日々の栞

本や映画について気ままに書く。理系の元書店員。村上春樹や純文学の考察や感想を書いていく

「意識高い系」と李徴の共通点 / 『山月記』 中島 敦

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 世の中の人は『ライ麦畑でつかまえて』、『人間失格』、『山月記』のどれかには深く心を揺さぶられるのではないかと思っている。どれも、いわゆる中二病といわれそうな内容だ。

でも、人って中二病的なものを心にいくらか抱えて生きていくんじゃないかなって思う。僕の心に一番響いたのは中島敦の『山月記』だ。今まで読んだ小説のベスト3を決めるなら、間違いなく『山月記』が入るだろう。

高校生の時、教科書に載っていた『山月記』を読んだとき、李徴は自分のことだと思った。

 

『山月記』は『人虎伝』を題材にした中島敦の小説だ。夏目漱石の『こころ』と並んで、高校の教科書の定番教材である。なので、読んだことがある人が多いんじゃないかなと思う。

高すぎるプライドと折り合いをつけることが出来ず、虎になってしまった李徴に共感した人も多いはずだ。

 

僕も気が付けば李徴のように臆病な自尊心を飼い太らせてしまっていた。大した努力をしてきた訳でもないのに、自分は何か特別なんだと思っていた。自分が成功した未来像を描いてみるも、それをかなえるための努力は何一つしてこなかった。自分の才能が欠如していることに気が付きたくないから。自分のプライドを守りたいから。自分が傷付きたくないから。

『山月記』で描かれる李徴のように。僕も李徴のように、高すぎるプライドに苛まれて、虎になってしまうのが怖かった。自分のプライドと折り合いをつけるのは難しいことだ。虎になってしまうと思うたびに、『山月記』を読み返してきた。その言葉の一つ一つが心にしみた。

 

 

 「意識高い系」人と李徴の共通点

現代で李徴のように虎になってしまった人が、いわゆる「意識高い系」の人だと思っている。自分は特別なんだという自負に満ちていて、承認欲求が強いけれど、たいして努力もしておらず、空回りしている「意識高い系」の人たち。彼らも、臆病な自尊心尊大な羞恥心を飼い太らせてしまったのかなと思う。「意識高い系」の人たちは、実力に見合わずプライドが高すぎる。

この『山月記』の高すぎるプライドとの折り合いというモチーフは、現代に通じるだけの普遍性があると思う。むしろ、SNSで承認欲求を満たすことが横行している現代でこそ読まれるべき作品ではないか。

『山月記』は色あせることのない古典作品だと思っている。あなたも虎になってしまっていないだろうか?

 

 

人生の全ての選択肢を選んだら / 『ミスター・ノーバディ』 ジャコ・ヴァン・ドルマル

 人生の全ての選択を選んだら

ミスター・ノーバディ [DVD]

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人生は選択の連続だ。身近な選択であれば、どの道を通るか、昼飯は何を食べるか。人生を左右するものであれば、何を学ぶか、どの就職先にするか、どこに住むか、誰と結婚するか、と選択から逃れることはできない。選択肢は多いけど、人生は一度しかない。だから、必ず何かの選択肢を選ばなければならない。全ての選択肢を選びそれから決めれたら…そんな叶いそうもない願いを実現させたのがこの『ミスター・ノーバディ』だ。『バタフライ・エフェクト』や『スライディング・ドア』、『ダイアナの選択』と同様に人生の選択をテーマにした重厚な映画だ。主人公のニモは様々に分岐した人生を語りだす。母親についていったら、父親についていったら、三人の女性から誰を選ぶか。普通の人には不可能であるすべての選択肢を選んだ複数形の人生が幻想的な美しい描写で描かれる。複数の人生が描かれるため、混乱すると思いきや、主人公の髪型や服装、映像の雰囲気でうまく作り分けられている。一体ニモはどの人生を選んだのか?逆にニモはすべての選択肢を選ばなかったのか?

