日々の栞

本や映画について気ままに書く。理系の元書店員。村上春樹や純文学の考察や感想を書いていく

中島敦『山月記』を読むならちくま文庫版を推したい件について

中島敦の『山月記』といえば、自意識にとらわれた男の苦悩を描いた名作だ。

高校の国語で勉強するので、大抵の人は読んだことがあるはずだ。

臆病な自尊心」や「尊大な羞恥心」とキラーワードは、何者かになろうとしてなれなかった人には突き刺さるフレーズだろう。『山月記』は現代にも通じる普遍的なテーマを扱った作品だ。

 

中島敦の『山月記』だが、色々な出版社から文庫本が発売されている。

例を挙げてみると、新潮文庫、角川文庫、岩波文庫、文春文庫、ちくま文庫と5つの出版社から文庫本が販売されている。

 

内容は同じ『山月記』なんだからどれも同じじゃないのか?」と思うかもしれないが違うのだ。特に解説の内容が違っていて、出版社を選ぶ余地があるのだ。

 

僕は山月記は新潮文庫とちくま文庫の二冊を持っている。

 

ただ、解説の内容でいくとダントツでちくま文庫版を推したい。

ちくま文庫版の解説を書いているのは、蓼沼正美さんだ。蓼沼正美さんは「山月記」読解に一石を投じた論文「『山月記』論――自己劇化としての語り」を書かれたことで有名だ。「臆病な自尊心」や「尊大な羞恥心」というキーワードに基づく読解を根底からひっくり返すような読解を提示している。この論文は入手しずらいのだが、ちくま文庫版の解説ではこの論文の内容をもとにした内容が書かれている。

 

『山月記』論――自己劇化としての語り」で提示されている読解について簡単に紹介したい。まずは核心部分を論文から引用してみよう。

 

そして『山月記』という物語が語る本当の「恐し」さも、実はそこにあると言える。人間が人間として生きられる最後の瞬間に、自己を対象化する言葉を語りながらも、なお劇的に自分を仮構せずにはいられない。しかもそうやって自分を演出してしまうことよりも、演出された自分にしか自覚的になれない人間の愚かしさ。突き詰めて言えば、自分が何を語っているのかもわからぬまま、虎になっていかなければならない(=人間として死んでいかなければならない)「悲劇」を、『山月記』は物語っているのである。

 

この論文では、李徴の独白には「自己劇化」が生じていることを指摘している。「臆病な自尊心」や「尊大な羞恥心」といったキャッチーな言葉を使った李徴の語りは、聞き手の袁傪に対して、虎になろうとしている自分の悲惨な運命をドラマチックに語ることに注力されている。その語りには「正確な自己分析」など存在しない。李徴は、自らが紡ぎ出した言葉に飲み込まれ自己劇化が進行していくのだ。

そのように読み解いていくと、高校国語で教えられるような、李徴の語る言葉に注目する読み方は全く的外れであるように思える。

 

この解説では『山月記』を既存の読解に押し込めるのではなく、より自由に読解する可能性を提示しているのだ。