日々の栞

本や映画について気ままに書く。理系の元書店員。村上春樹や純文学の考察や感想を書いていく

『メイド・イン・USA』だけどフランス映画 / 『メイド・イン・USA』 ジャン=リュック・ゴダール

メイド・イン・USA』だけどフランス映画

 ヌーヴェルヴァーグを代表するジャン=リュック・ゴダール監督の作品。初期のゴダール作品でアンナ・カリーナが主演している。フランス映画なのにタイトルが『メイド・イン・USA』となっているのは、ゴダールがアメリカ映画にオマージュを捧げているため。

 

ゴダールの作品らしく、「観客は騙せても私は騙せない」といったメタ発言が出てきたり、色彩がかなりカラフルになっている。唐突に日本人も出てくる。ある登場人物の名前を効果音で隠すという演出もされている。そして、アンナ・カリーナが美しく撮られている。ちょっと疲れている感じがみえたけど。アンナ・カリーナ小松菜奈って雰囲気似ているなってふと思った。

 

内容はよく分からないけれど、美的センスというか詩的な台詞にひかれてゴダール作品を見続けている。ゴダール作品は難解でよく分からないのに(特に『気狂いピエロ』や『ゴダールの決別』)、スタイリッシュさやお洒落さにひかれて観てしまう。

少女にしか分からない倦怠感と儚さ / 『ヴァージン・スーサイズ』 ソフィア・コッポラ

思春期特有の儚さと危うさを描いたガーリーな映画

ヴァージン・スーサイズ [DVD]

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これが女子高の雰囲気なのかなと観たあとに思った映画『ヴァージン・スーサイズ』。

ロスト・イン・トランスレーション』で有名なソフィア・コッポラの初監督作品だ。不安定な思春期の少女たちが淡く、儚く描かれている。アンニュイって言う形容詞はこの映画のためにあるんだなって思った。その儚さ、淡さ、そして倦怠感にとても惹かれてしまう。限られた時間しか少女にはいられない。その少女の儚さ、甘美さが詰め込まれたガーリーな映画。少女ってこんな感じなのかなって思いながら観てた。僕はどちらかというとこの男子目線で映画を観てた。そしてこの謎めいた姉妹に翻弄される男子たち。謎めいた女子だけの世界をのぞき見してしまった気分になる。サントラも凄く良い。

 

ただガーリーなだけじゃなくて、思春期特有の狂気や闇みたいなものも『ヴァージン・スーサイズ』では描かれている。ラックスが屋根の上でセックスをする様になり、ただガーリーな映画ではなくなってくる。親の過保護に反発するにつれて、だんだんと狂気を帯びてくる。そして、姉妹たちは狂気にとりつかれたように次々と自殺してしまう。自殺の理由は最後まで明らかにならない。彼女たちにもその理由は分からなかったのだろう。男にとって女はいつになっても謎のままだ。

 

だって。先生は13歳の女の子だったことがないから、きっと分からないわ。

冒頭で、13歳のセシリアが自殺未遂を起こし、病院に運ばれた際に医者にいった言葉だ。この映画には少女にしかわからない感覚がみちているのかな。自分が男子だから分からないけど。

 

ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹

ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹 (ハヤカワepi文庫)

ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹 (ハヤカワepi文庫)

 

 最近まで知らなかったのだけれど、この『ヴァージン・スーサイズ』には原作小説があるらしい。それが『ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹』だ。前からタイトルが気になっていたけど、まさか『ヴァージン・スーサイズ』の原作だとは思わなかった。かなり忠実に映画化されてるみたいなので、ぜひ読んでみたいな。

小松菜奈がひたすらに可愛い映画 / 『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』

小松菜奈は正義

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小松菜奈は可愛い。地球は太陽の周りを回っているというのが真理であるように、小松菜奈が可愛いというのはもはや真理だ。アンニュイさ、ミステリアスさ、儚さといい小松菜奈の魅力は色々ある。そんな小松菜奈の魅力が溢れた映画が『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』だ。とにかく小松菜奈が可愛い。もうそれしか言えない。

