日々の栞

本や映画について気ままに書く。理系の元書店員。村上春樹や純文学の考察や感想を書いていく

東野圭吾の本格ミステリ決別宣言 / 『名探偵の呪縛』 東野 圭吾

東野圭吾の転換点

図書館を訪れた「私」がふとしたことから迷い込んだ街。そこは『本格推理小説』という概念が存在しない場所だった。その街で起こる、密室殺人や人間消失トリック。本格の存在しない街で起こる本格殺人に、探偵天下一となった「私」が挑む。

今日本を代表するエンタメ作家といえば東野圭吾の名が上がるだろう。

社会性を織り込んだミステリやガリレオのような理系ミステリなど話題作を次々と世に送り出してきた。東野圭吾はミステリという枠に囚われずに、真に面白いエンタメ小説を追求しているように思える。

だが、東野圭吾の初期作品にはいわゆる本格ミステリが多い。『ある閉ざされた雪の山荘で』や『仮面山荘殺人事件』など、クローズドサークルや密室など現実離れした本格ミステリを書いている時期があったのだ。それはまだ東野圭吾が注目される前のことだ。東野圭吾自身も本格ミステリを愛好していたが、ある時から東野圭吾は本格ミステリから離れている。その東野圭吾の転換点とも言える作品が『名探偵の呪縛』だ。この『名探偵の呪縛』には、東野圭吾の本格ミステリへの思いと、本格ミステリから決別して次のステージに行くという決意表明が込められている。

 

 

『名探偵の掟』と『名探偵の呪縛』 

 『名探偵の呪縛』は『名探偵の掟』に続く天下一シリーズの二作目だ。この天下一シリーズに共通することは、「本格ミステリ」という様式そのものを題材にして批評したミステリであるという点だ。本格ミステリとは、日本独自とも言えるミステリのジャンルだ。密室やクローズドサークル、見立て殺人、不可能犯罪など謎解きやトリックに重きを置いたミステリだ。本格ミステリには様式美と呼べるものがあり、「探偵と助手が登場し謎を解決する」と言ったことや「謎解きの手がかりは読者にフェアに開示されなければならない」と言った暗黙の了解がある。

本格ミステリの形式を自虐的に茶化したのが『名探偵の掟』だ。『名探偵の掟』は本格ミステリあるあるを題材にして、パロディにしている。本格ミステリというジャンルが好きな人であれば、内輪の自虐ネタとしてかなり楽しめる。『名探偵の掟』では、密室や見立て殺人などのミステリの「お約束」にどんどん切り込んで、パロディ化していく。東野圭吾先生ここまでやっていいんですか?と読者の側が心配になってしまう。僕も本格ミステリ好きとして、本格ミステリあるあるを楽しむことができた。本格ミステリへのパロディ満載の『名探偵の掟』は、東野圭吾の本格ミステリへの愛情で溢れている。じゃないとミステリの「お約束(ノックスの十戒など)」をことごとく破り、タブーに挑んだこの本を書くことが出来ない。

本格ミステリを徹底的に茶化した『名探偵の掟』とは打って変わって、『名探偵の呪縛』ではユーモア要素が抑えられシリアスな雰囲気となっている。『名探偵の掟』が本格ミステリへの愛情を表現しているのに対し、『名探偵の呪縛』では本格ミステリとの決別がテーマだ。

 

 

本格推理小説という概念がない街で起こる殺人事件

 『名探偵の呪縛』の主人公は図書館を訪れていたが、いつの何か別世界に迷い込んでしまう。そして主人公は、いつの間にか探偵天下一になっていた。その街で主人公は次々に不可解な寺家に巻き込まれる。その事件は本格ミステリにありがちな密室や不可能犯罪要素があった。しかし、主人公が迷い込んだ街には「本格推理」という概念が存在しなかった。この街にかけられた呪いやこの街を作った者の正体を巡って話が進んでいく。

この作品の主人公には、推理小説家としての東野圭吾が投影されている。主人公が迷い込んだ街を想像したのは主人公そのもの(東野圭吾)であり、街はもともと本格推理小説の世界だった。しかし、主人公(東野圭吾)はこの世界の探偵・天下一を殺し、本格推理を封印した。これこそがこの街にかけられた呪いだ。

主人公を通じて東野圭吾はこう語っている。

 

「ここはもう僕には合わない世界だということだ。隔離された空間、人工的な設定、そしてチェスの駒としての登場人物たち。それらが僕の肌に合わなくなっている」

 

人工的な設定・チェスの駒としての登場人物たちというのは本格ミステリのことだ。ここで東野圭吾は本格ミステリからの決別を宣言している。またこんなことも書いている。

 

「リアリティ、現代感覚、社会性。この三本柱を大切にしたいですね。でないと、これから推理小説界を生き残っていけません。トリックや犯人当てなんてのはどうでもいいことです」

 

この宣言通り、東野圭吾はリアリティ・現代感覚・社会性を重要視した作品を書き続けていく。だが一方でこんなことも書いている。

 

私は本を閉じ、ついでにも閉じた。いつかまたあの世界を小説に書ければいいなと思った。

 

 

『名探偵の呪縛』出版後の東野圭吾

本格ミステリから離れた東野圭吾は快進撃を見せる。宣言通り、リアリティ・現代感覚・社会性を重要視した作品を書くようになる。

『白夜行』や『秘密』と言った話題作を次々と発表し注目を集めた。だが時には本格ミステリに近い小説も書いている。『容疑者Xの献身』がそうだ。皮肉にも、『容疑者xの献身』は本格ミステリかどうかの論争を引き起こしているのだが。東野圭吾はたまに本格ミステリの世界に戻ってきている。たまにだけど。

 

 

 天下一大五郎シリーズ第三弾『名探偵の使命』は刊行されるか?

現在2作品が刊行されている。かつて存在した著者の公式サイトの中では、第3弾として『名探偵の使命』を予告されていた。しかし、2020年時点でも『名探偵の使命』は発売されていない。一時期講談社の刊行予定作品の中に、天下一シリーズものと思われる東野の作品がアナウンスされていたが、何らかの事情で立ち消えになっている。本格ミステリから離れた東野圭吾がどのような天下一を書くのか気になるところだ。

 

 

 

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