日々の栞

本や映画について気ままに書く。理系の元書店員。村上春樹や純文学の考察や感想を書いていく

デタッチメントという観点からの考察 / 「TVピープル」 村上 春樹

TVピープル」は、タイトル通りTVピープルという不思議な小人が登場する村上春樹の短編小説だ。世にも奇妙な物語にありそうなストーリーだなと思う。短編集『TVピープル』の表題作でもあるので、村上春樹の短編の中でも有名ではなかろうか。

ノルウェイの森』・『ダンス・ダンス・ダンス』執筆後のスランプ後に書かれた短編小説が「TVピープル」であった。村上春樹自身も、それが復帰の瞬間だったと語っている。

 

どこかマジックリアリズムぽさがある「TVピープル」だが、人間関係の希薄さや疎外感がテーマになっているように思う。村上春樹作品の主人公は周囲から距離を置く傾向があるが、「TVピープル」ではかなりその傾向が強い。

 

この記事では、疎外感や人間関係の希薄さという観点から考察・解説していく。

また、人間関係の希薄さについては「デタッチメント」というキーワードと絡めて解釈してみたい。またTVピープルという存在は何を暗示しているのかについても考察したい。

GoogleでTVピープルと調べると、候補に「TVピープル 意味不明」というのが上がってくる。確かにこの短編は村上春樹作品の中でも意味不明で難解な小説なのかもしれない。考察のしがいがある小説だ。

それでは「TVピープル」について考察・解説していこうと思う。意味不明と思った人にとっても理解の助けになれば幸いだ。

 

 

日常に侵入するTVピープル

日曜日の夕方に「TVピープル」が登場するところから小説が始まる。休日が終わりを迎える日曜日の夕方に主人公は憂鬱になっていた。まあ、日曜日の夕方に憂鬱になるサザエさん症候群になるのは小説の主人公に限った話ではないだろう。とにかく主人公の「僕」は日曜日の夕方的状況を好んでいなかった。そんなときにTVピープルが登場した。

ではまず、TVピープルの特徴について整理していく。「TVピープル」の本文から、特徴が書かれた部分を下記に引用してみよう。

 

TVピープルの体のサイズは、僕やあなたのそれよりはいくぶん小さい。目立って小さいというわけではない。いくぶん小さいのだ。だいたい、そう、二割か三割くらい。それも体の各部分がみんな均一に小さい。だから小さいというよりは、縮小されていると表現した方が用語的にはむしろ正確だろう。 p11

 

TVピープルは人間の2〜3割の大きさだと説明されている。小人のような姿ではあるが、白雪姫に出てくるような小人とは違うようだ。世間一般的な小人のイメージでは、体が小さく頭だけ大きい姿を想像するのではないかと思う。

だが、TVピープルはそのイメージとは違う。大人の人間をそのまま縮小コピーしたような姿なのだ。

 

つまりピープルの小ささは子供やコビトの小ささとは全然違っている。僕らは子供やコビトを見て、彼らを「小さい」と感じるわけだが、その感覚的認識は多くの場合彼らの体つきのバランスの悪さから発しているのである。彼らはたしかに小さいのだけれど、すべてが均一に小さいわけではない。手は小さいけれど頭が大きかったりする。それが普通だ。でもTVピープルの小ささはそれとは全然違う。TVピープルの場合はまるで縮小コビーをとって作ったみたいに、何もかもが実に機械的に規則的に小さいのだ。 p12

 

TVピープルが人間を縮小コピーした存在をイメージさせるためか、この文章の後に「それがTVピープル」という文章が縮小されて挿入されている。遊び心ある表現だなと思う。

こんな不思議なTVピープルという存在が家や職場など「僕」の日常に侵入してくるのだ。作中で主人公の「僕」がガルシア・マルケスの本を読んでいるが、マルケスの小説のようにマジックリアリズム(魔術的リアリズム)的な展開だ。

 

