日々の栞

本や映画について気ままに書く。理系の元書店員。村上春樹や純文学の考察や感想を書いていく

意外と絶版になっている安部公房の小説

意外と絶版になっている安部公房の小説

砂の女

砂の女

 

 僕は安部公房が好きだ。人生で一番感銘を受けた本は何かと問われると、安部公房の『砂の女』と即答するぐらいには好きだ。安部公房との出会いのきっかけは、高校の教科書に掲載されていた「赤い繭」という短編だ。これまでに読んだことがないような世界が広がっていて、様々な隠喩が張り巡らされた小説に引き付けられた。それから、『壁』・『砂の女』・『箱男』と安部公房作品を読むようになった。圧倒的な描写力によって支えられた哲学的なストーリーに夢中になった。しかし、周りの友達は安部公房を知らないようで、「誰それ、美味しいの? 」といった感じだった。(実際はこんな感じではない)。そういえば、実際に安部公房が好きという人に会ったことがないな。アイドルの世界には安部公房好きな乃木坂46齋藤飛鳥がいるのだけれど、現実には安部公房好きな女子っていないよな。非常に残念である。安部公房を嗜む、理想の黒髪の乙女は何処?

 

話を本題に戻すと、時の流れは残酷なもので、ノーベル文学賞候補といわれた安部公房の作品でさえいくつかが絶版になっている。その絶版になってしまった書籍をまとめてみようと思う。あわよくば、復刊してほしいな。

 

 

 

 カーブの向う・ユープケッチャ

カーブの向う・ユープケッチャ (新潮文庫)

カーブの向う・ユープケッチャ (新潮文庫)

 

 『燃えつきた地図』の原型である『カーブの向う』、『方舟さくら丸』の原型である『ユープケッチャ』、『砂の女』の原型である『チチンデラ ヤパナ』など、長編小説になる前の「種」の状態の短編小説が多く収録されている。どのように長編小説に変遷していったかが気になるので凄く読みたい。

 

 石の眼

石の眼 (新潮文庫 あ 4-10)

石の眼 (新潮文庫 あ 4-10)

 

絶版の本の中でもかなり気になっているのが『石の眼』。調べてみると、『石の眼』は社会派推理小説であり、『砂の女』に連なる試行錯誤的な作品であるらしい。ダムの工事現場で起きた殺人未遂事件を軸に話が展開していき、芥川龍之介の『藪の中』に近いテイストらしい。安部公房の作品の中でミステリーというのは『燃えつきた地図』ぐらいしか思いつかないから、気になっている。まあ、『燃えつきた地図』はミステリーというよりかは、アンチミステリの毛色が強いけれど。復刊希望。

 

 

 夢の逃亡

夢の逃亡 (新潮文庫 草 121-13)

夢の逃亡 (新潮文庫 草 121-13)

 

安部公房の初期短編集。表題作は「名前の喪失」をモチーフにしており、ここから派生して『壁』になったのだろうかと思う。『壁』との読み比べもしてみたいな。世界のKobo Abeなので是非とも復刊して欲しいものですな。

 

 

 幽霊はここにいる・どれい狩り

幽霊はここにいる・どれい狩り (新潮文庫)

幽霊はここにいる・どれい狩り (新潮文庫)

 

安部公房と言えば前衛文学やSFのイメージが強いかもしれないが、戯曲も手掛けている。「 幽霊はここにいる・どれい狩り」は、戯曲を収録した作品集だ。収録されている「幽霊はここにいる」で岸田演劇賞を受賞 しているので、是非とも復刊してほしいところ。というか、何故絶版になっているんだ。

 

 

 緑のストッキング・未必の故意

緑色のストッキング・未必の故意 (新潮文庫)

緑色のストッキング・未必の故意 (新潮文庫)

 

 こちらも 戯曲を収録した作品集だ。緑色のストッキングを愛する中年男が、その趣味が妻子にばれてしまったことが原因で自殺未遂し、医者の実験台となり「草食人間」となるという、あらすじからしてカオスな戯曲だ。戯曲「未必の故意」で芸術選奨文部大臣賞、戯曲「緑色のストッキング」で読売文学賞を受賞している。なのになぜ絶版なんだ。

 

 

 飛ぶ男

飛ぶ男

飛ぶ男

 

