伊坂幸太郎の『死神の精度』に出てくる死神は雨男だ。死神だから、雨男と言って良いものなのか。雨神とでも書いた方がいいのだろうか。それは置いといて、『死神の精度』を読んでいると、雨男について考えたくなる。なぜなら、僕自身も雨男だからだ。
雨宿りすると雨が止むが、外に出るとまた雨が降ってくるなんてことはしょっちゅうある。イベント事の幹事をすると天気が悪くなり、挙げ句の果てに「あいつを家から出すな」と言われる始末。外に出ると雪が降ってきたことも。雨男は雨だけじゃなく雪にも対応してるのか。
あまりにも雨に降られるので、「雨男・雨女って科学的に根拠があるのか⁉︎」と考えるとようになった。統計とったら相関性は取れるのだろうか。
個人的な考えとして、雨男というのはネガティブ思考による記憶の改竄によって生み出されたものだと考えている。
個人的な印象だが、雨男・雨女と言われる人はネガティブな人が多いイメージがある。ネガティブ思考な人は、運が良かったことよりもツイてなかったことの方を覚えていて、あたかも悪いことしか起こっていない風に感じているのではないだろうか。それが雨男の正体だと思っている。
僕自身も、運よく雨に降られなかったこともあるが、雨に降られた記憶の方が印象的に残っている。「いつも雨に降られている」と被害妄想に浸っているということだろうか。でもやっぱり、雨に降られている回数の方が多い気がするんだよな。
ちなみに、雨男だが傘を持つのが嫌いなのでよく雨に濡れてびしょ濡れになる。もう少し反省した方がいいと自分でも思う。事前に天気予報を見るべきだと思うのだが、見るくせがないからか天気予報を見ずに出かけてしまう。こういう習慣から直さないと雨男からは脱却できないなと思う。
反省して、AmazonEchoを活用して、出かける前に「アレクサ、今日の天気教えて」と言う習慣を最近では心がけている。しかし、アレクサが「快晴です」と言った日に、アレクサを信じて外出したら、大雨が降ってびしょ濡れになったことがあった。アレクサ許すまじ。
昔友人に「雨男だったら、雨乞いせずに雨を降らせれるから、昔だったら絶対奉られてたな。卑弥呼みたいになって、古事記にも載ったな」と言ったら、「雨を降らせるだけで、止ませることができなかったら意味ないやろ。降らせるだけなら、疫病神やで」と言われた。確かに。
きっと今年も雨に降られた記憶だけが、脳に蓄積されるんだろうなと思う。