 

原作も読んでみたが

ぼくは明日、昨日のきみとデートする (宝島社文庫)

ぼくは明日、昨日のきみとデートする (宝島社文庫)

 

 原作の小説も読んみたけど、良さが全く分からなった。感動するというどんでん返しも、「タイトルのまんまや」としか思わなかったし、まさかこう言うことなのかなという予想が完全に当たってしまった。文章もラノベみたいな感じで何も感動しなかった。なんなら文字が少ないくらいだ。この小説を読んだ友達は、「下半分がスカスカだから、メモ帳になるぞ」と評していた。なのであんまり期待せずに、友達と一緒に冷やかしにいくかんじで映画を観に行った。僕は小松菜奈が好きなので、それだけを目的に見に行ったのである。すると、予想を超えて良かった。いや、小松菜奈によって素晴らしい映画に進化していた。要するに小松菜奈が可愛すぎたのである。映画を観た後、小松菜奈可愛いとしか言ってなかったような気がする。

 

映画の見どころ

 

この映画の見どころはなんといっても小松菜奈の可愛さである。ああ、小松菜奈可愛い。非常に重要な最初の出会いのシーンの演技が非常にうまい。そして悲しげな小松菜奈が非常に可愛い。デートの時の小松菜奈も可愛いし、謎めいた雰囲気を醸し出す小松菜奈も可愛い。ああ京都で小松菜奈とデートしたい人生だった。秘密を打ち明けるときの儚げな小松菜奈も可愛い。ああ小松菜奈に秘密を打ち明けられたい。全編小松菜奈の魅力に溢れている。演技もすごくうまいので、自然と映画に没入できる。個人的には、「あなたの未来が分かるって言ったらどうする」という台詞を言うときの小松菜奈の表情が好きだ。ああ、小松菜奈が可愛い。

 

あとの見どころは、冴えない男子美大生がいつのまにか福士蒼汰になる瞬間愛美の秘密を知ったあとのデートでの福士蒼汰の真顔だ。最初、主人公は冴えない男子美大生なのに、髪を切った瞬間に、福士蒼汰になっていたのは思わず笑いかけた。あとキャンバスにプロジェクターで映画を投影するのがおしゃれすぎるので真似したい。back numberの主題歌「ハッピーエンド」も映画にあっていて、叡山電車からの風景をうつしたエンドロールも素敵だった。だけど小松菜奈にはかなわない。高寿の住む世界と愛美が住む世界の時間の流れ方が逆になっていることがどうでもよくなるぐらいに、小松菜奈は可愛い。

 

要するに小松菜奈は可愛い。

 

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失われた恋の残響 / 『九月の四分の一』 大崎 善生

心の感傷的な部分に響く短編集

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 何故だかわからないけど、感傷的な気分に浸りたくなる夜がある。失われた恋愛や青春の終焉に対する悲しみや、上手くいかないことや潰えた夢へのやるせなさ、それらが一気に噴き出してくるときがある。そんな感傷的な気分の時に読みたくなるのが、大崎善生の短編集『九月の四分の一』だ。透明感溢れる文体で綴られる四つの青春小説が収録されている。

 

ケンジントンに捧げる花束

主人公は長年編集長を務めた『将棋ファン』を辞めることを決意する。その決断が恋人・美奈子との関係に大きな波紋を投げかける。悩む主人公に光を投げかけたのは、日本から遠く離れたイギリスで将棋ファンを購読していた吉田宗八の存在だった。今まで存在を知らなかったが、確かに存在していた吉田宗八が主人公の仕事を肯定し、勇気を与えた。不確かな存在が、一人の人生に大きな影響を与える。冥王星のように。この短編では、厳しい戦時中を生きた吉田宗八の人生と恋に、主人公の人生や恋が響きあっている。

 

哀しくて翼もなくて

 青春時代の無垢さが失われてゆく哀しさややるせなさといった切実な思いに溢れていて、胸が締め付けられる。追憶の日々の中に、少女の切実な歌がこだましている。

 