 安部公房の未完の遺作。死後、フロッピー・ディスクから発見され、刊行されるに至る。しかし、単行本版は夫人の真知による加筆がなされており、それが原因か文庫化がなされていない。夫人による加筆があったということもあり、この作品は復刊が厳しいかなって思っている。僕自身はたまたま古本屋で単行本を発見することが出来たので、なんとか買うことが出来た。「飛ぶ男」と「さまざまな父」の2作品が収録されている。

 

 

 死に急ぐ鯨たち

死に急ぐ鯨たち (新潮文庫)

死に急ぐ鯨たち (新潮文庫)

 

『死に急ぐ鯨たち』はエッセイやインタビューをまとめたものだ。エッセイと言えば『笑う月』ぐらいしか思いつかないから、これも復刊してほしいところ。

 

 

 

 

最近、『けものたちは故郷をめざす』がしれっと復刊されていたので、希望は捨てていない。『(霊媒の話より)題未定』も早く文庫化してほしいな。安部公房ほど現代で読まれるべき作家はいないのだろうかと思っている。一刻も早く安部公房の書籍が復刊されることを願うばかりである。めざせ「安部公房、春の復刊祭り」。

そろそろ服からサイズという概念がなくなってもいいんじゃないか?

そろそろオートクチュール復権してもいいんじゃない?

服を買うときに重要なのは、何といっても服のサイズ。自分にあったサイズを選ぶために何度も試着したり、鏡の前でにらめっこしたりする。はたまた無理して自分が服にサイズを合わせにいったことがある人も多いだろう。しかし、よく考えてみてほしい。サイズという概念は必要なのだろうかと。そもそも人の体はそれぞれ違っている。足が長い人もいれば、短い人もいる。肩幅が大きい人や、なで肩の人、腕が長い人、胴が長い人、人の体は千差万別だ。それを強引にS・M・Lで区切るのは荒っぽくないのかと思うのである。サイズという概念はプレタポルテ(既製服)と切り離すことが出来ない。厳密に計測して作成するオーダーメイドのオートクチュールでは大量生産することができない。サイズという概念に疑問を投げかけるのは、プレタポルテという概念に疑問を投げかけることに近い。しかし、色々な技術が発達した現在ではオートクチュールを低コストで実現することが可能ではないだろうか。このことを考えるようになったきっかけが二つある。ANREALAGEとZOZOスーツだ。

 

 

ANREALAGEのサイズが変わる服

www.youtube.com

パリコレに進出している日本の新進気鋭のブランド・ANREALAGE。ANREALAGEは服の概念を問うような服や、最新のテクノロジーを応用した服を発表し続けている。そのANREALAGEが2014S/Sで披露したのが「SIZE」というショーだ(このときは東京コレクション)。ショーの前半では、様々な服のサイズを変え、小さなアウターや大きなインナーを披露している。そして後半では、服の内部にワイヤーを張り巡らし、自由にサイズを調整できる服が登場した。人が服に合わせるのではなく、服が人に合わせる。まさに、サイズの概念を問うようなショーであった。

 

 

次世代のオートクチュール!?ZOZOスーツ

http://zozo.jp/zozosuit/

 

さらに可能性を感じさせてくれたのはZOZOTOWNが無料で配布したZOZOスーツだ。このスーツは、伸縮センサーを内蔵しており、このスーツを着ることで採寸が可能となる。そしてスマホでデータを読み取ることが出来る。しかもZOZOスーツを無料で配布したのだから驚きだ。このスーツを活用すれば、精密な身体データを簡単に集めることが出来る。そのデータを活用して完全オーダーメイドの服を作ることが出来る。またこのデータを活かすことで、ネット通販では出来ない試着の代わりになる。ハイテクを活かした次世代のオートクチュール。サイズが決まったプレタポルテではなくて、ハイテクをいかして完全オーダーメイドの服を低コストで実現できるのではないだろうか。また体型データを分析し、似合うコーディネートを提案してくれるサービスも展開するようである。人が服に合わせるのではなく、服が人に合わせるというように、ファッションの常識が大きく変わっていくのかもしれない。

 

しかもZOZOスーツで得た身体データはファッションだけではなくて、医療や保険業界などにもそのビックデータを活かせるというメリットもある。そうなると服の販売だけではなくて、データ活用という新しいビジネスも生まれてくる。恐るべしZOZOTOWN。

【やれやれ】村上春樹の小説にありがちなこと

村上春樹の小説にありがちなこと

現代日本文学シーンを牽引する村上春樹。その村上春樹の小説にありがちなことを挙げてみた。やれやれ。

 

