日々の栞

本や映画について気ままに書く。理系の元書店員。村上春樹や純文学の考察や感想を書いていく

そろそろ服からサイズという概念がなくなってもいいんじゃないか?

そろそろオートクチュール復権してもいいんじゃない?

服を買うときに重要なのは、何といっても服のサイズ。自分にあったサイズを選ぶために何度も試着したり、鏡の前でにらめっこしたりする。はたまた無理して自分が服にサイズを合わせにいったことがある人も多いだろう。しかし、よく考えてみてほしい。サイズという概念は必要なのだろうかと。そもそも人の体はそれぞれ違っている。足が長い人もいれば、短い人もいる。肩幅が大きい人や、なで肩の人、腕が長い人、胴が長い人、人の体は千差万別だ。それを強引にS・M・Lで区切るのは荒っぽくないのかと思うのである。サイズという概念はプレタポルテ(既製服)と切り離すことが出来ない。厳密に計測して作成するオーダーメイドのオートクチュールでは大量生産することができない。サイズという概念に疑問を投げかけるのは、プレタポルテという概念に疑問を投げかけることに近い。しかし、色々な技術が発達した現在ではオートクチュールを低コストで実現することが可能ではないだろうか。このことを考えるようになったきっかけが二つある。ANREALAGEとZOZOスーツだ。

 

 

ANREALAGEのサイズが変わる服

www.youtube.com

パリコレに進出している日本の新進気鋭のブランド・ANREALAGE。ANREALAGEは服の概念を問うような服や、最新のテクノロジーを応用した服を発表し続けている。そのANREALAGEが2014S/Sで披露したのが「SIZE」というショーだ(このときは東京コレクション)。ショーの前半では、様々な服のサイズを変え、小さなアウターや大きなインナーを披露している。そして後半では、服の内部にワイヤーを張り巡らし、自由にサイズを調整できる服が登場した。人が服に合わせるのではなく、服が人に合わせる。まさに、サイズの概念を問うようなショーであった。

 

 

次世代のオートクチュール!?ZOZOスーツ

http://zozo.jp/zozosuit/

 

さらに可能性を感じさせてくれたのはZOZOTOWNが無料で配布したZOZOスーツだ。このスーツは、伸縮センサーを内蔵しており、このスーツを着ることで採寸が可能となる。そしてスマホでデータを読み取ることが出来る。しかもZOZOスーツを無料で配布したのだから驚きだ。このスーツを活用すれば、精密な身体データを簡単に集めることが出来る。そのデータを活用して完全オーダーメイドの服を作ることが出来る。またこのデータを活かすことで、ネット通販では出来ない試着の代わりになる。ハイテクを活かした次世代のオートクチュール。サイズが決まったプレタポルテではなくて、ハイテクをいかして完全オーダーメイドの服を低コストで実現できるのではないだろうか。また体型データを分析し、似合うコーディネートを提案してくれるサービスも展開するようである。人が服に合わせるのではなく、服が人に合わせるというように、ファッションの常識が大きく変わっていくのかもしれない。

 

しかもZOZOスーツで得た身体データはファッションだけではなくて、医療や保険業界などにもそのビックデータを活かせるというメリットもある。そうなると服の販売だけではなくて、データ活用という新しいビジネスも生まれてくる。恐るべしZOZOTOWN。

【やれやれ】村上春樹の小説にありがちなこと

村上春樹の小説にありがちなこと

現代日本文学シーンを牽引する村上春樹。その村上春樹の小説にありがちなことを挙げてみた。やれやれ。

 

 

「やれやれ」言いがち

村上春樹の小説頻出ワードNo.1といっても過言ではない「やれやれ」。諦念感がにじみ出ているこの台詞はよく多用されている。やれやれ。そもそも村上春樹の小説の主人公たちはどこか冷めたところがあり、達観していて、受け身的である。やれやれという台詞はその象徴的なものだ。いったい今までにどれだけのの「やれやれ」が使われてきたのだろうか。数えてみようかと思ったが、1分間考えたのちに諦めた。それはきっと宇宙に存在する星の数より多いかもしれない(そんなことはない)。やれやれ。

 

スパゲティ茹でがち

何かとスパゲティを茹でることに定評がある登場人物たち。『スパゲッティーの年に』という短編もあるし、『ねじまき鳥クロニクル』の始まりもスパゲティを茹でるところから始まる。彼らの作るパスタの種類は何であろうか。確実に言えることは、完璧なアルデンテといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。

 

 

テニスシューズ履きがち

登場人物テニスシューズ履いている率が非常に高い。きっと靴屋ではテニスシューズしか売っていないのだろう。きみはテニスシューズを履いても良いし、履かなくても良い。つまりはそういうことだ。そして、僕は靴屋の店員と寝た。

 

 