九月の四分の一

 小説を書き切ることが出来ない主人公の焦燥感や閉塞感、そして失われた恋が描かれている。この短編集で一番好きな小説だ。終わりの見えない暗闇の中で主人公が感じる焦燥感や不安、閉塞感が手に取るように伝わってくる。そして、小説を書くことへの情熱が失われてしまっていることに気づいてしまったときの悲しみ。夢が潰えてしまうことへのやるせなさ。それらの感情が村上春樹っぽいともいえる叙情的な文体で綴られている。そして小説家になることに挫折した主人公は、就職し家電ショップで働くことになるも、仕事を辞めて、グランラプスに行くことを決意する。グランプスとは、ユゴーが「世界一美しい場所」と評した場所だ。そこを挫折の逃げ場所とするために。そこで奈緒と出会い一緒に過ごすうちに、互いにひかれあうようになる。目的も用途もなく、ただそこに存在する恋、実存主義的な恋だ。アンカールのビルのように。だが、その実存主義的な恋は唐突に失われてしまう。書置きを一枚残して。

今度は九月四日で会いましょう。

 このまま惹かれあうことに恐怖を感じながらも、また会えることを期待した謎めいた文章。素敵な言葉だ。けれど、主人公が意味をはき違えてしまい、恋は失われたままになってしまう。旅先で出会った男女の淡い恋愛模様は、映画『ビフォア・サンライズ』を彷彿とさせる。

失われた恋は、崩されたビルのように二度と戻ってくることはない。ただ、残像が残っているだけである。

失われた恋は、失われたがゆえに美しい。時にその残像は深く心に刻まれる。最後の駅で奈緒を待つシーンが深い余韻を残している。

 

この話を女性側の視点から描いた話があって、それが『ドイツイエロー、もしくはある広場の記憶』という短編集に収録されている「キャトルセプタンブル」という短編だ。気になる人は読んでみて。

 

 



 

新しい一歩を踏み出したいあなたに / 『パリ行ったことないの』 山内 マリコ

パリが後押ししてくれる新しい一歩

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パリは魅力的だ。パリコレファッションに、エッフェル塔、凱旋門、ルーヴル美術館、フォンダシオン・ルイ・ヴィトンなどファッションや芸術の中心地であるパリ。それだけでなく、『ミッドナイトインパリ』や『アメリ』、『ビフォア・サンセット』といった映画や、ヘミングウェイの『移動祝祭日』といった小説の舞台にもなっている。フランスパンを持ったパリジェンヌが優雅に闊歩している(筆者はパリに行ったことがない)。パリは私の中の憧れの街堂々のNo.1である。いつか行ってみたいな、パリ。

 

そんな魅力溢れるパリを中心に据えた、新しい一歩を踏み出すのを後押ししてくれる連作短編集が山内マリコの『パリ行ったことないの』だ。11人の迷える女子たちが、パリをきっかけに自分の道を見つけ歩んでいく姿を描いた小説だ。何か新しいことをしたいとき、不安を抱えている時に後押ししてくれる。

 

 

 

 

plutocharon.hatenablog.com

 

誰もが虹を待っている / 「虹を待つ人」 BUMP OF CHICKEN

虹を待つということ

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すっかりライブの定番曲として定着した「虹を待つ人」。「虹を待つ人」はアルバム『RAY』に収録されている楽曲で、バンドサウンドにシンセサイザーを合わせた今のBUMPを象徴する楽曲だ。そんな「虹を待つ人」の歌詞を文学作品と関連させて解釈していこうと思う。

 

不条理を取り扱っているように思える『RAY』

 『RAY』に収録されている曲は不条理を扱っているものが多いような気がしている。「firefly」はカミュの『シーシュポスの神話』を彷彿とさせる。頑張っても報われないことを受け止め、諦めることを肯定し、後押ししてくれる曲だ。カミュが言った不条理を受け入れ生きていくことに内容が近いのではないかと思う。「虹を待つ人」は『ゴドーを待ちながら』や『タタール人の砂漠』、『シルトの岸辺』、『夷狄を待ちながら』といった待つことの不条理を取り扱った文学作品を彷彿とさせる(俗称:待ちぼうけ小説)。

