日々の栞

本や映画について気ままに書く。理系の元書店員。村上春樹や純文学の考察や感想を書いていく

父親と戦争 / 『猫を棄てる 父親について語るとき』 村上 春樹

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ある夏の日、僕は父親と一緒に猫を海岸に棄てに行った。歴史は過去のものではない。このことはいつか書かなくてはと、長いあいだ思っていた―――村上文学のあるルーツ

 『猫を棄てる 父親について語るときに僕の語ること』は、村上春樹が自らの父について語ったエッセイだ。確か、初出は『文藝春秋』2019年6月号だったと思う。今回、エッセイ+イラスト+あとがきという形で出版された。

イラストを描いたのは、台湾のイラストレーター・漫画家の高妍(ガオ イェン)。約100ページほどの本である。大作ではないが、これまでの村上春樹作品に新たな解釈を与えるヒントや驚きに満ちた作品である。

村上春樹はこれまでにも色々なエッセイで、文学のルーツを語っているが、この本は自分にとっては衝撃的だった。なぜなら、村上春樹が自らの父について語っているからだ。

 

 

村上春樹作品と父の不在

文学において、父というのは重要なテーマだ。ギリシャ悲劇の最高傑作『オイディプス王』は息子が父親を殺す「父殺し」の骨格を持った物語だし、「父」というモチーフは色んな文学作品で扱われている。志賀直哉の『暗夜行路』も「父」が物語の重要な部分を占めている。文学だけでなく、『スター・ウォーズ』も「父殺し」の骨格を持ったストーリーだ。ここで提示されているのは、子供もいつか父親になる、息子が父を乗り越える、という形の典型的なストーリーだ。

 しかし、村上主義者にとってはお馴染みだと思うが、村上春樹の小説では「父の不在」が常であった。徹底的とも言えるぐらいに、父親という存在は省かれてきたのである。初期作品においては、父や父と子の関係といったモチーフは羊をめぐる冒険で少し描かれた程度だ。主人公に子供がいるという設定の小説もないと思う。村上春樹は父というテーマを執拗に避けていたように感じる。これは日本文学においては特殊であるように思える。

そんな村上春樹作品でも、近年では「父」が描かれるようになった。『海辺のカフカ』にはオイディプス王に連なる「父殺し」がモチーフになっている。『神の子どもたちは皆踊る』にも父の影があった。社会現象にもなった『1Q84』では、主人公・天吾の父が小説中に登場する。天吾の父は、満蒙開拓団に参加した元NHKの集金人で、息子と折り合いが悪い父として描かれている。天吾と父が和解するシーンもある。最初は村上春樹の変化に戸惑ったけれど、この「猫を棄てる」を読むと、このシーンを彷彿とさせるエピソードが描かれている。こうした描写は、村上春樹自身が長い間疎遠であった父と和解したことによるものなのかと勘ぐってしまう。

僕はテクスト論的な読み方が好きなので、作者の背景情報を織り込んで解釈する方法はあまりしないけど、この本には『ねじまき鳥クロニクル』・『騎士団長殺し』の新しい解釈を示す補助線が弾けそうなエピソードが色々と語られている。

 

 

父と戦争

『猫を棄てる』というタイトル通り、このエッセイは少年時代の村上春樹が父と一緒に猫を棄てに行くところから始まる。しかし捨てた猫はまた村上春樹少年の元に戻ってきてしまうのだ。その不思議なエピソードは、『ねじまき鳥クロニクル』に登場する猫(ワタヤ・ノボル)を彷彿とさせる。

 

そして、作中で語られる戦時中の父に関するエピソードは、村上春樹が小説の中で描き続けてきた戦争の姿に重なる。『騎士団長殺し』での、上官に日本刀を手渡されて捕虜の首を切れと命令される雨田継彦の戦争体験は、村上春樹の父親の人生と重なっているように思える。この『猫を棄てる』を読んでいると、ノモンハン事件を取り上げた『ねじまき鳥クロニクル』や、ナチスや南京事件に触れた『騎士団長殺し』はこの父親の戦争体験が下敷きになっているのではないかと思える節がある。 

 そして終盤に登場する不思議な猫の話は、『スプートニクの恋人』のすみれの子供時代のエピソードに連なっておるのだろう。小説を書くということは、自分の過去や自分が置かれた現状や関係を整理し、考えをまとめる自己療養の一つではないかと思える。

 

 

村上春樹の静かな応答

www.sankei.com

 文芸時評で早稲田大学教授・石原千秋は『猫を棄てる』について、『騎士団長殺し』が文庫化されたこの時期に書かれたことに意味があると述べている。

 

父は毎朝読経を決して欠かさなかった。幼い村上春樹が一度だけ理由を聞いたことがある。父の答えはこうだった。「前の戦争で死んでいった人たちのためだと。そこで亡くなった仲間の兵隊や、当時は敵であった中国の人たちのためだと」。この文章は最後に、僕たちがたとえ「一滴の雨水」だとしても、その思いを受け継いでいかなければならないと締めくくられる。村上春樹を批判する人たちへの、静かな応答だろう。

 

このエッセイが描かれたのは騎士団長殺しが文庫化された時期と重なることを考えると、石原千秋の指摘は鋭いなと思う。

『騎士団長殺し』は、「南京事件」の犠牲者数に触れた登場人物のセリフで物議を醸していた。猫を棄てるはこのことに対する「静かな応答」なのかもしれない。