日々の栞

本や映画について気ままに書く。理系の元書店員。村上春樹や純文学の考察や感想を書いていく

子どもたちから公園を奪ったのは誰か? / 「公園」 三崎 亜記

「子どもがうるさい」との住民の苦情により、子どもたちが利用する公園が廃止されることになったというニュースが話題を集めている。

廃止となったのは長野市にある青木島遊園地。市側は改善を続けたが、住民から騒音の訴えは変わらず、公園を利用する子どもはほとんどいなくなったようだ。公園には草刈りなどの維持費が必要だ。また、民間から借りている土地なので借地料もかかるので、利用者のいなくなった公園は廃止せざるを得ない状況に追い込まれていたのだ。

子どもの時に公園で散々遊んだ僕としては、子どもの遊び場を奪ってしまうのはどうかと思うが。

これは極端な事例だと思うが、苦情によって公園が姿を帰るというのはよくあることのように思う。僕が子どもの時も、子どもが遊具で遊んでいて怪我をしてしまうと、原因となった遊具が撤去されるという事例がよくあった。それが原因で、僕の実家近くの公園にあった地球儀のような回転する遊具は無くなってしまった。このような出来事の延長線上に、公園廃止の問題があるように思う。

今回の公演廃止のニュースを聞いて真っ先に思い浮かんだのが、三崎亜記の「公園」という短編小説だ。最近では国語の教科書にも採用されているらしく、読んだことがある人も多いかもしれない。この小説では、今回の事件を予言しているかのように、公園が世論の影響でどんどん規制されてしまう世界が描かれている。公園をめぐるちょっとしたディストピア小説だ。予見しすぎて怖いぐらいだ。

この記事では三崎亜記「公園」の考察と解釈を紹介したい。

 

「危険具」として撤去される遊具

ある一人の男が公園に入ろうとするところからこの小説は始まる。「公園」は住民の苦情や世論の影響によってどんどん規制されてしまって、公園は原形をとどめていなかった。

ブランコやすべり台、ジャングルジム、シーソーなどの遊具は事故を引き起こす「危険具」と呼ばれ、公園から撤去されていた。遊具に伴う危険性への「責任」を取りたくないという行政側の意図が垣間見える。関連する部分を小説中から引用してみよう。

 

だが、管理する施設すべてに「責任」の所在が求められるようになって、リスクを背負ってまで遊具を存続させようとする気概のある自治体は存在しなかった。あいついで「危険具」は撤去されていった。

 

砂場でさえも、動物の糞が紛れ込む可能性があって危険という理由で撤去されている。
さまざまな「危険性」から、公園の遊具は「危険具」として撤去されていったのだ。危険がなく安全な生活を過ごすために、すべての「危険性」を排除しようすることの滑稽さを風刺的に描いている。

この「公園」で描かれているのと同じような事例を経験したことがある人も多いのではないだろうか。

 

この「公園」で撤去されたのは遊具だけではない。大体の公園にある樹木も、蝉がうるさいという苦情が入ったために撤去されてしまったのだ。これは今回のニュースを一番連想させるところかなと感じた。

またベンチも、ホームレスが居座らないようにするために撤去されている。この事例に関しては、昨今話題になっている「排除ベンチ」を思い浮かべる人が多いに違いない。公園で見かけるベンチに、手すりのような突起がついていることはもはや「当たり前」の風景になっているだろう。

 

 

公園での禁止事項と誓約書

また、遊具などが撤去されただけではなく、厳しい禁止事項も追加されていた。

以下の利用を禁ずる

・ペットの持ち込み
・スポーツ遊具の使用
・アルコールの持ち込み
・バーベキュー、花火、 その他、火を使う行為

・花見、宴会、 その他、座り込んでの歓談
・イス、 テープルの持ち込み

・火器の使用
・自転車、 一輪車、三輪車、スケートボードの持ち込み
・飲食
・植物の採取
・楽器、ラジカセ等の使用

・二人以上の大人数での利用

 

納得できそうなものもあるが、これでは公園で何もできないじゃないかという内容だ。

また、公園に入るにも誓約書を書かねばならないのだ。自由で開かれた場所に入るのに、誓約書が必要だというアイロニーが描かれている。

万人にとって開かれた公園を求めた結果、禁止事項だらけの公園が生まれたのだ。

 

「あるべき」という無意識の圧力は、 公園そのものにも向けられた。 「自由で安全で、万人に開かれた場所」という「あるべき」公園の理想像を求められ続けた結果、公園には、次々と禁止事項が増えていった。その結果、 誰も訪れることがなくなったという矛盾を背負わされた公園は今も、「万人」という、姿の見えない 「誰か」 の利用を待ち続けている。

 

 

子どもたちから公園を奪ったのは誰か?

主人公が訪れた公園も廃止されてしまう。実は、主人公は公園の遊具の事故で息子を失っていた。自らの体験も踏まえ、「誰」が子どもから公園を奪ったのかについてこう述べている。

 

もちろん、 公園が姿を消していったのは、苦情の増加や問題発生時の責任回避のための、 国や自治体の自主規制の結果だ。
だか、 本当に公園を失わせたのは、善意や良識という、 「あるべき形」を押し付ける、姿のない「誰か」なのだろう。 それは特定の姿を持たないが故に、時に大きく強いものだと錯覚させて、 人々を、有無を言わせず従わせる力を持ってしまう。

 

世論という大きくて目には見えないものの力が現実を歪めてしまう。

三崎亜記の「公園」は、公共施設と世論の関係性について考えさせられる内容であった。

公園問題に関心を寄せている人はぜひ読んでみてほしい。「公園」は『名もなき本棚』という短編集に収録されている。

 栞の一行

もちろん、 公園が姿を消していったのは、苦情の増加や問題発生時の責任回避のための、 国や自治体の自主規制の結果だ。
だか、 本当に公園を失わせたのは、善意や良識という、 「あるべき形」を押し付ける、姿のない「誰か」なのだろう。 それは特定の姿を持たないが故に、時に大きく強いものだと錯覚させて、 人々を、有無を言わせず従わせる力を持ってしまう。

 

 

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