ロシアの文豪、チェーホフの代表作として知られているのがいわゆる「四大戯曲」だ。
チェーホフの四大戯曲とは、『かもめ』、『ワーニャ伯父さん』、『三人姉妹』、『桜の園』のことを指す。
チェーホフの晩年に書かれた四大戯曲は、従来の演劇が依拠してきた劇的な事件や明確な筋立てを意図的に排し、人々の日常生活の断片や、言葉にならない内面の葛藤を中心に据えている。これは、演劇史における転換点の一つだ。
この記事ではチェーホフの四大戯曲について紹介したい。
チェーホフの四大戯曲とは?
チェーホフの四大戯曲とは、「かもめ」「ワーニャ伯父さん」「三人姉妹」「桜の園」のことを指す。チェーホフを代表する戯曲群のことだ。これらの作品は、19世紀末から20世紀初頭のロシア社会を背景に、人間の内面や日常の中に潜む悲劇と喜劇を描き出している。「かもめ」では芸術家たちの葛藤と愛のもつれが描かれ、「ワーニャ伯父さん」では地方の退屈な生活と自己犠牲がテーマとなる。「三人姉妹」は都会への憧れと現実のギャップを描き、「桜の園」では没落する貴族階級の姿を象徴的に表現している。チェーホフの戯曲は、劇的な展開よりも登場人物の心理描写や会話の妙に重きを置き、観客に深い共感と余韻を与えるのが特徴だ。
チェーホフの四大戯曲の詳細
それではチェーホフの四大戯曲、「かもめ」「ワーニャ伯父さん」「三人姉妹」「桜の園」をそれぞれ紹介していきたい。
かもめ
『かもめ』は四大戯曲の幕開けを飾る作品である。湖畔の領地を舞台に、新しい芸術形式を志す青年作家コンスタンチン・トレープレフ、その恋人で女優志望のニーナ・ザレーチナヤ、トレープレフの母で大女優のイリーナ・アルカージナ、そしてその愛人で流行作家のボリス・トリゴーリンという四人の人物を中心に、複雑に絡み合う恋愛模様と芸術をめぐる葛藤が描かれる。
物語は、トレープレフが「新しい形式」を求めて執筆した自作の劇を、ニーナを主役に据えて上演する場面から始まる。しかし、その試みは母アルカージナに嘲笑され、屈辱のうちに中断される。この出来事をきっかけに、ニーナの心はトレープレフから離れ、著名な作家であるトリゴーリンに惹かれていく。彼女は女優になる夢を追い、トリゴーリンと共にモスクワへと去る。二年後、物語の舞台は再び領地に戻る。作家としてある程度の成功を収めたトレープレフの元に、女優としては大成せず、トリゴーリンにも捨てられ心身ともに疲弊したニーナが姿を現す。短い再会の後、ニーナは再び去り、すべての希望を失ったトレープレフは自ら命を絶つという悲劇的な結末を迎える。
『かもめ』では、複数のテーマが重層的に織り込まれているが、中心的なのは「芸術と人生の関係」だと思っている。トレープレフは「必要なのは新しい形式なんです」と叫び、既存の演劇の陳腐さを批判するが 、彼の芸術的探求は、母親への対抗心やニーナからの承認を得たいという個人的な欲求と分かち難く結びついている。一方、成功した作家トリゴーリンは、名声の裏で常に創作の義務感に苛まれている。そしてニーナは、芸術家としての名声への純粋な憧れから、結果的に破滅的な人生を歩むことになる。このように、本作は芸術が人生を豊かにするだけでなく、むしろ人生を蝕み、破滅へと導きかねない残酷な側面を浮き彫りにしている。
タイトルであり、作品全体を貫く象徴である「かもめ」は、登場人物の立場によって異なる意味を帯びるメタファーとして機能している。
トレープレフにとって、自らが撃ち落としたかもめは、無垢なニーナの運命を暗示するメタファーであると同時に、彼自身の破滅的な未来を予兆する存在でもある。「いずれ僕はこんなふうに自分を撃ち殺す」という彼の台詞は、最終的な結末を明確に暗示している。
一方、ニーナにとって「かもめ」は、彼女の自己認識の変化を映し出す鏡となる。当初、彼女は湖に惹かれる自由な魂の象徴として自らを「かもめ」になぞらえる 。しかし、トリゴーリンとの恋に破れ、苦難を経験した後、彼女は「私はかもめ…いいえ、そうじゃない。私は女優」と繰り返し口にする 。ここで彼女は、破滅の象徴としての「かもめ」の運命に抵抗し、苦しみを耐え忍んで生き抜く「女優」としての新たなアイデンティティを確立しようと葛藤しているのである。
ワーニャ伯父さん
『ワーニャ伯父さん』は、田舎の領地を舞台に、長年にわたってその地所を管理し、義兄であるセレブリャーコフ教授を学問の権威として崇拝してきた主人公ワーニャが、教授の俗物的な本性に気づき、自らの人生が無為に過ぎ去ったという後悔と幻滅に苛まれる姿を描いている。
『ワーニャ伯父さん』は、チェーホフが1889年に発表した戯曲『森の主』を大幅に改作したものである。『森の主』では、主人公ワーニャが自殺し、登場人物の恋愛が成就するなど、比較的メロドラマ的な結末を迎える。しかし、『ワーニャ伯父さん』では、ワーニャの自殺未遂は失敗に終わり、恋も破れ、彼は絶望の中で再び地道な会計作業という日常に戻っていく。
