日々の栞

本や映画について気ままに書く。理系の元書店員。村上春樹や純文学の考察や感想を書いていく

「みみずくん」との戦い / 「かえるくん、東京を救う」 村上 春樹

村上春樹の小説には動物をモチーフとした個性的なキャラクターが登場する。『羊をめぐる冒険』の羊男が有名だろう。あるいは、「かえるくん、東京を救う」に登場する「かえるくん」も印象に残るキャラクターだろう。

村上春樹の「かえるくん、東京を救う」は連作短編集『神の子どもたちはみな踊る』に収録された短編小説だ。『神の子どもたちはみな踊る』という連作短編集は元々「連作『地震のあとで』」という通しタイトルで発表された作品だ。

地震のあとで (After the quake)」とあるように、『神の子どもたちはみな踊る』は1995年1月17日の阪神淡路大震災に影響を受けて書かれた作品だ。しかし舞台は神戸ではなく、被災地から遠く離れた場所(釧路、茨城、千葉、タイ、東京)が舞台になっており、作品中の設定は1995年2月だ。これは阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件という2つのカタストロフィに挟まれた時期だ。

『神の子どもたちはみな踊る』に収録された作品の中でも、「かえるくん、東京を救う」はより直接的に地震との対決を描いた作品である。「かえるくん」というカエルと、片桐という人物が東京での地震を引き起こすみみずくんという話だ。地震との対決の中で、翌月に訪れる地下鉄サリン事件の予兆を暗示しているようにも思える。

この記事では「かえるくん、東京を救う」について考察・解釈していこうと思う。

 

 

阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件という2つのカタストロフィ

まず、『神の子どもたちはみな踊る』の収録作品と阪神淡路大震災との関係を述べておこう。この連作短編に登場する主人公たちは間接的に阪神淡路大震災や地震というモチーフに関わっている。

かえるくん、東京を救う」においては一般市民の片桐が「かえるくん」と共に地震を引き起こす「みみずくん」との戦いを余儀なくされる。

阪神淡路大地震というモチーフで考察されがちな『神の子どもたちはみな踊る』だが、地下鉄サリン事件にも注目して読み解くべきだと思う。収録された小説はいずれも1995年の2月に起きた出来事という設定になっている。1995年1月の阪神淡路大震災1995年3月の地下鉄サリン事件に挟まれた時期だ。そこにはサリン事件の影が見て取れるように思う。

また、村上春樹自身も全集の解題で以下のように書いている。

 

つまり1995年2月というのはそのふたつの大事件にはさみこまれた月なのだ。不安定な、そして不吉な月だ。僕はその時期に人々がどこで何を考え、どんなことをしていたのか、そういう物語を書きたかった。地震の様々な余波を受け、来るべきサリンガス事件の(無意識的)予感の重みを抱えて生きる人々の姿。

「かえるくん、東京を救う」地震だけではなく、サリン事件の予感というのも書き込まれているように思う。以下では作品の内容に触れて考察していこうと思う。

 

 

「かえるくん」と片桐の共闘

簡単にあらすじを確認しようと思う。

「かえるくん、東京を救う」は、「かえるくん」が片桐の家で巨大な蛙が待ち受けているところから始まる。2メートルもある蛙は自らを「かえるくん」と名乗り、東京が壊滅するのを防ぐためにやってきたと言う。その東京の壊滅というのが地震によって引き起こされるものだ。「かえるくん」は地震を防ぐために、片桐に協力を求めてきたのだ。

 

とてもとても大きな地震です。地震は2月18日の朝の8時半頃に東京を襲うことになっています。つまり3日後ですね。それは先月の神戸の大地震よりも更に大きなものになるでしよう。その地震による死者はおおよそ15万人と想定されます。

 

片桐は東京安全信用金庫に勤めており、村上春樹の小説の主人公にしては風采が上がらないキャラクターだ。つまりは一般大衆的な人間だ。ただ「かえるくん」は片桐のような人間を守るために地震を止めに行くともいっている。

ではどうやって地震を止めるかというと、東京の地下に潜り「みみずくん」と戦い地震を止めるのだ。しかし、片桐は銃撃に会い、病院に運び込まれてしまい、気づけば翌日になっていた。かえるくんに協力できなかったが、地震は起こらなかった。不思議なことに銃撃された訳ではなく、意識を失っただけだと看護師さんから説明される。その後、「かえるくん」が病室を訪れ、事件の顛末を語るのであった。「かえるくん」は「みみずくん」に勝てなかったが、地震を防ぐことができたのだ。

 

 

「みみずくん」が意味するものは

地震を引き起こす存在として「みみずくん」が描かれている。「みみずくん」について考察してみようと思う。

「みみずくん」とは、地底に住む巨大なミミズのことで、腹を立てると地震を引き起こす存在だ。「みみずくん」が意味しているのは、「憎しみ」の象徴ではないだろうか。関連する文章を引用してみよう。

 

みみずくんの心と身体は、長いあいだに吸引蓄積された様々な憎しみで、これまでにないほど大きく膨れ上がっています。おまけに彼は先月の神戸の地震によって、心地の良い深い眠りを唐突に破られたのです。そのことで彼は深い怒りにし示唆されたひとつの啓示を得ました。そして、よし、それなら自分もこの東京の街で大きな地震をひき起こしてやろうと決心したのです。

 

この小説ーあるいはこの連作短編集ーの特徴だが、地震と内面的な憎悪が繋がっているように描かれている。地震が内面の憎悪を引き出し、憎悪が地震を引き起こすという。

こういった内面における憎悪や葛藤というのは翌月に起こる「みみずくんにつながるものとして描かれているのではないかと思う。東京の地下で「みみずくん」と戦うというのも地下鉄サリン事件を彷彿とさせるものがある。

この「みみずくん」だが、先月に起こった阪神淡路大震災が引き金となって、東京にカタストロフィをもたらそうとしている。

 

「かえるくん」と「非かえるくん」

「かえるくん」は最後、「非かえるくん」について言及している。この「非かえるくん」について考察していこうと思う。

まず非カエルくんに関連する部分を引用してみる。

 

「ぼくは純粋なかえるくんですが、それと同時にぼくは非かえるくんの世界を表象するものでもあるんです」

 

「ぼくにもよくわかりません」とかえるくんは目を閉じたまま言った。「ただそのような気がするのです。目に見えるものが本当のものとはかぎりません。ぼくの敵はぼく自身の中のぼくでもあります。ぼく自身の中には非ぼくがいます。ぼくの頭はどうやら混濁しています。機関車がやってきます。でもぼくは片桐さんにそのことを理解していただきたいのです」

 

ここで描かれているのは、「かえるくん」と「非かえるくん」、「ぼく」と「非ぼく」だ。

ここでの「非かえる(非ぼく)」というのは、自分自身の内側に存在する敵、地震によって引き起こされた憎しみや激しい感情のことを象徴しているのではないかと思う。自分自身が認識できなくても、憎しみの感情は内部に巣食っていることを暗示しているのではないかと思う。

 

かえるくん、東京を救う」においては、阪神淡路大震災が引き起こした憎しみとその余波を描いているように思う。内なる憎しみ(みみずくん)は、強力な敵で新たな災害を引き起こす可能性もある。それがこの作品では東京大震災という形で描かれていた。

また、地震によって引き起こされた憎しみや憎悪というモチーフは同じ『神の子どもたちはみな踊る』に収録されている「タイランド」にも通じるものがあると思う。

この作品は、地震によって引き起こされた憎しみとどう戦うかを描いた小説ではないかと思う。かえるくんというキャラクターの姿を借りて。