この不思議なTVピープルだが、日曜日の夕方に「僕」の家に3人で侵入し、SONY製のカラーテレビを設置しようとする。ピープルたちはサイドボードの上を片付けてテレビを設置するのだが、TVをアンテナに接続することはせず画面にはただ白い画面が映るだけであった。どうやらTVピープルはアンテナに接続することに興味はないようだった。また、「僕」もテレビとアンテナを接続しようとしていなかったみたいだ。この接続されてないTVというモチーフは、他人と深い関係を持たない「僕」の人間性を示しているように思う。言い換えれば、「僕」のデタッチメントな姿勢だ。

また、TVピープルたちは「僕」が働く会社にもTVを担いで出現する。他の社員はTVピープルを無視しているようで、何も知らされていない「僕」はある種の疎外感を感じる。

そしてラストでは、「僕」自身もTVピープル化してしまい、言葉さえ失ってしまうことが仄めかされている。

TVピープルが暗示する、「社会とつながらない姿勢」や「夫婦間のコミュニケーション不全」、「社会からの疎外感」がこの作品を読み解く鍵ではないかと思っている。この点について考察しよう。

 

 

TVピープルで描かれる「夫婦間のディスコミニュケーション」、「社会からの疎外感」

主人公の「僕」は周りの人間と深い関係を持とうとしていないように思える。それは最も身近な他人でもある妻との場合でも当てはまる。「TVピープル」では、コミュニケーションがうまくいっていない夫婦が描かれている。

これは、短編集『TVピープル』に収録されている「TVピープル」以外の短編、「飛行機」や「眠り」にも当てはまることだ。この「夫婦間のディスコミュニケーション」というテーマは次作の『ねじまき鳥クロニクル』にも繋がっているように思う。

TVピープルはTVをサイドテーブルに設置することで、微妙な夫婦関係に最後の一撃を加えているように思う。TVピープルはTVを置く際に、サイドテーブルに置かれている妻の雑誌を全部どかしてしまう。妻は自分の雑誌に触れられることを望んでいない。なので、TVピープルが雑誌を散らかした後を見れば怒るはずだ。しかし、帰宅した妻はそのことには全く触れず無視を決め込んでいるのである。その部分を引用してみよう。

 

とても不思議なことなのだけれど、妻はテレビが部屋の中に出現したことに対して何も言及しない。何の反応も示さない。まったくのゼロなのだ。気がつきさえしないようだ。これは実に奇妙なことだ。というのは、さっきも言ったように、彼女は家具や物の配置・配列に対してとても神経質な女だからだ。自分のいないあいだに部屋の中の何かがほんの少しでも移動したり変化したりしていると、彼女はそれを一瞬で見てとる。

 

この様子からも夫婦間でコミュニケーションが取れていないことがわかる。

また、日曜日の夕方に妻が外に出かけてご飯を食べていることにも夫婦間のディスコミュニケーションが表現されているように思う。日曜日の夕方といえば家族団欒で過ごすというイメージがある。それにもかかわらず、夕食を一緒に撮らないといういうのは、夫婦間の仲がよくない証拠ではないかと思う。

結局、妻はどこかにいってしまい、「僕」はTVピープル化してしまう。妻との関係性が決定的に破綻してしまう予感は時計に象徴されている。本文から引用してみよう。

 

きっといっか僕はあの時計につまずくだろう。 と僕は思って溜め息をついた 。間違いない。絶対につまずく。賭けてもいい。

夫婦関係が破綻することはこの一文に示唆されていた。実際にその後、僕は夫婦関係でつまずくことになる。

最後に、妻は「僕」の元をさり、TVピープルがやってくる。夫婦関係は取り返しのつかないところまできていたのだ。

妻から電話がかかってくるというコミュニケーションの改善が示唆されるが、TVピープル化してしまい言葉を失ってしまった「僕」にはもう妻とコミュニケーションが取れなくなってしまっていた。

 

また僕は現実世界に違和感を覚え、疎外感を感じているように思う。 作中に登場する「ックルーズシャャャタル・ックルーズシャャャャャタル・ッッッッックルーズムムムス」といった奇妙な擬音語は、「僕」の現実への違和感を表現しているのではないかと思う。