 

 

映画を観るうちに自分も人生のあらゆる選択肢、可能性に思いをはせていることに気づく。そして、選択を後悔することなんて必要ないことに気付く。どの選択肢にも同等の価値があり、自分は今の選択肢を選び抜いた。選んだ選択には選ばれなかった選択の分の可能性の重さがあるのだ。

伊坂幸太郎とタランティーノ

伊坂幸太郎タランティーノ

 何故か、タランティーノの映画を観た後伊坂幸太郎の小説が読みたくなってしまう。タランティーノの映画で味わえる登場人物たちの饒舌で洒脱な会話に浸りたくなるからだろうか。伊坂幸太郎の小説も登場人物たちの洒脱で冗談に溢れた会話が魅力の一つだ。とあれこれ考えているうちに、他にも共通点があるんじゃないかと思い始めた。登場人物の洒脱な会話以外には、作品間のリンク、ポップカルチャーの引用、時系列を組み替えたり、秀逸な伏線をひいたりと構成が凝っているところなどなど。

 

 

作品間のリンク

重力ピエロ (新潮文庫)

重力ピエロ (新潮文庫)

 

 タランティーノの映画では、レッドアップルというタバコはよく出てくるアイテムだし、別作品の登場人物に隠された関係があるというのはお馴染みである。伊坂作品でも作品間のリンクがよく見られる(ほとんどの作品にある)。有名なのをあげると、『ラッシュライフ』の黒澤は『重力ピエロ』にも出てきている。

 
 

時系列シャッフル

パルプ・フィクション [DVD]

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 タランティーノ作品では、時系列のシャッフルが効果的に使われていて、構成が練られている。例を挙げると群像劇の『パルプ・フィクション』があり、最初と最後のシーンが繋がる構成は思わずはっとした。他にはデビュー作の『レザボア・ドックス』がある。伊坂幸太郎の小説も、ネタバレになるので作品名はあげられないけれど、時系列シャッフルが作品のカギとなっているものが多い。

 
 

個人的にタランティーノぽい雰囲気を感じる伊坂幸太郎の小説

作品ごとに見ていくと、陽気なギャングシリーズ(『陽気なギャングが地球を回す』、『陽気なギャングの日常と襲撃』、『陽気なギャングは三つ数えろ』)、『ラッシュライフ』、『マリアビートル』はタランティーノぽいって勝手に思っている。独断と偏見で勝手に思っている。
 
陽気なギャングが地球を回す (祥伝社文庫)

陽気なギャングが地球を回す (祥伝社文庫)

 

 『レザボア・ドッグス』と陽気なギャングシリーズは雰囲気が似ている。『レザボア・ドッグス』は、素性の分からない男たちが集まり、強盗をするも失敗していまい、裏切り者を探すというあらすじである。あらすじを見る限り、論理的に犯人を探しだすミステリーと思うのだが、実際は映画の大半が雑談に費やされている。陽気なギャングも、登場人物の饒舌な会話が魅力の小説である。とくに響野という登場人物はずっと喋っている。

あと、陽気なギャングシリーズでは主人公たちが背広で銀行強盗するのだが、これは『レザボア・ドッグス』のオマージュなんじゃないかなと思う。『レザボア・ドックス』でも背広で強盗に挑んでいる。背広姿でさっそうと登場するオープニングシーンが凄くセンスに溢れていてカッコいい。

 

 

 マリアビートルもレザボアと雰囲気が似ている気がする。『レザボア・ドックス』は密室劇で、『マリアビートル』も新幹線での密室劇だ。あと『マリアビートル』に登場する檸檬と蜜柑というキャラクターがとにかくおしゃべりで、それがタランティーノ映画を彷彿とさせる。

 

 

ラッシュライフ (新潮文庫)

ラッシュライフ (新潮文庫)

 

 構成的な面では、『ラッシュライフ』は『パルプ・フィクション』と似たものを感じる。両作とも巧みな構成の群像劇である。『ラッシュライフ』の冒頭では、ラッシュの辞書的意味を載せている。そして『パルプ・フィクション』のオープニングでもplupの辞書的意味を載せるシーンがあり、そのシーンがオマージュされているんだろうと思う。

 

『メイド・イン・USA』だけどフランス映画 / 『メイド・イン・USA』 ジャン=リュック・ゴダール

メイド・イン・USA』だけどフランス映画

 ヌーヴェルヴァーグを代表するジャン=リュック・ゴダール監督の作品。初期のゴダール作品でアンナ・カリーナが主演している。フランス映画なのにタイトルが『メイド・イン・USA』となっているのは、ゴダールがアメリカ映画にオマージュを捧げているため。

 

ゴダールの作品らしく、「観客は騙せても私は騙せない」といったメタ発言が出てきたり、色彩がかなりカラフルになっている。唐突に日本人も出てくる。ある登場人物の名前を効果音で隠すという演出もされている。そして、アンナ・カリーナが美しく撮られている。ちょっと疲れている感じがみえたけど。アンナ・カリーナ小松菜奈って雰囲気似ているなってふと思った。

