日々の栞

本や映画について気ままに書く。理系の元書店員。村上春樹や純文学の考察や感想を書いていく

女性を失うということ /「女のいない男たち」村上 春樹

女のいない男たち」は村上春樹の短編集『女のいない男たち』に収録された短編小説である。『女のいない男たち』という短編集は、何かしらの理由で女を失ってしまった男たちを描いた、コンセプトアルバムのような作品だ。「女のいない男たち」という短編は、短編集のトリを飾る作品であり、この短編集を象徴する作品となっている。

この短編集に収録されている「ドライブ・マイ・カー」、「イエスタディ」、「独立器官」、「木野」では、様々な形で主人公が「女」を失っている。「シェエラザード」は少し毛色が違うが。

女のいない男たち」でも、「エム(M)」という女の死を伝える電話から小説が始まる。

読んだ人には分かってもらえると思うのだが、この小説はかなり観念的で抽象的だ。「水夫」といったメタファーが散りばめられ、印象的な挿話が小説を彩っている。この抽象的な表現だが、語り手の「僕」が重要な真実を隠すために用いているようにしか思えなかった。その重要な真実とは、僕と「エム」の関係性だ。

このいささか観念的な小説を独自の視点で考察していこうと思う。僕の解釈のアウトラインは、「僕」と「エム」は不倫といった社会的には容認できないタイプの男女の関係があったというものだ。この解釈を基に、「僕」と「エム」の関係性十四歳の挿話の意味水夫のメタファーを紐解いていこうと思う。

 

 

「僕」と「エム」の関係性はどうなのか?

小説は、「僕」がエムという女性の自殺をエムの夫から電話で伝えられるところから始まる。本文中には明確に明かされていないが、「僕」とエムは昔付き合っていたのだ。

また、「僕」と付き合った女性は頻繁に自殺しており、エムで3人目だ。何という高確率。死神でも取り憑いているのだろうか。

なにはともあれ、エムの自殺をきっかけとして、「僕」はエムのことを回想していく。抽象的な文章で、「僕」とエムは14歳の時に出会っているべきだったとも綴っている。

ここで気になるのが、「僕」とエムの関係性だ。また、なぜエムの夫はわざわざ僕にエムの自殺を伝えたのだろうか。

個人的な解釈としては、「僕」と「エム」は不倫といった社会的には容認できないタイプの男女の関係があったと考えている。順に説明していこう。

「僕」と「エム」の関係性だが、本文中には明確には書かれていない。抽象的な文章でぼやかされたり、言葉を濁して書いていないのだ。実際の文章を引用してみよう。

 

エムがどういう女性だったのか、僕らがいつどこで知り合って、どんなことをしたのか、それについて具体的に語ることはできない。申し訳ないのだが、事情を明らかにすると、現実的にいろいろと面倒なことがある。おそらくまわりの(まだ)生きている人々に迷惑が及ぶことになる。だから僕としては、僕はかなり以前に彼女と一時期、とても親密につきあっていたが、あるときわけがあって離ればなれになった、としかここでは書けない。

 

この部分を読むと、「僕」は重要なことをあえて語らずにぼかしている「信頼できない語り手」のように思えてくる。

「事情を明らかにすると、現実的にいろいろと面倒なことがある」という部分を踏まえると、「僕とエムの関係性は健全なものではなかった」という解釈が成り立つのではないか。普通の男女の交際ではなく、浮気や不倫といった社会的に容認できないタイプの恋愛だ。

 

また、僕はエムを失った時にこう表現している。

エムの死を知らされたとき、僕は自分を世界で二番目に孤独な男だと感じることになる。

僕は2番目に孤独で、夫は1番目に孤独だと書かれている。僕は不倫した女を失ったが、夫は女を失っただけではなく不倫されていたから「僕」よりも孤独の度合いが大きい。こういった解釈はできないだろうか。さらに、エムが本当に愛していたのは「僕」だとしたら、夫の孤独は深まるだろう。

「僕」とエムが不倫関係にあったという解釈の根拠は14歳のエピソードも関係する。

 

 

14歳の挿話の意味

「女のいない男たち」では、「僕」とエムが14歳で出会っていた、いや出会うべきだったという挿話がある。二箇所ほど引用してみよう。

 

僕はそれがエムとの最初の出会いだったと感じている。ほんとはそうじゃないのだけれど、そう考えるとものごとの筋がうまく繋がる。僕は十四歳で、彼女も十四歳だった。それが僕らにとっての、真に正しい邂逅の年齢だったのだ。僕らは本当はそのように出会うべきであったのだ。 

 

僕が言いたいのは、とにかくエムは僕が十四歳のときに恋に落ちるべき女性であったということだ。でも僕が実際に彼女と恋に落ちたのはずっとあとのことで、そのときには彼女は残念ながら) もう十四歳ではなかった。僕らは出会いの時期を間違えたのだ。待ち合わせの日にちを間違えるみたいに。時刻と場所は合っている。でも日にちが違う。

 

14歳、それが「僕」とエムの正しい邂逅の年齢だった。これはどういうことだろう?

14歳で出会うべきだったという記述から、「僕」とエムは現実で出会った年齢よりも早く出会うべきだったという主人公の願いのようなものが読み取れる。ここから、僕とエムが出会った時には、「僕」とエムのどちらかがもう既に別の人と結婚していたということが考えられないだろうか。出会うのが遅すぎたために、不倫や浮気といった不適切な関係になってしまったのではないだろうか。出会う時期を間違えたというのは、出会った時には既婚者だったということだったと解釈した。この解釈より、「僕」はエムと不倫関係にあったという考察に繋がった。

また、消しゴムを二人で分けあったというエピソードは、大切なものを二人で分かち合っていた、本当に惹かれあっていたということのメタファーではないかと思う。

 

 

水夫とは何のメタファーか?

最後に水夫について考えてみよう。「女のいない男たち」には水夫という抽象的な存在が登場する。「水夫」が具体的に何を表すかは、明示的に示されていない。この水夫とは何のメタファーなのだろうか?

個人的には、水夫は「女を奪い取ってしまう男」のメタファーだと解釈している。妻や恋人をかっさらって行くような存在だ。なぜ水夫という表現を使ったかには明確に回答できないが。

本文から水夫に関連するところを引用してみよう。

 

 女のいない男たちになるのはとても簡単なことだ。一人の女性を深く愛し、それから彼女がどこかに去ってしまえばいいのだ。ほとんどの場合(ご存じのように)、彼女を連れて行ってしまうのは奸智に長けた水夫たちだ。彼らは言葉巧みに女たちを誘い、マルセイユだか象牙海岸だかに手早く連れ去る。それに対して僕らにはほとんどなすすべはない。

 

水夫たちによって、あるいは女が自ら命を落とすことによって、女のいない男たちは生まれる。

この短編は、女のいない男になることによって感じる孤独がどのようなものなのか、男たちに突きつけているのだ。何かの手違いで、「女のいない男たち」というどこまでも冷ややかな複数形で呼ばれることになるかもしれないのだ。

 

栞の一行

ある日突然、あなたは女のいない男たちになる。その日はほんの僅かな予告もヒントも与えられず、予感も虫の知らせもなく、ノックも咳払いも抜きで、出し抜けにあなたのもとを訪れる。ひとつ角を曲がると、自分が既にそこにあることがあなたにはわかる。でももう後戻りはできない。いったん角を曲がってしまえば、それがあなたにとっての、たったひとつの世界になってしまう。その世界ではあなたは「女のいない男たち」と呼ばれることになる。どこまでも冷ややかな複数形で。

 

 

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