが、構成が複雑な前衛小説となっている。青い館で行われる夜会と舞台、老人の不可解な死、女を手に入れるために奔走する男。謎に惹きつけられてページをめくっていくが、さらに謎が深まり、真実は一つにならず、色々な解釈が生まれる。決してミステリーのように一つの真相に至らない。一人称は「ぼく」のはずなのに、知りえないはずの光景まで記述されてゆく。まるで夢を見ているよう。そして「意識の流れ」の技法が使われていて、思考がとりとめもなく流れていく。小説内で起こる出来事は、時系列に並べられることを拒絶し、ただイメージや場面が反復されてゆく。
嫉妬
ミシェル・ビュートル
心変わり
ミシェル・ビュトールの『心変わり』は二人称小説の先駆けとなった小説だ。パリからローマへ向かう列車で、男がローマにいる愛人について夢想している。過去・現在・未来の時間が多層的に重ね合わされ、意識に去来する想念の移ろいが細部にわたって克明に記述されている。
時間割
クロード・シモン
路面電車
農耕詩
フランドルへの道
ナタリー・サロート
ナタリー・サロートの作品は入手しづらくなっている。
今、日本ではヌーヴォー・ロマンの小説は多くが絶版になっており、手に入れることが難しくなっている。今や、ヌーヴォー・ロマンはすっかり忘れてさられているか、あるいは全く知られていないと思うが、小説の可能性を追求しえられたことは今の文学にも引き継がれていると思う。少し前に純文学で流行っていた視点移動や人称操作も、元をたどればヌーヴォー・ロマンに辿りつくのではないだろうか。またミステリーのトリックにも、ヌーヴォー・ロマンの技法がつかわれていたりする。
今は昔ほど小説が読まれなくなっている。別に小説を読まなくたって、映画にテレビ、ゲーム、スマートフォン、VR、など娯楽は山ほどある。だから、小説にしかできないことがないと読者に選んでもらえないのではないだろうか。小説にしかできないこと、今までにないような小説、そんな小説の可能性を追求する小説を読みたいと思う。