小説や評論などで、補足のために注釈が付けられていることはよくあることだ。
しかし、本文よりも注釈がメインになっている小説があるといえば驚くだろうか?
ポストモダン*1小説と言われる小説には、既存の発想にとらわれない様な小説が数多くある。
その中には注釈が本文よりも多くなってしまい、もはや注釈の方がメインじゃないかと思う様な小説が幾つかある。注釈を使って新しい文学表現を切り開いた小説たちだ。
この記事では、注釈が多すぎる一風変わった小説を紹介したい。
- 『なんとなく、クリスタル』 / 田中 康夫
- 『33年後のなんとなく、クリスタル』 / 田中 康夫
- 『烏有此譚』 / 円城 塔
- 『偶然の聖地』 / 宮内 悠介
- 『その午後、巨匠たちは、』 / 藤原 無雨
- 『中二階』 / ニコルソン・ベイカー
『なんとなく、クリスタル』 / 田中 康夫
1980年東京。大学に通うかたわらモデルを続ける由利。なに不自由ない豊かな生活、でも未来は少しだけ不透明。彼女の目から日本社会の豊かさとその終焉を予見した、永遠の名作。
『なんとなく、クリスタル』は大衆消費社会の勃興と、バブル経済前の日本、そして日本に忍び寄る衰退の影を描いた小説だ。作者は長野県知事を務めたこともある田中康夫*2だ。
『なんとなく、クリスタル』は、「なんとなくの気分」で生きる若者たちの時代を描いた小説だ。小説の舞台は1980年の東京で、その当時の都市風俗を固有名詞や注釈を多用して批評的に表現している。
『なんとなく、クリスタル』の特徴は、なんと言っても時代を象徴する固有名詞の多用と、それに対する膨大な量の注釈だ。文学作品では普遍性を持たせるために固有名詞を多用することを避けたりするのだが、『なんとなく、クリスタル』では女子大生兼ファッションモデルの由利の生活を中心に、若者にしか理解できない様なブランドや地名の固有名詞が散りばめられている。それぞれの固有名詞に作者の視点を基にした442個の注釈と分析が入っている。この小説の面白さは注釈にあると言っても過言ではない。
『33年後のなんとなく、クリスタル』 / 田中 康夫
1980年から現代の日本へ、記憶の円盤に乗って時間の旅!日本の人口減少と超高齢化社会を予言したあの『なんクリ』から33年―大学生だった彼女たちは、いま50代になった。ある夏の日、自分の小説のモデルだった由利と再会したヤスオは、ふたたび恋に落ちる
田中康夫『33年後のなんとなく、クリスタル』は、『なんとなく、クリスタル』に引き続き注釈に溢れた小説だ。
主人公は、『なんとなく、クリスタル』に登場した・由利とその女友達と、作者・田中康夫である。『なんとなく、クリスタル』の33年後を、今回も過剰な注釈付きで描いている。注の数は驚きの438個。
「クリスタル」な生活を送っていた由利たちも、33年を経てくすんだ大人になってしまったのかもしれない。
『烏有此譚』 / 円城 塔
灰に埋め尽くされ、僕は穴になってしまった―目眩がするような観念の戯れ、そして世界観―。不条理文学のさらに先を行く、純文学*3
読む者を迷宮に誘う前衛小説・実験小説を書くことで有名な円城塔。芥川賞を受賞した『道化師の蝶』では、選考委員の島田雅彦に「二回読んで、二回とも眠くなるなら、睡眠薬の代わりにもなる。」*4と言わしめたほどだ。
円城塔の作品は毎回難解で内容が意味不明なことが多いのだが、文章自体はウィットに富んでいて一つ一つの文章を読んでいるのは面白い、総体としては何を言っているのかわからないというのが難点だが。
本作は群像に掲載された小説に数多くの注釈をつけて出版されたものだ。群像に掲載されたバージョンでは単行本にするのにはページ数が足りないのということで注釈をたくさん付けたという裏話があるらしい。本書は本文と注釈の2段組みとなっている。注釈自体も面白いので意味がわからないなりにも楽しめる。
『偶然の聖地』 / 宮内 悠介
地図になく、検索でも見つからないイシュクト山。時空がかかった疾患により説明不能なバグが相次ぐ世界で、「偶然の聖地」を目指す理由(わけ)ありの4組の旅人たち。秋のあとに訪れる短い春「旅春」、世界を修復(デバック)する「世界医」。国、ジェンダー、S N S--ボーダーなき時代に鬼才・宮内悠介が描く物語という旅。
宮内悠介の『偶然の聖地』は、世界の裏側がどうなっているのかを垣間見せてくれる壮大な小説だ。あらすじを説明するのが非常に難しいのだが、めちゃくちゃ簡単にいうと地図にないイシュクト山を目指すという話だ。
この小説も注釈が非常に多い。作者の独り言のような注もあり、エッセイを読んでいるかのような気分になる。注釈を通して作者の頭の中を除いているような気分になれる。
『その午後、巨匠たちは、』 / 藤原 無雨
北斎、レンブラント、モネ、ダリ、ターナー、フリードリヒ、そして歳を取らない女・サイトウ。彼らは、救世主か? 破壊者か? 円城塔、歓喜! 驚愕の注釈小説の誕生。
藤原無雨の『その午後、巨匠たちは、』は注釈小説の中でも特に変わった仕掛けがされている小説だ。円城塔が歓喜している時点で身構える必要がある。
普通の注釈小説(注釈小説という時点で普通じゃない気がするが)だと、本文があってその横か最後のページに注釈がついている。だが、『その午後、巨匠たちは、』は違うのだ。
『その午後、巨匠たちは、』だと、本文の横に注釈がついているのだが、注釈から地続きで本文に戻っていくのだ。何を言っているのか分からないと思うのだが、簡単にいうとリレーのように注釈から本文、本文から注釈に繋がっていくのだ。なので、注釈を読んでいたらいつの間にか本文に戻っているみたいな事態が生じる。これぞ本でしか味わえない体験だと思う。
『中二階』 / ニコルソン・ベイカー
中二階のオフィスに戻る途中のサラリーマンがめぐらす超ミクロ的考察―靴紐はなぜ左右同時期に切れるのか、牛乳容器が瓶からカートンに変わったときの感激、ミシン目の発明者への熱狂的賛辞等々。これまで誰も書かなかったとても愉快ですごーく細かい注付き小説。
中二階のオフィスに戻る途中のサラリーマン*5の思考、それが『中二階』に書かれていることだ。たったそれだけのことだけれど、男の思考は靴紐や牛乳瓶容器、ミシン目のことなど数十秒の間にどんどん発散していく。その思考の細かさと注釈の複雑さが本書の魅力だ。
とにかく思考が細かくて、それは日常生活の些細なことにまで及ぶ。靴紐やら、昼休みの始まりはいつなのかという問いや、ポップコーン*6、耳栓などだ。
また一つ一つの考察が細かくて、「洗面所にいる時間が業務中だと、会社はトイレに行く時間にどれだけの給料を払っているのだろうか?」と言ったところまで思考が及ぶ。確かにぼうっとしているときは思考が発散してとりとめのないことを考えているなと思う。やはり、注釈のページ数は本編よりも長い。