なにげない日常を描いた小説のようだが、作中には常に不協和音が流れている。これは、「あひる」を初めて読んだ時の印象だ。
今村夏子の「あひる」という小説は平易な文章で書かれていて、一見すると童話のようだ。だけど作中に不穏な雰囲気が常に漂っている。全体的に歪んでいるのだ。この歪みというのは読者が感じるもので、作中の登場人物は「歪み」をおかしいものと捉えていないところがある。その点で、「あひる」の不穏さが増しているように思う。
「あひる」にはおかしな所がいくつも登場する。三回も交換されたあひると、あひるが交換された事実を黙殺する母と父。働いていてもおかしくない年齢なのに資格の勉強を続けている「わたし」。そして「わたし」は存在しないものとして扱われているようなフシがある。暴力的な弟。真夜中に突然現れた子ども。このように「あひる」には変なところがたくさんあるのだけれど、怖いことに登場人物たちはそれを普通のことのように捉えているのだ。
この小説は平易な文章で書かれているけれど、本質には恐ろしいことが書かれているように思う。本当は何が書かれているかについて考察しようと思う。
交換可能なあひる「のりたま」
「あひる」は、「わたし」の家に「のりたま」というあひるがやってくるところから始まる。「わたし」と母と父の3人暮らしなこともあり、静かな生活をおくる一家だったが「のりたま」によってそんな生活は一変する。あひるの「のりたま」を飼い始めてから、子どもたちが遊びにくるようになり家の中も賑やかになっていった。
「わたし」の家に賑やかさをもたらした「のりたま」だったが、病気になってしまい病院に運ばれる。「のりたま」がいなくなったと同時に、あひる目当てで来ていた子どもたちは姿を見せなくなってしまう。元の生活に戻ろうとしていた時、「のりたま」が帰ってきた。しかし、帰ってきた「のりたま」は以前よりも小さくなっていたのだ。
「あひる」では、「のりたま」が交換可能な存在として描かれている。あひるが死んでも変わりはいるもの(これはエヴァのオマージュ)。あひるが死んでも「のりたま」という名前は受け継がれ、何事もなかったように日常が進行している。
自分は交換可能な存在だと考えることは虚しいことだ。だが、会社や組織では一人一人が歯車のようで、欠員が出れば代わりの人材が補充されシステムは継続していく。交換可能であることに対する恐ろしさや不安を表現しているのではないかと思う。
最後に、あひるの小屋は取り壊され、代わりにわたしの弟の赤ちゃんのためのブランコが置かれる。それは弟の赤ちゃんも「のりたま」のように交換可能な存在であるということを暗示しているように思えて怖くなった。