メタファーとしてのあしか
そういえばあしかを見た記憶がない。子供の時に見た気がするが、あれはあざらしだっかかもしれない。この「あしか祭り」にとってあしかという存在は重要なものではなく、ある種の象徴性を備えたメタファー的な存在としてあらわされている。といった感じでこの「あしか祭り」は、よくパロディの題材として扱われる村上春樹文体のまわりくどさが前面に押し出された短編。
あしかルネッサンスとか意味が分からないし、「あしか性を確認する作業」に至っては意味が分からないを通り越して、何か神聖な意味合いがあるのではないかと思えてくる。やれやれ。この短編の「あしか」という言葉は、他の言葉に置き換えても問題がない気がする。カンガルーでもいいし、たまねぎでもいいような気がする。そう言う意味ではあしかは象徴的なものとして機能しているのかもしれない。とにかく色々とシュールなので、少し笑ってしまった。
形而上学的な意味合いを持ち、メタファーとして機能するあしか。書いてる僕自身もさっぱり意味が分からない。
栞の一行
祭りというものはあくまで祭りにすぎません。 華やかではありますが、それはいわば連続した行為のひとつの帰結でしかないのです。真の意味は、つまり我々のアイデンティティーとしてのあしか性を確認する作業はこの行為の連続性の中にこそあるのです。祭りとはあくまでその追認行為にすぎないわけです
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