『ワーニャ伯父さん』では「幻滅と後悔」が描かれる。ワーニャは、人生のすべてを捧げてきた教授が、実際には凡庸で自己中心的な俗物であったと悟り、「おれの人生は台なしだ!」と絶叫する。彼の悲劇は、過去に抱いていた偶像が崩壊したことによる深い幻滅と、失われた時間への取り返しのつかない後悔に根差している。
この作品の結末は、多様な解釈を許す深い余韻を残す。ワーニャの姪ソーニャが語りかける最後の台詞、「仕方ないわ、生きていかなくちゃ。…(中略)…わたしたち、ほっと一息つけるんだわ」は、キリスト教的な救済へのささやかな希望の表明とも、耐え難い現実を受け入れるための悲痛な自己暗示とも解釈できる。
現代においても『ワーニャ伯父さん』の影響力は衰えず、特に村上春樹の短編小説を原作とし、本作が劇中劇として極めて重要な役割を果たす濱口竜介監督の映画『ドライブ・マイ・カー』によって、その現代性が改めて世界的に注目された。この映画は、作品の根底にある「喪失との対峙」や「他者とのコミュニケーションを通じた再生の可能性」といったテーマが、現代の観客にも強く響く普遍的な力を持つことを証明した。
三人姉妹
『三人姉妹』は、ロシアの寂れた田舎町を舞台に、亡き父の赴任に伴って華やかな首都モスクワから移り住んだプローゾロフ家の三姉妹—長女オーリガ、次女マーシャ、三女イリーナ—の物語である。彼女たちは、かつての都会での輝かしい生活を理想化し、「モスクワへ!」と繰り返し叫びながらも、退屈で変化のない現実に徐々に埋没していく様を、静かな筆致で描いている。「都会」と「田舎」の対比、普遍的なテーマを描いた作品である。
『三人姉妹』の中心を貫くのは、「モスクワへ!」という姉妹たちの切ない叫びである。彼女たちにとって「モスクワ」は、単なる地理的な場所を意味しない。それは、失われた幸福、知的な刺激に満ちた生活、そして輝かしい未来そのものの象徴である。しかし、この叫びは現実を変える力を持たず、むしろ行動を起こさないための口実となり、彼女たちの精神的な停滞を象徴する呪文と化していく。この「モスクワ」という夢は、彼女たちが直面する不満な現在を耐えるための心理的な防衛機制として機能する。理想の未来にすべての希望を託すことで、彼女たちは現在の生活を改善するための具体的な努力を放棄してしまうのである。
劇は数年間にわたる時間の経過とともに、姉妹の希望が少しずつ、しかし確実に侵食されていく過程を冷徹に描き出す。教養ある長女オーリガは、望まぬ田舎の女学校の校長の職に就く。情熱的な次女マーシャは、退屈な教師である夫を裏切り、赴任してきたヴェルシーニン中佐と不倫の恋に落ちるが、彼の部隊が転任することで儚く終わる。未来を夢見る三女イリーナは、愛のない結婚に現実からの脱出口を見出そうとするが、その婚約者であるトゥーゼンバフ男爵は決闘によって命を落とす。
本作は、ロシア革命を目前にした帝政末期の閉塞感を色濃く反映している。三姉妹や彼女たちの周りに集う軍人たちは、皆、高い教養を持ち、未来の労働や幸福について哲学的な議論を交わす。しかし、彼らは現実を変える具体的な行動を起こすことができない。その一方で、姉妹が軽蔑する、俗物だが生命力に溢れた兄嫁ナターシャが、徐々にプローゾロフ家の実権を握っていく様は、古い理想主義的なインテリゲンチャが、新しい現実主義的な力によって駆逐されていく時代の縮図として描かれている。
桜の園
『桜の園』はチェーホフが生涯最後に書き上げた戯曲であり、彼の劇作の集大成と位置づけられている作品だ。物語は、破産状態にある女地主ラネーフスカヤとその一家が、先祖代々受け継いできた美しい「桜の園」を競売によって失うまでの一部始終を描く。この単純な筋書きの中に、チェーホフはロシア社会の歴史的な転換点を象徴的に凝縮させている。
この戯曲の中心に存在する「桜の園」は、単なる土地や財産ではない。ラネーフスカヤ一家にとって、それは失われた古き良き時代の美と、洗練された貴族文化そのものを表す。しかし同時に、その美しさは農奴たちの労働と犠牲の上に成り立っていたという、農奴制の負の歴史をも内包している。
物語の核心は、元農奴の息子である商人ロパーヒンが、かつての主人の土地である「桜の園」を競売で買い取るという展開にある。この出来事は、経済力を失い没落していく地主貴族階級と、産業化の波に乗って台頭する新興ブルジョワジーという、社会階級の劇的な逆転を鮮やかに描き出している。この構図は、1861年の農奴解放令がもたらした巨大な社会変動の直接的な帰結に他ならない。
『桜の園』は日本文学にも影響を与えていて、太宰治の代表作『斜陽』はチェーホフの『桜の園』を下敷きにしている。
まとめ
アントン・チェーホフの四大戯曲「かもめ」「ワーニャ伯父さん」「三人姉妹」「桜の園」は、執筆から一世紀以上を経た現代においても世界中で上演され、人々を魅了し続けているのは、その作品が時代や文化を超えた普遍的なテーマを内包しているからに他ならない。希望と幻滅、愛と孤独、過去への執着と未来への不安といった、人間が根源的に抱える感情の機微が、登場人物たちの何気ない日常の中に描き出されている。読んでみると人生のヒントになるかもしれない。



