日々の栞

本や映画について気ままに書く。理系の元書店員。村上春樹や純文学の考察や感想を書いていく

村上春樹のベストアルバム / 『騎士団長殺し』 村上 春樹

 村上春樹の総集編とも言える『騎士団長殺し』

謎めいたタイトルと内容が明かされないことで同発売前から大きな注目を集め、発売当日には長蛇の列ができるなど、注目を集めている村上春樹の最新長編小説 『騎士団長殺し』。どこの書店に行っても『騎士団長殺し』が山積みになっていて、村上春樹の人気の凄さを感じる。僕も村上春樹が好きで(ハルキストと言われるのは嫌いだが)、長編小説なら全部、短編小説なら大半を読んでいる。発売から一か月経ち、ちらほらと評論家の批評が出てきている。僕も読み終わったので、感想というか考察を書こうと思う。読み終わってまず思ったのが、『騎士団長殺し』は村上春樹のセルフパロディだなということだ。実際に『騎士団長殺し』では、これまでの村上春樹作品や村上春樹が翻訳した海外作品に出て来たモチーフがたくさん使われている。村上春樹のベストアルバムと言える内容となっている。これまでの村上春樹作品を読んでいる人ならかなり楽しめるのではないだろうか。また、人称が、『海辺のカフカ』・『1Q84』の時の三人称から、初期作品で使われていた一人称(「僕」ではなく「私」だが)になっていて、雰囲気も初期作品に近いものになっている。特に『ねじまき鳥クロニクル』に雰囲気が近いなと感じた。僕はねじまき鳥クロニクルぐらいまでの初期作品が好きなので、『騎士団長殺し』はかなり好きだなと。以下ネタバレを含むので、未読の人はお気をつけて。

 

 

村上春樹版『グレート・ギャツビー』!?不思議な隣人「免色」

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 (文春文庫)

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 (文春文庫)

 

 

 

スプートニクの恋人 (講談社文庫)

スプートニクの恋人 (講談社文庫)

 

 本作の主要な登場人物である免色は『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年』のタイトルを彷彿とさせる。色を免れるとあるように、免色は髪の毛が綺麗な白色となっている。この髪の毛が白色という設定は『スプートニクの恋人』で一晩で白髪になったミュウを彷彿とさせる。免色は主人公の「私」が住む雨田具彦の家の真向かいに住む謎の富豪である。この向かいに住む謎の富豪という設定はきっと『グレート・ギャツビー』のジェイ・ギャツビーのオマージュだろう。この『グレート・ギャツビー』は村上春樹が翻訳していて、ノルウェイの森の中でも出てくる。村上春樹がお気に入りの小説だ。

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

  • 作者: スコットフィッツジェラルド,Francis Scott Fitzgerald,村上春樹
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2006/11
  • メディア: 単行本
  • 購入: 23人 クリック: 170回
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妻に去られるという設定といい、特にねじまき鳥クロニクルに雰囲気が近い。主人公が画家というのは今までになくて、作中で語られる絵画論はそのまま小説論としても読み解けそうだな。肖像画専門というのは、レンブラントを彷彿とさせる。顕れたイデアが何を意味するのか。

 

 

二重メタファー

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

 

 メタファーに、二重メタファーと謎めいた存在が出てくる。地下世界の部分は『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』を彷彿とさせる。二重メタファーはジョージオーウェルの二重思考からヒントを得ているのか。

 

 

 なかなかエロい『騎士団長殺し』

いつもの村上春樹作品に較べて変珍なエロが多め、「エロと怪異ときどきごはん」の連続なのだ。

引用元:村上春樹秘宝館『騎士団長殺し』がエロ満載なわけ - エキレビ!(1/3)

 

米光一成さんが面白い記事を書いている。引用したように、『騎士団長殺し』はなかなかエロい。性描写が多いことで知られている村上春樹作品だが、その中でも『騎士団長殺し』は多い方じゃいないかなと思う。個人的には『ノルウェイの森』が一番性描写が多いと思うのだけど、それに匹敵するんじゃないかな。そして性描写のレパートリーが多い。まず上巻開始わずか17ページで主人公が人妻と関係を持つという。これには思わず笑ってしまった。展開が早すぎるぞ。あとテレフォンセックスというのもでてくる。

 

 

『騎士団長殺し』と東日本大震災

 様々なモチーフが盛りだくさんの物語のわりには、作家が書き残したことが多いという読後感が残った。例えば東日本大震災については最後に出てくるだけだし、難民や排外主義など現代世界が向きあっている大きな問題は書かれていない。 