また、自分以外の人はTVピープルに反応しないという点で、「僕」は社会的な疎外感を感じている。この疎外感やコミュニケーション不全の問題は「デタッチメント」というキーワードに繋がるように思う。

 

 

「デタッチメント」というキーワードで読み解く

「僕」の他人への関わり方は「デタッチメント」という言葉で説明することができると思う。

デタッチメント」というのは、「離れる」という意味のように、社会や他人との関わりから距離を置くという態度である。

村上春樹作品は「デタッチメント」や「コミットメント」という言葉で論じられることが多い。一般的に初期作品では主人公が社会から距離を置いた「デタッチメント」な姿勢をとり、『ねじまき鳥クロニクル』からあたりからそういった問題に関わっていく「コミットメント」な態度をとっていくようになっていると言われている。「デタッチメント」から「コミットメント」へ、これは村上春樹の作風の変化を説明する際に使われる表現だ。

では、「デタッチメント」と「コミットメント」という言葉は何から来ているのだろう?この言葉の由来は、村上春樹と河合隼雄の対談についてまとめた『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』だ。該当する部分を引用してみよう。

 

「それと、コミットメント(かかわり)ということについて最近よく考えるんです。たとえば、小説を書くときでも、コミットメントということがぼくにとってはものすごく大事になってきた。以前はデタッチメント(かかわりのなさ)というのがぼくにとっては大事なことだったんですが」

 

この部分から、村上春樹の作品を論じる際に「デタッチメント」と「コミットメント」という言葉が使われるようになったのだ。

「TVピープル」をこの観点から考察すると、「デタッチメント」という言葉の方がぴったりだと思っている。

まず書かれた時期だが、「TVピープル」という作品は1989年に「par AVION」という雑誌で発表されている。「デタッチメント」と「コミットメント」の転換点と言われている『ねじまき鳥クロニクル』が1992年から連載され始めたので、「TVピープル」は「デタッチメント」の時期に当てはまる。

また内容面においても、「TVピープル」は「デタッチメント」にかなりシフトした作品ではないかと思う。これは、『TVピープル』という短編集全体に言えることだが。「村上春樹の他作品と比較しても、「TVピープル」では主人公が妻などの周りの人とかなり距離をとっているような印象がある。TVがアンテナに接続されていないことが象徴しているように、主人公は社会に積極的に関わろうとしていない点で「デタッチメント」な態度をとっているように思う。

TVピープルが暗示する、「社会とつながらない姿勢」や「コミュニケーション不全」、「疎外感」は、「デタッチメント」な態度の現れだ。

 

 

TVピープルは何のメタファーか?

では、最後にTVピープルは何のメタファーなのか考察したい。

TVピープルは、テレビなどのメディアが持つ暴力性のメタファーなのではないかと思う。

実際、「僕」は飛行機に見えないものをTVピープルに見せられるが、最終的には飛行機だと納得してしまう。これはメディアによって思考を支配されてしまうことを象徴しているように思う。

 

 

村上春樹作品に登場する「小人的な存在」について

村上春樹作品の中で「小人的な存在」が登場するのは、「TVピープル」だけではない。他の作品の例を挙げてみよう。
踊る小人」では、主人公の体を乗っ取ろうとする邪悪な小人が登場する。この小人は踊りの才能を持っており、その踊りは見るものを魅了する。

社会現象を巻き起こした『1Q84』では、「リトル・ピープル」というTVピープルみたいなものが登場する。「リトル・ピープル」は、背丈を自由に変えることができる。小指ぐらいの大きさから、60センチぐらいまで様々な大きさに変化するのだ。

これらの村上春樹作品に登場する「小人」に共通するのは、どちらかというと邪悪な存在として描かれているという点だ。こういった小人というのも村上春樹作品に特徴的なキャラクターなのかもしれない。

 

僕自身もTVピープルやリトルピープルにちょっと会ってみたい気もする。『踊る小人』の方は体を乗っ取られそうなので辞退しておく。

 

栞の一行

たとえそうは見えなくても、彼らにとっては、それが飛行機なのだ。たしかにこの男の言うとおりだ。