 

「やれやれ」言いがち

村上春樹の小説頻出ワードNo.1といっても過言ではない「やれやれ」。諦念感がにじみ出ているこの台詞はよく多用されている。やれやれ。そもそも村上春樹の小説の主人公たちはどこか冷めたところがあり、達観していて、受け身的である。やれやれという台詞はその象徴的なものだ。いったい今までにどれだけのの「やれやれ」が使われてきたのだろうか。数えてみようかと思ったが、1分間考えたのちに諦めた。それはきっと宇宙に存在する星の数より多いかもしれない(そんなことはない)。やれやれ。

 

スパゲティ茹でがち

何かとスパゲティを茹でることに定評がある登場人物たち。『スパゲッティーの年に』という短編もあるし、『ねじまき鳥クロニクル』の始まりもスパゲティを茹でるところから始まる。彼らの作るパスタの種類は何であろうか。確実に言えることは、完璧なアルデンテといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。

 

 

テニスシューズ履きがち

登場人物テニスシューズ履いている率が非常に高い。きっと靴屋ではテニスシューズしか売っていないのだろう。きみはテニスシューズを履いても良いし、履かなくても良い。つまりはそういうことだ。そして、僕は靴屋の店員と寝た。

 

 

クラシック・ジャズの蘊蓄

 とにかく登場人物はクラシック・ジャズの造詣が深い。やれやれ。

 

 

すぐに女の人と寝る(何の苦労もなく)

村上春樹の小説に出てくる登場人物たちは息をするように女と寝る。とても自然に、スムーズに。自分から女にいい寄るでもなく、気がついたら女と寝ている。やれやれ。とにかく女の人にモテるのである。『1973年のピンボール』に至っては、朝起きると隣に双子の女の子が寝ているというシチュエーションである。端的に言って、羨ましい。『ノルウェイの森』に至っては、官能小説なのかと思うほど女と寝ている。『騎士団長殺し』に至っては、冒頭ですぐに人妻と寝ている。やれやれ。

 

登場人物が失踪しがち

 よく失踪する

 

あちら側とこちら側を行き来する

 村上春樹の小説では大体においてあちら(死の世界)とこちら(生の世界)を行き来することになる。その行き来は暗示的に描かれている。

 

 

あなたのレーゾン・デートゥル

やれやれ。『風の歌を聴け』p95を参照。

 

 

以上、村上春樹の小説にありがちな事でした。

 

 

plutocharon.hatenablog.com

 

失われたものへのレクイエム / 『1973年のピンボール』 村上 春樹

青春三部作の二作目

村上春樹の第二作目であり、青春三部作の2作目である『1973年のピンボール。『風の歌を聴け』に続いて、主人公は「僕」と「鼠」で、二人の話がパラレルに綴られて行く。この小説で二人が邂逅を果たすことはなく、2人が再び出会うことになるのは3作目の『羊をめぐる冒険』でのことである。タイトルの『1973年のピンボール』は大江健三郎の『万延元年のフットボール』からきているのであろうか。この『1973年のピンボール』は作中の言葉を借りれば、「入口があって出口がある」小説だ。双子たちが僕の元にやって来て、そして去っていく。「僕」はピンボールを追い求め、「鼠」は女の元を去ろうとする。

 

僕は、この小説を失われたものに向き合っていく小説だと解釈している。作中には失われてしまった人やもの・時代遅れになってしまったものが幾つも出てくる。直子や配電盤、ピンボールマシーン・スペースシップ、学生運動。主人公の僕はピンボール・スペースシップを探すなかで、直子の喪失に向き合う。いや、直子だけではなく、失われてしまったものすべてに。

 

学生運動の衰退と『1973年のピンボール

1960年代と言えば学生運動がかなり盛り上がっていたときだ。1970年代に入り、学生運動は下火になっていく。そんな学生運動へのレクイエムのような意味も込められているのではないか。

 

配電盤のお葬式

 

直子とピンボール

 ここでは、『1973年のピンボール』の直子と『ノルウェイの森』の直子を切り離して考えたい。スペースシップに直子が重ね合わせてられているようにかんじる。村上春樹の小説に頻出するモチーフとして「あちら側」と「こちら側」がある。あるいは、生と死と言い換えても良いかもしれない。生の世界から死の世界に踏み入れるシーン

 