 引用元:

村上春樹新作を読む 『騎士団長殺し』3識者に聞く|エンタメ!|NIKKEI STYLE

 

この記事で翻訳家の鴻巣友季子さんが述べているように、『騎士団長殺し』では東日本大震災への言及が少ない。東日本大震災が『騎士団長殺し』中に出てくるのは、二巻の最終章であり、しかもサラッと触れられるだけである。この程度の言及であれば作品中に出さなくても良かったんじゃないかなと考えてしまう。もう少しストーリーに絡めて言及する必然性があれば良かったんだけど...唐突に出てきた感が否めない。もっと掘り下げて書くべきだったのではないかと思う。

 

 

 果たして第3部はあるのか!?

1Q84 BOOK 3

1Q84 BOOK 3

 

 今までの『1Q84』や『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年』などの作品に比べて物語が収束して、円団を迎えている。続編はなくてもいいような気がするけど、エピローグがないからやっぱり第三部は存在するのかな。

 

 

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

 
 
騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

 

 

『ノルウェイの森』が好きな人におすすめの小説

『ノルウェイの森』みたいな小説が読みたい!

 

『ノルウェイの森』は村上春樹の代表作として有名な小説だ。タイトルはビートルズの名曲「ノルウェイの森」に由来していて、主人公ワタナベと直子、緑の恋愛模様を通じて生と死、喪失と再生を叙情的に描いている。性描写の多さから人を選ぶ小説だけれど、世界観に共感する人は深く心を揺り動かされると思う。

この小説は単行本と文庫本を合わせると1000万部以上売り上げている。恋愛の痛みや喪失感をここまで描き切った作品は『ノルウェイの森』ぐらいしかないんじゃないだろうか。

そんな響く人には響く村上春樹の『ノルウェイの森』だが、心に響いた人は『ノルウェイの森』のような感傷的な小説が読みたくなることがあると思う(実体験)。そこで『ノルウェイの森』のような、恋愛の喪失感を叙情的に描いた小説をちょっとまとめてみた!まずは村上春樹作品から『ノルウェイの森』に似た系統の作品を紹介!

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イメージが織りなす迷宮 / 『快楽の館』 アラン・ロブ=グリエ

イメージの反復

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女の肉体に眺め入る。麻薬や人身売買が横行し、スパイが暗躍する英領香港の一郭、青い館が催す夜会。そこで出会った娼婦を手に入れるため金策に走り出す。一方では老人の不可解な死…あざやかな幻覚が紡ぎ出すエロティシズムの体験。小説の枠を解き放ち新しい小説の旗手となった、ロブ=グリエの代表作。

快楽の館』はヌーヴォー・ロマンを代表する作家:アラン・ロブ=グリエの小説だ。

この『快楽の館』はタイトルからするとただの官能小説のように見えるが、人を選ぶ前衛小説となっている。青い館で行われる夜会と舞台、老人の不可解な死、女を手に入れるために奔走する男。謎に惹きつけられてページをめくっていくが、さらに謎が深まり、真実は一つにならず、色々な解釈が生まれる。決してミステリーのように一つの真相に至らない。

一人称は「ぼく」のはずなのに、知りえないはずの光景まで記述されてゆく。まるで夢を見ているよう。そして「意識の流れ」の技法が使われていて、思考がとりとめもなく流れていく。小説内で起こる出来事は時系列に並べられることを拒絶し、ただイメージや場面が反復されてゆく。ある場面が複数の視点で繰り返し描かれている。ロブグリエが脚本を担当した『去年、マリエンバードで』のようにイメージの迷宮に迷い込んでしまう。読んでいると、出口のない迷宮に迷い込んだ気分になる小説だった。

 

 

 

去年マリエンバートで(字幕版)

去年マリエンバートで(字幕版)

  • デルフィーヌ・セイリグ
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官能的な変身譚 / 『フラミンゴの村』 澤西祐典