クラシック・ジャズの蘊蓄

 とにかく登場人物はクラシック・ジャズの造詣が深い。やれやれ。

 

 

すぐに女の人と寝る(何の苦労もなく)

村上春樹の小説に出てくる登場人物たちは息をするように女と寝る。とても自然に、スムーズに。自分から女にいい寄るでもなく、気がついたら女と寝ている。やれやれ。とにかく女の人にモテるのである。『1973年のピンボール』に至っては、朝起きると隣に双子の女の子が寝ているというシチュエーションである。端的に言って、羨ましい。『ノルウェイの森』に至っては、官能小説なのかと思うほど女と寝ている。『騎士団長殺し』に至っては、冒頭ですぐに人妻と寝ている。やれやれ。

 

登場人物が失踪しがち

 よく失踪する

 

あちら側とこちら側を行き来する

 村上春樹の小説では大体においてあちら(死の世界)とこちら(生の世界)を行き来することになる。その行き来は暗示的に描かれている。

 

 

あなたのレーゾン・デートゥル

やれやれ。『風の歌を聴け』p95を参照。

 

 

以上、村上春樹の小説にありがちな事でした。

 

 

plutocharon.hatenablog.com

 

失われたものへのレクイエム / 『1973年のピンボール』 村上 春樹

青春三部作の二作目

村上春樹の第二作目であり、青春三部作の2作目である『1973年のピンボール。『風の歌を聴け』に続いて、主人公は「僕」と「鼠」で、二人の話がパラレルに綴られて行く。この小説で二人が邂逅を果たすことはなく、2人が再び出会うことになるのは3作目の『羊をめぐる冒険』でのことである。タイトルの『1973年のピンボール』は大江健三郎の『万延元年のフットボール』からきているのであろうか。この『1973年のピンボール』は作中の言葉を借りれば、「入口があって出口がある」小説だ。双子たちが僕の元にやって来て、そして去っていく。「僕」はピンボールを追い求め、「鼠」は女の元を去ろうとする。

 

僕は、この小説を失われたものに向き合っていく小説だと解釈している。作中には失われてしまった人やもの・時代遅れになってしまったものが幾つも出てくる。直子や配電盤、ピンボールマシーン・スペースシップ、学生運動。主人公の僕はピンボール・スペースシップを探すなかで、直子の喪失に向き合う。いや、直子だけではなく、失われてしまったものすべてに。

 

学生運動の衰退と『1973年のピンボール

1960年代と言えば学生運動がかなり盛り上がっていたときだ。1970年代に入り、学生運動は下火になっていく。そんな学生運動へのレクイエムのような意味も込められているのではないか。

 

配電盤のお葬式

 

直子とピンボール

 ここでは、『1973年のピンボール』の直子と『ノルウェイの森』の直子を切り離して考えたい。スペースシップに直子が重ね合わせてられているようにかんじる。村上春樹の小説に頻出するモチーフとして「あちら側」と「こちら側」がある。あるいは、生と死と言い換えても良いかもしれない。生の世界から死の世界に踏み入れるシーン

 

そして『羊をめぐる冒険』へ

1973年のピンボール』で邂逅を果たすことがなかった「僕」と「鼠」は、『羊をめぐる冒険』で再会することになる。再会には大きな喪失が伴っていた...青春三部作に続きに『ダンス・ダンス・ダンス』があるが、その小説に「鼠」は登場しない。「僕」と「鼠」の物語は『羊をめぐる冒険』で幕を閉じることになる。この『1973年のピンボール』はその終わりのための序章のように感じる。ちょうど『バック・トゥ・ザ・フューチャー2』のように。

 

1973年のピンボール (講談社文庫)

1973年のピンボール (講談社文庫)

 

 

あの時彼女と寝るべきだったのか /『バート・バカラックはお好き?』 村上 春樹

あの時彼女と寝るべきだったのか ?

「もしかしたらやれていたかもしれない」という経験を世の男性たちはどの位経験しているのだろうか。あの時彼女と寝れたかもしれなかったという経験は僕にはないけれど、もしかしたら付き合っていたかもしれないというような思い出がある。それとこれとは話が別なんだろうけど。最近「やれたかも委員会」って言う漫画があるけど、『 バート・バカラックはお好き?』はそんな感じの話だ。

村上春樹ってそんな感じの話が多いよねと思ったが、冷静に考えれば「やれたかも」ではなく実際に「やっている」。文通をきっかけで出会った男女の淡い関係性が感傷的に描かれている。僕にも「あのときやれたかもしれないな」と思えるような経験が出来るのだろうか…一回ぐらい経験してみたい。

 

やれたかも委員会 1巻

やれたかも委員会 1巻

 
 

 

 

象徴としてのあしか / 「あしか祭り」 村上 春樹

メタファーとしてのあしか

 