 

内容はよく分からないけれど、美的センスというか詩的な台詞にひかれてゴダール作品を見続けている。ゴダール作品は難解でよく分からないのに(特に『気狂いピエロ』や『ゴダールの決別』)、スタイリッシュさやお洒落さにひかれて観てしまう。

少女にしか分からない倦怠感と儚さ / 『ヴァージン・スーサイズ』 ソフィア・コッポラ

思春期特有の儚さと危うさを描いたガーリーな映画

ヴァージン・スーサイズ [DVD]

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これが女子高の雰囲気なのかなと観たあとに思った映画『ヴァージン・スーサイズ』。

ロスト・イン・トランスレーション』で有名なソフィア・コッポラの初監督作品だ。不安定な思春期の少女たちが淡く、儚く描かれている。アンニュイって言う形容詞はこの映画のためにあるんだなって思った。その儚さ、淡さ、そして倦怠感にとても惹かれてしまう。限られた時間しか少女にはいられない。その少女の儚さ、甘美さが詰め込まれたガーリーな映画。少女ってこんな感じなのかなって思いながら観てた。僕はどちらかというとこの男子目線で映画を観てた。そしてこの謎めいた姉妹に翻弄される男子たち。謎めいた女子だけの世界をのぞき見してしまった気分になる。サントラも凄く良い。

 

ただガーリーなだけじゃなくて、思春期特有の狂気や闇みたいなものも『ヴァージン・スーサイズ』では描かれている。ラックスが屋根の上でセックスをする様になり、ただガーリーな映画ではなくなってくる。親の過保護に反発するにつれて、だんだんと狂気を帯びてくる。そして、姉妹たちは狂気にとりつかれたように次々と自殺してしまう。自殺の理由は最後まで明らかにならない。彼女たちにもその理由は分からなかったのだろう。男にとって女はいつになっても謎のままだ。

 

だって。先生は13歳の女の子だったことがないから、きっと分からないわ。

冒頭で、13歳のセシリアが自殺未遂を起こし、病院に運ばれた際に医者にいった言葉だ。この映画には少女にしかわからない感覚がみちているのかな。自分が男子だから分からないけど。

 

ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹

ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹 (ハヤカワepi文庫)

ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹 (ハヤカワepi文庫)

 

 最近まで知らなかったのだけれど、この『ヴァージン・スーサイズ』には原作小説があるらしい。それが『ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹』だ。前からタイトルが気になっていたけど、まさか『ヴァージン・スーサイズ』の原作だとは思わなかった。かなり忠実に映画化されてるみたいなので、ぜひ読んでみたいな。

小松菜奈がひたすらに可愛い映画 / 『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』

小松菜奈は正義

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小松菜奈は可愛い。地球は太陽の周りを回っているというのが真理であるように、小松菜奈が可愛いというのはもはや真理だ。アンニュイさ、ミステリアスさ、儚さといい小松菜奈の魅力は色々ある。そんな小松菜奈の魅力が溢れた映画が『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』だ。とにかく小松菜奈が可愛い。もうそれしか言えない。

 

原作も読んでみたが

ぼくは明日、昨日のきみとデートする (宝島社文庫)

ぼくは明日、昨日のきみとデートする (宝島社文庫)

 

 原作の小説も読んみたけど、良さが全く分からなった。感動するというどんでん返しも、「タイトルのまんまや」としか思わなかったし、まさかこう言うことなのかなという予想が完全に当たってしまった。文章もラノベみたいな感じで何も感動しなかった。なんなら文字が少ないくらいだ。この小説を読んだ友達は、「下半分がスカスカだから、メモ帳になるぞ」と評していた。なのであんまり期待せずに、友達と一緒に冷やかしにいくかんじで映画を観に行った。僕は小松菜奈が好きなので、それだけを目的に見に行ったのである。すると、予想を超えて良かった。いや、小松菜奈によって素晴らしい映画に進化していた。要するに小松菜奈が可愛すぎたのである。映画を観た後、小松菜奈可愛いとしか言ってなかったような気がする。

 

映画の見どころ

 