 

不条理ってなに

シーシュポスの神話 (新潮文庫)

シーシュポスの神話 (新潮文庫)

 

 

不条理って何と思う人も多いはず。不条理とは

フランスの作家カミュの評論『シーシュポスの神話』 (1942) によって有名になった哲学,文学上の概念で,この世の無意味,非合理と,この世を明晰に理解しようとする人間のやむなき欲求との対立関係から生れるとされる。 

 

不条理(ふじょうり)とは - コトバンク

 

ということで、人が人生の無意味さに気づいてしまうことに近い。BUMP的に言うと

頑張ってどうにかしようとして 頑張りの関係ない事態で ふと呼吸鼓動の 意味を考えた

 引用元:「firefly」 BUMP OF CHICKEN

という感じかな。

 

待つことの不条理

 

本当に来るか分からないものを待つことは、とても不条理な事だ。待っていても結局来ず、徒労になることもあるし、希望を抱いていても、実際にはその希望の光が差し込まないときもある。希望に裏切られてしまうことを分かりながらも、人は希望を信じられずにいられない。パンドラの箱の話のように。「虹を待つ人」は、あるのかないのか分からない希望を待つ、宙ぶらりんな不安定な状態に寄り添ってくれる曲だ。そして、自分を縛るものなんてないんだよ、自由なんだよということを教えてくれる。辛い暗闇の中でも、希望を捨てずに雨上がりの虹を待つことを鼓舞してくれる曲だ。誰しも不安や悲しみを抱えながら、虹を待っている。

おしゃれは突き詰めると人の内面に帰結する説

お洒落は内面から?

 

「無理して服を買わなくていい。それよりも勉強して内面を磨いた方がいい」これはある服屋の店員に僕が実際言われた言葉だ。まさか、服屋の店員に服を買わなくていいと言われる日が来るとは思わなかったけど、その店員の話は凄く印象に残っている。コムデギャルソンやモード系の話をその店員さんと話していたのだけれど、良い服を着るにはそれ相応の知識が必要だと教えてくれた。普通の服のことを知らないとコムデギャルソンの素晴らしさは分からないことや、おしゃれは結局内面や人間性に直結するということを教えてくれて、目からうろこだった。

 

ブランドの服を着るということ

その店員さんにあったのは2~3年前のことで、大学生になったばかりのころだったように思える。その話を聞いて以来、おしゃれとはなにかと時々考えるようになった。高校生の頃から服が好きで、コムデギャルソンやアンダーカバーのようなモード系の服を着たいとずっと思っていた。その頃はお金さえあれば高い服を買って、着ることが出来ると思っていた。けれども、本当の意味でブランド物の服を着こなすことは難しいことなんだと、大学生になってから思うようになった。ドメスティックブランドの服であれば、ブランドのデザインの特徴や、服のデザインへの造詣が必要になる。さらにラグジュアリーブランドであれば、そのブランドの歴史を背負うことになる。ラグジュアリーブランドであればきる側にもそれ相応の地位というか、人間的な魅力が必要になると思う。服の価値が、服を着る本人の価値を上回るときに、服に着られているというのだろう。それにドレスコードという決まりもある。個人的には、服のセンスというものは人それぞれで良し悪しはないと思うけれど、ドレスコードはみんなちゃんと守らなければならないと思う。結局おしゃれというものは突き詰めると内面というか、人間性に帰結するのではないかと思う。

 

着たい服が似合う自分になる

僕の将来の夢の一つは、コムデギャルソン、マルジェラ、バレンシアガの服が似合う大人になることだ。どのブランドもファッションの歴史を創り上げ、時には伝統を破壊し、ファッションを更新してきた偉大なブランドだ。そんなブランドの服を着るのにふさわしい存在感をもつ人に私はなりたい。着たら着たで、この服に自分はふさわしいのかと悩むんだろうな。そうならずに、胸を張って服を着こなせるようになりたい、いやなる。いつになることやら。