日々の栞

本や映画について気ままに書く。理系の元書店員。村上春樹や純文学の考察や感想を書いていく

友情と恋愛、どちらを取る?/ 『友情』 武者小路実篤

友情』というタイトルから、友情の素晴らしさを描いた小説だと思った人は多いだろう。僕もそうだった。しかし、武者小路実篤の『友情』という小説は、爽やかな青春小説の対極にあるような、友情と恋愛の間での葛藤を描いた恋愛小説だ。夏目漱石の『こころ』や『それから』のような三角関係を描いた内容となっている。作中でも『それから』が出てきていて、夏目漱石の作品へのオマージュが散りばめられている。夏目漱石の作品と違うのは、主人公が好きな人を友人に取られるという点だ。『こころ』では主人公が友情と恋愛どちらを取るか悩むが、『友情』では主人公の立場が友人に裏切られる側である。

人は、友のへの義理(友情)よりも、自然の義理(恋愛)をとってしまう」というのがこの『友情』のテーマだろう。国語便覧的な話をすると、武者小路実篤は白樺派に属している。白樺派は個性・自我に重きを置いていた。そのこともあり、この『友情』でも人間の自我(エゴ)の勝利が描かれている。すなわち、友情よりも恋愛をとるということだ。

 

 

悲恋の主人公・野島

あらすじを簡単に書いてみよう。脚本家の卵の野島は、友人の仲田の妹、16歳の杉子に恋をした。野島は親友の小説家、大宮にこの恋を相談する。大宮は野島の恋に協力してくれるようになる。奥手で童貞の野島はなかなか距離を詰められず、新たな恋敵の登場にどぎまぎし、杉子の反応に一喜一憂する。そして、野島は杉子に結婚を申し込むのだが、衝撃の事実を知らされることになる… 

野島が事実を知るところはかなり酷だ。手紙のやりとりを全て見せられるというのはなかなか残酷だな...杉子もなかなか毒舌で、「野島さまのわきには、一時間以上はいたくないのです。」みたいなことを手紙にさらっと書いている。自分だったら卒倒してしまう。

夏目漱石の「それから」と比べると、大宮は限界まで友情を取ろうとしているように思える。でも結局、自然への義理に従ってしまうのだけど。この本は180ページほどと、かなり薄いのだけど、内容が濃く、心がえぐられる。特にこの小説のようなシチュエーションを経験した人ならかなり衝撃が大きいはずだ。
人はある程度限られたコミュニティーの中で生きているから、友人と同じ人を好きになることも起こってしまう。友情と恋愛で葛藤するのがしみる。高校生ぐらいまでは絶対友情を取るだろうと思っていたけど、大学生になって激しい恋を経験すると恋愛を取ってしまうよなって思うようになった。環境の変化と恋愛経験でどっちを取るかは変わってくるよなって思う。やっぱり、友情か恋愛かという問いは人にとって普遍的なんだなと思う。
 
どんなに好きでも、どんなに頑張っても、相手の気持ちはどうにもならないことがある。さらには、相手が好きなのは自分ではなく、よりによって親友。この誤配が悲劇を生むことになる。やっぱり恋は不条理なものだな。
 
今となっては自由恋愛というのは当たり前だけれど、書かれた当時だと珍しいことじゃないかと思う。この『友情』では自由恋愛における残酷さを表現していると思う。恋愛市場においては、ルックスや経済力、性格、身体美、知性などの価値がつりあう時にカップルが成立する。市場価値が高い女性を口説き落とすには、男性側にはそれに見合うだけの価値が要求される。駆け出しの脚本家である野島では、杉子と不釣り合いだったのだろう。
 
 
 

野島の独り相撲だった?

 読んでいると、これはどう見ても野島が振られるよなって思うとこがある。野島の独り相撲のように思えるのだ。奥手な野島が四苦八苦する姿は微笑ましいし、○○ができたらあの人と結ばれるというのは誰しも経験したことじゃないだろうか。
しかし、野島には自分の幻想を杉子に押し付けすぎたきらいがある。自分の中で恋が盛り上がりすぎて、色んな妄想が膨らむことはよくある。しかし、過度の妄想が生み出す虚像はどうしても相手の重荷になってしまう。現に、杉子も手紙の中で書いている。(「野島さまは私というものをそっちのけにして勝手に私を人間ばなれしたものに築きあげて、そして勝手にそれを賛美していらっしゃるのです。」)野島が好きなのは生身の杉子ではなく、妄想で創り上げた杉子の虚像だったのだ。気持ちを押し付けるのではなく、ありのままの相手を受け入れることの大切さが身にしみてくる。
 
 
 

人は他人の欲望を欲望する?

夏目漱石の『それから』や『こころ』のような三角関係の小説の読解に使用される枠組みに「ジラールの欲望の三角形」がある。これは簡単にいうと、人は他人の欲望をなぞって、知らず知らずのうちに自分の欲望にしてしまうということだ。例えると、インスタなどで芸能人が使っているモノを見かけると自分も欲しくなってしまう現象みたいなことだ。ここでは芸能人の欲望(あるものを使用している)をなぞって、自分も欲しているように感じるのだ。
この他社の欲望を欲望するという枠組みを『友情』という小説に当てはめて考えてみよう。野島は杉子のことを好いていた(野島の杉子への欲望)。大宮は「野島の杉子への欲望」をなぞって、杉子のことを好きになっていったのではないかとも解釈できる。
 
 

表紙のイラスト

読み終わってみると、新潮文庫版の表紙のイラストは三角関係を表しているんだなと分かる。1番上にいるのが杉子で、主要なエピソードに関係する卓球のラケットを握っている。真ん中のメガネをかけた野暮ったい感じのが野島で、1番下が大宮なんじゃないかなと思う。読んでいたときの野島のイメージが、まさに表紙の野暮ったい感じだった。あとそれぞれの視線がどこに向いているかを考えると、面白いイラストになっている。