この映画の見どころはなんといっても小松菜奈の可愛さである。ああ、小松菜奈可愛い。非常に重要な最初の出会いのシーンの演技が非常にうまい。そして悲しげな小松菜奈が非常に可愛い。デートの時の小松菜奈も可愛いし、謎めいた雰囲気を醸し出す小松菜奈も可愛い。ああ京都で小松菜奈とデートしたい人生だった。秘密を打ち明けるときの儚げな小松菜奈も可愛い。ああ小松菜奈に秘密を打ち明けられたい。全編小松菜奈の魅力に溢れている。演技もすごくうまいので、自然と映画に没入できる。個人的には、「あなたの未来が分かるって言ったらどうする」という台詞を言うときの小松菜奈の表情が好きだ。ああ、小松菜奈が可愛い。

 

あとの見どころは、冴えない男子美大生がいつのまにか福士蒼汰になる瞬間愛美の秘密を知ったあとのデートでの福士蒼汰の真顔だ。最初、主人公は冴えない男子美大生なのに、髪を切った瞬間に、福士蒼汰になっていたのは思わず笑いかけた。あとキャンバスにプロジェクターで映画を投影するのがおしゃれすぎるので真似したい。back numberの主題歌「ハッピーエンド」も映画にあっていて、叡山電車からの風景をうつしたエンドロールも素敵だった。だけど小松菜奈にはかなわない。高寿の住む世界と愛美が住む世界の時間の流れ方が逆になっていることがどうでもよくなるぐらいに、小松菜奈は可愛い。

 

要するに小松菜奈は可愛い。

 

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失われた恋の残響 / 『九月の四分の一』 大崎 善生

心の感傷的な部分に響く短編集

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 何故だかわからないけど、感傷的な気分に浸りたくなる夜がある。失われた恋愛や青春の終焉に対する悲しみや、上手くいかないことや潰えた夢へのやるせなさ、それらが一気に噴き出してくるときがある。そんな感傷的な気分の時に読みたくなるのが、大崎善生の短編集『九月の四分の一』だ。透明感溢れる文体で綴られる四つの青春小説が収録されている。

 

ケンジントンに捧げる花束

主人公は長年編集長を務めた『将棋ファン』を辞めることを決意する。その決断が恋人・美奈子との関係に大きな波紋を投げかける。悩む主人公に光を投げかけたのは、日本から遠く離れたイギリスで将棋ファンを購読していた吉田宗八の存在だった。今まで存在を知らなかったが、確かに存在していた吉田宗八が主人公の仕事を肯定し、勇気を与えた。不確かな存在が、一人の人生に大きな影響を与える。冥王星のように。この短編では、厳しい戦時中を生きた吉田宗八の人生と恋に、主人公の人生や恋が響きあっている。

 

哀しくて翼もなくて

 青春時代の無垢さが失われてゆく哀しさややるせなさといった切実な思いに溢れていて、胸が締め付けられる。追憶の日々の中に、少女の切実な歌がこだましている。

 

九月の四分の一

 小説を書き切ることが出来ない主人公の焦燥感や閉塞感、そして失われた恋が描かれている。この短編集で一番好きな小説だ。終わりの見えない暗闇の中で主人公が感じる焦燥感や不安、閉塞感が手に取るように伝わってくる。そして、小説を書くことへの情熱が失われてしまっていることに気づいてしまったときの悲しみ。夢が潰えてしまうことへのやるせなさ。それらの感情が村上春樹っぽいともいえる叙情的な文体で綴られている。そして小説家になることに挫折した主人公は、就職し家電ショップで働くことになるも、仕事を辞めて、グランラプスに行くことを決意する。グランプスとは、ユゴーが「世界一美しい場所」と評した場所だ。そこを挫折の逃げ場所とするために。そこで奈緒と出会い一緒に過ごすうちに、互いにひかれあうようになる。目的も用途もなく、ただそこに存在する恋、実存主義的な恋だ。アンカールのビルのように。だが、その実存主義的な恋は唐突に失われてしまう。書置きを一枚残して。

今度は九月四日で会いましょう。

 このまま惹かれあうことに恐怖を感じながらも、また会えることを期待した謎めいた文章。素敵な言葉だ。けれど、主人公が意味をはき違えてしまい、恋は失われたままになってしまう。旅先で出会った男女の淡い恋愛模様は、映画『ビフォア・サンライズ』を彷彿とさせる。

失われた恋は、崩されたビルのように二度と戻ってくることはない。ただ、残像が残っているだけである。

失われた恋は、失われたがゆえに美しい。時にその残像は深く心に刻まれる。最後の駅で奈緒を待つシーンが深い余韻を残している。

 

この話を女性側の視点から描いた話があって、それが『ドイツイエロー、もしくはある広場の記憶』という短編集に収録されている「キャトルセプタンブル」という短編だ。気になる人は読んでみて。