日々の栞

本や映画について気ままに書く。理系の元書店員。村上春樹や純文学の考察や感想を書いていく

自分の人生に対する違和感 / 「一人称単数」 村上 春樹

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「一人称単数」とは世界のひとかけらを切り取る「単眼」のことだ。しかしその切り口が増えていけばいくほど、「単眼」はきりなく絡み合った「複眼」となる。そしてそこでは、私はもう私でなくなり、僕はもう僕でなくなっていく。そして、そう、あなたはもうあなたでなくなっていく。そこで何が起こり、何が起こらなかったのか?「一人称単数」の世界にようこそ。

歳を重ねるにつれて自分の人生の可能性の幅は小さくなっていく。子どもの時は医者や音楽家、小説家といろんな人生の可能性を考えることができる。けれど、人生というのはその可能性を一つに絞っていく作業でもある。時には自分で人生を選び、時には自分で人生を選ぶことができない時だってある。ある年齢を境に自分の可能性が絞り込まれていく。

村上春樹はその年齢を「プールサイド」という小説で35歳と描いた。

可能性を絞り切った先、人生の終着点には、世界を一人称で切り取った「一人称単数」の世界があるのだろう。

村上春樹の『一人称単数』に収録されている「一人称単数」という短編では、人生の可能性を絞り込んだ先に待ち受けていた一人称単数の世界が描かれている。

最新刊の短編集『一人称単数』に収録されている他の短編は全て文學界に連載されていたのもだが、この「一人称単数」だけが書き下ろし作品だ。

この短編集全般に言えることだけど、人生を俯瞰して過去の話を思い返すというスタイルの短編が多い。これは村上春樹が年をとったからなのかなとちょっと思っている。フィクションと私小説の間と言える様な感じの短編が多く収録されている印象だ。

『一人称単数』という短編集のタイトルのように、人称は「」や「」が使われている。一人称単数、特に「僕」は村上春樹が得意とする人称だ。数ある人生の可能性の中から、一人称単数として選んできた人生を振り返ると言う意味合いなのではないかと思う。そして「一人称単数」という短編は、この短編集を総括するような内容になっている。

 

「一人称単数」で描かれているのは自分の人生に対する違和感だ。この記事では村上春樹「一人称単数」について考察していこうと思う。

 

 

「一人称単数」で描かれる違和感の正体は? 

主人公の「私」はひょんなことから普段は使わないスーツを着てバーに行った。普段着ないスーツを着たせいか鏡で自分の姿を見た「私」は違和感を覚える。「自分の経歴を粉飾して生きている人が感じうるであろう罪悪感」に似た様な違和感を覚えたのである。もちろん、「私」は法に触れる様な事は何もしていない。

バーで読書に耽るのだが、「私」は見知らぬ女に罵倒される。「三年前に、どこかの水辺であったことを。そこでご自分がどんなひどいことを、おぞましいことをなさったかを。恥を知りなさい」と女に言われ、「私」堪らずは外に出る。もちろん「私」には水辺であったことには心当たりがなかった。「私」が外に出てみると、異世界の様になっていた。街路樹には蛇が絡みつき、歩道には灰が積もっていた。

主人公の「私」は鏡を見るたびに、違和感を覚える。その違和感はこの様に語られている。

 

その背後の壁は大きな鏡になっており、そこに私の姿が映っていた。それをじっと見ていると、当然のことではあるが、鏡の中の私もこちらの私をじっと見返していた。そのとき私はふとこのような感覚に震われた―私はどこかで人生の回路を取り違えてしまったのかもしれない。そしてスーツを着てネクタイを結んだ自分の姿を見つめているうちに、その感覚はますます強いものになっていった。見れば見るほどそれは私自身ではなく、見覚えのないよその誰かのように思えてきた。しかしそこに映っているのは - もしそれが私自身でないとすれば - いったい誰なのだろう? p225

 

流れ着いた人生の果てで、その人生が自分の選び取った人生かどうか分からなくなる。選び取った人生に自信が持てていない様に感じる。そしてこう続く。

 

私のこれまでの人生には - たいていの人の人生がおそらくそうであるようにーいくつかの大事な分岐点があった。右と左、どちらにでも行くことができた。そして私はそのたびに右を選んだり、左を選んだりした(一方を選ぶ明白な理由が存在したときもあるが、そんなものは見当たらなかったことの方がむしろ多かったかもしれない。そしてまた常に私自身がその選択を行ってきたわけでもない。向こうが私を選択することだって何度かあった)。そして私は今ここにいる。ここにこうして、一人称単数の私として実在する。もしひとつでも違う方向を選んでいたら、この私はたぶんここにいなかったはずだ。でかこの鏡に映っているのはいったい誰なのだろう?

 

人生においては日々選択の連続だ。考える暇もなく次々に選択を迫られる時だってある。この主人公が村上春樹と同年齢の団塊の世代とするならば、学生運動に関係する選択もあったはずだ。革命を信じ学生運動にのめり込んだものもいれば、学生運動から離れ普通の会社員として生きる選択をしたものもいるだろう。

普通の会社員として生きることを選択した時、心には学生運動を続けるものへの罪悪感や後ろめたさというものがあったのではないかと思う。これが「違和感」の正体だと思っている。

 

 

水辺で3年前に起こったこととは何か?

 その後、「私」は女になじられるわけだが、女のいう「三年前に、どこかの水辺であったこと」とは何を意味するのだろう。何かのメタファーである事は間違いないと思うのだが、さし示すことが明確には分からない。「どこかの水辺」というのは、人には誰にもあるであろう「後ろめたいこと」を象徴しているのだろう。

 

 

不穏なラストシーン

 最後は「私」が異世界に迷い込むところで終わりを迎える。木には蛇がまとわりついている。「木野」にも出てきたが、蛇は不穏なことの象徴だ。「私」は人生の選択の中で背負った罪悪感のため、象徴的な意味であれ、不穏な世界に迷い込んだのだろう。

 

栞の一行

そして私は今ここにいる。ここにこうして、一人称単数の私として実在する。もしひとつでも違う方向を選んでいたら、この私はたぶんここにいなかったはずだ。でかこの鏡に映っているのはいったい誰なのだろう?