ある日村の女たちがフラミンゴに

 男が眠りから覚めると虫になってしまったのはカフカの変身、男が自尊心と羞恥心を拗らせて虎になってしまったのは中島敦の山月記。そしてこのフラミンゴの村では、女たちがフラミンゴになってしまう。有名な変身譚と比較してみると中島敦の「山月記」とは違って、村中の女達が何故フラミンゴになってしまったかという理由には触れられていない。カフカの「変身」のように、変身してしまった理由は明かされず、ただただ不条理な状況下での人間心理が描かれている。赤い鳥『フラミンゴ』というのは作中でも出てくるメーテルリンクの『青い鳥』との対比なのだろうか?カフカの変身と大きく異なるのは、変身してしまったものの目線ではなく残された男たちの目線で進行するところだ。フラミンゴ(女たち)の内面は描かれずに、男たちの狼狽している様子や、不条理な状況にいかに対応するかが描かれている。特に村八分などの極限状況での人間心理や疎外に重点が置かれているように思えた。女たちがフラミンゴになってしまった理由は最後まで明かされることなく物語の幕は閉じてしまう。不条理な状況下での人のありかたが描かれている。

 

官能的なラストシーン

カフカの「変身」とは違って、この『フラミンゴの村』は官能的な一面も持っている。特にラストシーンは絢爛なイメージで官能的な場面が綴られている。

 

 



2017年はウディ・アレン監督の映画が2回も映画館で観れる

ついつい観たくなってしまうのがウディ・アレン監督の映画だ。シニカルだけどユーモアに溢れているおしゃれな映画。脱力してゆったりと観れる映画の一つだ。タイトルの通り今年はウディ・アレン監督の映画が2回も映画館で観れる!『カフェ・ソサエティ』と『アニーホール』だ!

 

『カフェ・ソサエティ』はウディ・アレンベスト級の映画だったので、言わずと知れた名作『アニーホール』もスクリーンで観れるのは非常に喜ばしい。ありがとう午前10時の映画祭!

 

過ぎ去ってゆく青春 / 『風の歌を聴け』 村上春樹

村上春樹の原点 

 

「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」 

 

この印象的な書き出しで始まるのが『風の歌を聴け』。群像新人文学賞を受賞した村上春樹のデビュー作だ。この小説は日本文学にとってエポックメイキングとなるような小説だと思っている。「文学作品」にありがちな特有の「硬さ」がなく、ポップで読みやすい。初めて読んだとき、こんな小説も文学としてありなんだとかなり新鮮な印象を受けた。デビュー作から村上春樹らしさは全開で、音楽の蘊蓄や洒脱な比喩が小説に散りばめられている。また村上春樹特有の井戸のモチーフも出てきている。散文的でこれといったストーリーはないのだけれど、一つ一つの断片的な話や卓越した比喩表現が魅力的で何度も読んでしまう。ふと手に取って、開いたページを読みたくなる。

 

この小説では、「僕」と「鼠」が過ごしたひと夏の青春の日々が描かれている。色んな人との出会い、今まで「僕」が出会ってきた人のこと、特に有益なことがない青春の日々、そして夏の終りともにやってくる別れがどこか達観している乾いたタッチで描かれている。

 

 

青春三部作の一作目

1973年のピンボール (講談社文庫)

1973年のピンボール (講談社文庫)

 

 

羊をめぐる冒険(上) (講談社文庫)

羊をめぐる冒険(上) (講談社文庫)

 

 この『風の歌を聴け』は村上春樹のデビュー作であると同時に、『1973年のピンボール』・『羊をめぐる冒険』に連なる青春三部作の一作目である。「僕」と「鼠」が主な主人公で、青春と喪失が描かれている。

 

 

 

ホットケーキにコーラ

 

 ビールやフライドポテトなど、この小説には印象的な食事のシーンがある。特に印象が残ったのはホットケーキにコーラをかけて食べるシーン。ホットケーキにコーラという斬新な組み合わせ...いつか試してみたいと思っているものの、なかなか勇気が出ない。

 

 

謎の作家:デレク・ハートフィールド

 

この『風の歌を聴け』を読んでいると気になるのが、謎の作家デレク・ハートフィールド。ハートフィールドの小説を読んでみたいと思って図書館やAmazonで探してみたものの、なかなか見つからない。それもそのはず、デレク・ハートフィールドは架空の作家!すっかり騙された...ヘミングウェイフィッツジェラルドと並んで語られているからすっかり実在すると思っていた。この架空の作家・デレク・ハートフィールドを通じて文章や小説について語られている。

 

 

過ぎ去っていく青春

 