そして『羊をめぐる冒険』へ

1973年のピンボール』で邂逅を果たすことがなかった「僕」と「鼠」は、『羊をめぐる冒険』で再会することになる。再会には大きな喪失が伴っていた...青春三部作に続きに『ダンス・ダンス・ダンス』があるが、その小説に「鼠」は登場しない。「僕」と「鼠」の物語は『羊をめぐる冒険』で幕を閉じることになる。この『1973年のピンボール』はその終わりのための序章のように感じる。ちょうど『バック・トゥ・ザ・フューチャー2』のように。

 

1973年のピンボール (講談社文庫)

1973年のピンボール (講談社文庫)

 

 

あの時彼女と寝るべきだったのか /『バート・バカラックはお好き?』 村上 春樹

あの時彼女と寝るべきだったのか ?

「もしかしたらやれていたかもしれない」という経験を世の男性たちはどの位経験しているのだろうか。あの時彼女と寝れたかもしれなかったという経験は僕にはないけれど、もしかしたら付き合っていたかもしれないというような思い出がある。それとこれとは話が別なんだろうけど。最近「やれたかも委員会」って言う漫画があるけど、『 バート・バカラックはお好き?』はそんな感じの話だ。

村上春樹ってそんな感じの話が多いよねと思ったが、冷静に考えれば「やれたかも」ではなく実際に「やっている」。文通をきっかけで出会った男女の淡い関係性が感傷的に描かれている。僕にも「あのときやれたかもしれないな」と思えるような経験が出来るのだろうか…一回ぐらい経験してみたい。

 

やれたかも委員会 1巻

やれたかも委員会 1巻

 
 

 

 

象徴としてのあしか / 「あしか祭り」 村上 春樹

メタファーとしてのあしか

 

そういえばあしかを見た記憶がない。子供の時に見た気がするが、あれはあざらしだっかかもしれない。この「あしか祭り」にとってあしかという存在は重要なものではなく、ある種の象徴性を備えたメタファー的な存在としてあらわされている。といった感じでこの「あしか祭り」は、よくパロディの題材として扱われる村上春樹文体のまわりくどさが前面に押し出された短編。

あしかルネッサンスとか意味が分からないし、「あしか性を確認する作業」に至っては意味が分からないを通り越して、何か神聖な意味合いがあるのではないかと思えてくる。やれやれ。この短編の「あしか」という言葉は、他の言葉に置き換えても問題がない気がする。カンガルーでもいいし、たまねぎでもいいような気がする。そう言う意味ではあしかは象徴的なものとして機能しているのかもしれない。とにかく色々とシュールなので、少し笑ってしまった。

 

形而上学的な意味合いを持ち、メタファーとして機能するあしか。書いてる僕自身もさっぱり意味が分からない。

 

栞の一行

祭りというものはあくまで祭りにすぎません。 華やかではありますが、それはいわば連続した行為のひとつの帰結でしかないのです。真の意味は、つまり我々のアイデンティティーとしてのあしか性を確認する作業はこの行為の連続性の中にこそあるのです。祭りとはあくまでその追認行為にすぎないわけです

 

 

関連記事(『カンガルー日和』に収録されている他の短編について)

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本当に怖いものは... / 「鏡」 村上 春樹

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鏡は「この世ではないもの」を映すと言われていて、心霊話の題材としてよく使われる。僕も子どもの時に、合わせ鏡をすると「何か良くないもの」が紛れ込むから辞めなさいと言われた記憶がある。ここでいう「何か良くないもの」というのは心霊的でオカルト的なものであるのだが、村上春樹の「」で描かれているのはそういった意味ではなく別の意味での「何か良くないもの」だ。

村上春樹の「鏡」という小説は、『カンガルー日和』という短編集に収録されている10ページほどの短い短編だ。最近では国語の教科書に採用されているらしく、熱心な村上春樹読者でもない人でも読んだことがある人は多いと思う。僕が高校生だった時には国語の教科書に表題作の「カンガルー日和」が採用されていた。授業としては楽しかったが、先生的には村上春樹の文章で問題を作るのは難しいそうだ。

鏡の話に戻ろう。「鏡」という短編は、来客が怖い話を語り合う会で、主催者が最後に自分の話を語るという体裁になっている。

このスタイルは村上春樹の別の短編『七番目の男』にも受け継がれている。この『七番目の男』という話もなかなかに怖い話なので、気になる人は是非読んでみて欲しい。国語の授業で勉強している人にも参考になるように「鏡」の自分なりの解釈を書いていこうと思う。

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