そういえばあしかを見た記憶がない。子供の時に見た気がするが、あれはあざらしだっかかもしれない。この「あしか祭り」にとってあしかという存在は重要なものではなく、ある種の象徴性を備えたメタファー的な存在としてあらわされている。といった感じでこの「あしか祭り」は、よくパロディの題材として扱われる村上春樹文体のまわりくどさが前面に押し出された短編。

あしかルネッサンスとか意味が分からないし、「あしか性を確認する作業」に至っては意味が分からないを通り越して、何か神聖な意味合いがあるのではないかと思えてくる。やれやれ。この短編の「あしか」という言葉は、他の言葉に置き換えても問題がない気がする。カンガルーでもいいし、たまねぎでもいいような気がする。そう言う意味ではあしかは象徴的なものとして機能しているのかもしれない。とにかく色々とシュールなので、少し笑ってしまった。

 

形而上学的な意味合いを持ち、メタファーとして機能するあしか。書いてる僕自身もさっぱり意味が分からない。

 

栞の一行

祭りというものはあくまで祭りにすぎません。 華やかではありますが、それはいわば連続した行為のひとつの帰結でしかないのです。真の意味は、つまり我々のアイデンティティーとしてのあしか性を確認する作業はこの行為の連続性の中にこそあるのです。祭りとはあくまでその追認行為にすぎないわけです

 

 

関連記事(『カンガルー日和』に収録されている他の短編について)

plutocharon.hatenablog.com

 

plutocharon.hatenablog.com

本当に怖いものは... / 「鏡」 村上 春樹

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鏡は「この世ではないもの」を映すと言われていて、心霊話の題材としてよく使われる。僕も子どもの時に、合わせ鏡をすると「何か良くないもの」が紛れ込むから辞めなさいと言われた記憶がある。ここでいう「何か良くないもの」というのは心霊的でオカルト的なものであるのだが、村上春樹の「」で描かれているのはそういった意味ではなく別の意味での「何か良くないもの」だ。

村上春樹の「鏡」という小説は、『カンガルー日和』という短編集に収録されている10ページほどの短い短編だ。最近では国語の教科書に採用されているらしく、熱心な村上春樹読者でもない人でも読んだことがある人は多いと思う。僕が高校生だった時には国語の教科書に表題作の「カンガルー日和」が採用されていた。授業としては楽しかったが、先生的には村上春樹の文章で問題を作るのは難しいそうだ。

鏡の話に戻ろう。「鏡」という短編は、来客が怖い話を語り合う会で、主催者が最後に自分の話を語るという体裁になっている。

このスタイルは村上春樹の別の短編『七番目の男』にも受け継がれている。この『七番目の男』という話もなかなかに怖い話なので、気になる人は是非読んでみて欲しい。国語の授業で勉強している人にも参考になるように「鏡」の自分なりの解釈を書いていこうと思う。

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ZARAの靴がバレンシアガ・リック・オウエンスぽい件について

ZARAの靴に既視感が...

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お金がない貧乏大学院生なので、ZARAのオンラインショッピングでも見て、安くていいアイテムがないかなと思って探していた。すると、見覚えのある靴に出会った。あれ、この靴どこかで見たことがある...

あれ...

何だっけ...

バレンシアガのスピードトレーナーや!!!!!

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完全に一致。これはZARAさんまずいのではないのでしょうかと思うぐらいに完全に一致。ソックスにしているあたりこれは確信犯だと思う。パリコレなどのトレンド最先端のデザインはどんどん広がっていくけれど、これはパクリと言われてもしかたないようなデザイン。まあ、でも9000円台とお値段がお手頃で、バレンシアガが買えない僕のような貧乏大学院生にはピッタリかもしれない。バレンシアガのスピードトレーナー凄く欲しいけれど値段が非常に高いからな...7万円ぐらいするし...社会人になったら買いたいな...

 

と色んな事を考えながら見ていたら、もう一つあることに気づいた。

リック・オウエンスの靴のデザインにそっくりや!

 

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これまた完全に一致である。これはハイブランドに詳しくない人にとっては気付きにくいだろう。バレンシアガとリック・オウエンスの靴を足して2で割って0.001かけた的な。デザインは似ていても、品質はファストファッションと杯ブランドで雲泥の差があるからね。

 

優れたデザインが真似されるのも仕方ないのかもしれない。そもそもファッションは優れたデザイナーの服がどんどんスタンダードになってきた歴史があるし、デザインを真似ることは悪いことではないと思う。けれど敬意がない真似というか、露骨な真似はパクリといわれて断罪されても仕方ないんじゃないかな。

 

色々好き勝手言ったけれど、バレンシアガを買うことが出来ない貧乏大学院生なのでZARAの靴を買ってしまいそうだな。