主人公の「僕」はどこか受け身的というか、あきらめというか、「やれやれ」といった感じで退屈日々を送っている。描写の一つ一つにあきらめというか村上春樹特有の達観が感じられる。そんな退屈な日々でも青春というマジックによって特別めいた日々に見えてくる。村上春樹の小説を無性に読みたくなるのは、手のひらから零れ落ちる砂のように過ぎ去っていった青春の日々を再び味わえるからではないだろうか。距離的に遠く離れた故郷なら帰ることはできるけど、過ぎ去った青春の日々には決して戻ることが出来ない。だけど、村上春樹の小説は一時的であるにせよ、読んでいる間はその日々に戻ることが出来る。だから何度も読んでしまうのだろう。

 

風の歌を聴け (講談社文庫)

風の歌を聴け (講談社文庫)

 

 

過ぎ去った時間の痕跡 / 『知らない町』 大内伸悟

かつて誰かがいた場所に、私は存在している

 

youtu.be

 

三月の終わりごろになると、ばたばたと引っ越しシーズンになる。僕の住んでるアパートでも知り合いが新天地に引っ越したり、見知らぬ隣人が気が付くと引っ越していて、しばらくすると新しい住人がやってきたりしている。こんな三月の終わりになるとふとある疑問が頭に浮かぶ。自分が今住んでいるこの部屋の前の住人はどんな人だったんだろう?男の人だったのか、女の人だったのか、趣味は何だったのか、どう時間を過ごしていたんだろうと。そして、かつて誰かが存在していた場所に僕は存在しているんだなと。『知らない町』はそんな「存在の残響」や「過ぎ去った時間の痕跡」を描いた映画だ。大きな劇場で公開されている大衆的な映画と違い、淡々とストーリーが進み、後半では辻褄の合わないことが起こり、現実ではない世界が広がっていく。観終わった感想としては、なかなか出会うことのない斬新で不思議な映画だなと。存在や時間の不可思議さに触れられたような気がした。

 

ある日、地図調査員の板橋優二の部屋に廃品回収をしている友人の西田が回収したソファーを持ってくる。そしてその夜、優二の部屋の前の住人だったという中沢という女性が一緒に暮らしていたゴトウという男性に会いに訪ねてくる。中沢が帰った後に、西田が幽霊と見たと言い出し、ちょっとした騒動になる...あらすじはこのような感じだが、この映画はあらすじにまとめることが出来るような映画ではない。散文的な映画ともいうのだろうか。幽霊が映らない幽霊映画ともいうのか。この映画を見ていると、幽霊というのは「存在の残響」ではないのだろうかという気がしてくる。この映画では、過去の時間の痕跡を意識させるようなものが沢山出てくる。地図、街、アパートの部屋、廃品回収のソファー。ピンボケした映像は現実と夢を溶かしていくような感じがする。部屋を定点から撮ったカットは幽霊の視点から撮ったようにも思える。物や街には過ぎ去った時間や人の存在が染み込んでいる。自分が住む前のアパートには誰かが住んでいて、リサイクル品はかつて誰かが使っていた。普段意識しないような時間の積み重なりを意識させられた映画だった。映画の後半では中沢と廃品回収のソファーの持ち主、優二の関係性が浮き上がってくる。そして優二はいつの間にかゴトウになっている。もしかしたら自分は、別の誰かになっていたのではないかという存在の不思議さを感じた。

 

 

こうやってぼおっと川を眺めながら、同じように眺めている人がいたんじゃないかなって想像したんです。そしたら私の目を通して誰かがこの景色を眺めているんじゃないかな、と思ったんです。

 

 

作中の中沢のこの台詞にははっとさせられた。僕はかつて誰かが存在した場所にいる。不思議としか言いようのない存在や時間の神秘に触れたような気がした。自分が住んでいる街にもかつて誰かがいて、過ぎ去った時間がある。こう考えると『知っている町』がいつの間にか『知らない町』に反転している。

 

 

 

わたしがいなかった街で

 

 

わたしがいなかった街で (新潮文庫)

わたしがいなかった街で (新潮文庫)

 

 

この映画の過ぎ去った時間の痕跡や時間の積み重なりを描く感じは、どことなく柴崎友香の小説と雰囲気が似ている。柴崎友香は『春の庭』で芥川賞を受賞している作家で、場所に積み重なった時間や過ぎ去った時間の痕跡をモチーフとした小説を書いている。この『知らない町』を観ていると柴崎友香の小説が思い浮かんだ。『その街の今は』、『春の庭』、そして特に『わたしがいなかった街で』が。『その街の今は』ではたくさんの人々が住んでいた昔の大阪の街に思いが馳せられる。自分がいまいる場所も、かつて誰かがいた場所なのだ。