日々の栞

本や映画について気ままに書く。理系の元書店員。村上春樹や純文学の考察や感想を書いていく

新型感染症と組織の不条理 / 『臆病な都市』 砂川 文次

新型コロナウイルスが流行し、注目された小説がいくつかある。カミュの『ペスト』が代表的な小説だ。しかし、『ペスト』以外にも感染症を題材にして、話題になった小説がある。それが砂川文次の『臆病な都市』だ。端的に言って、この小説は傑作だと思う。『臆病な都市』は、新型感染症に対する集団ヒステリーと官僚組織の不条理を描いた小説だ。

『臆病な都市』の中で描かれている新型感染症に対する集団ヒステリーや、大衆の行き過ぎた正義感は、現実世界のコロナ禍でも起こった出来事だ。コロナ禍をモデルにした小説かと思いきや、この小説はコロナ禍が深刻になる前に群像に掲載されている(2020年4月号)。中編小説なので、書かれた時期自体は新型コロナが話題になり始める時期よりも前のことだろう。『臆病な都市』はコロナ禍を予見した小説でもあるのだ。

『臆病な都市』が描いたのは新型感染症に対する大衆のヒステリーだけではない。東京都庁を舞台に組織の不条理を描き、システムを無批判に受け入れることがどんな惨事をもたらすかについて警鐘を鳴らしている。

『臆病な都市』をハンナ・アーレントが指摘した「悪の陳腐さ」と絡めて考察していく。内容に触れるので未読の方は注意。

 

 

存在しない新型感染症「(鳬)けり病」と集団ヒステリー

『臆病な都市』の主人公・Kは首都庁に勤める公務員だ。主人公の名前がKなのは、不条理な状況にに翻弄される繋がりで、カフカの『城』へのオマージュだろうか。序盤では主人公Kの日常を通じて、官僚組織での仕事を淡々とした文体で描いている。何もなければタスクを淡々とこなすKの日常であったが、鳥の不審死から始まった新型感染症の噂によって激動の渦に巻き込まれ、組織の不条理を突きつけられる。

冒頭でも仄めかされているのだが、鳧(けり)という鳥の不審死が世間を騒がせていた。多発する不審死の背後には新型感染症があるのではないかという根拠のない噂が広がる。実際は、けりの不審死と感染症には何の関係もなく、科学的な調査から因果関係あるとは言えないという結論が出ていた。さらには、新型感染症も存在しないという結論だ。首都庁やKは新型感染症は存在しないというスタンスで、問い合わせや政策決定を行なっていた。

 

まったく、なんだってあんな根拠のないものにそうすぐ振り回されてしまうのだろう。それとも本当に、ただ自分のあずかり知らぬところで未知の病気が広まりつつあるのではないか、とも考えてみたが、やはり実感は湧かない。家々から漏れる灯りがそこここに生活が在ることを教えてくれる。言い知れぬ不安が、影のように自分のあとを追ってきている気がした。

 

しかし、大衆の暴走するヒステリーによって事態は思わぬ方向に転がっていく。

存在しない「新型感染症」への大衆の不安はどんどんと膨らんでいき、「新型感染症は存在している」という世論が形成されていく。そして世論はフェイクニュースを「真実」に変容させていくのだ。

新型感染症をめぐるパニックによって、ある自治体で市長のリコールが成立する。新しい市長は、独自の調査を行いけりと新型感染症には関係があるという報告を出したのだ。しかし、この報告は市長の人気取りと様々な利権に絡んだものであり、科学的根拠は薄かった。だが、科学的な妥当性とかは関係なく、民衆のパニックは暴走していく。

様々な思惑が絡み合い、「新型感染症」は存在するという扱いになっていった。実際は存在しないのだが、世論がそうなっている以上仕方がないと言った感じだ。自分の保身のために、首都庁でも「新型感染症」は存在するという程で政策が立案されていく。その場をしのげれば真実はどうでもいいと言ったスタンスで、責任の所在がわからないまま「新型感染症」対策がなされていくのだ。ただ目の前の仕事を無批判でこなしていくことによって、さらなる大惨事を招くのだが…

暴走する民衆という点で、この小説はコロナ禍を予見していたように思う。小説の中に、一般市民が自主的に感染者を取り締まるシーンがあったのだけれど、コロナ禍での自粛警察を彷彿とさせた。暴走した正義感ほど厄介なものはないと思う。本人自身が良かれと思ってやっているから余計にややこしい。

同じ感染症小説としてカミュの『ペスト』と比較すると、カミュの『ペスト』は不条理な状況下で人間はどう戦うかに焦点を当てているように思うが、砂川文次の『臆病な都市』は民衆のパニックや行き過ぎた正義感など人間の負の面に焦点を当てているように思う。

『臆病な都市』が話題になった理由としては、感染症というテーマの小説だからが主な理由ではないかと思う。紹介文でも新型コロナとの関連で説明されていることが多かったように思う。だが、僕はこの小説の魅力は「官僚組織の暴走」や「悪の陳腐さ」を描いた点にあると思っている。次は、『臆病な都市』が扱うテーマの一つである「組織の不条理」について書こうと思う。

 

 

組織の不条理と暴走

一つの組織が利権がらみで新型感染症は存在するという報告をしてから、事態は思わぬ方向に転んでいく。首都庁においても新型感染症が存在する程で、事なかれ主義的に話が進んでいくのだ。Kは新型感染症対策の中心的な人物になり、具体的な対策を立案する。K自身は新型感染症は存在しないと思っているのだが、仕事は仕事と割り切って「新型感染症対策」を行なった。新型感染症なんて存在しないのだから大丈夫だと思っていたのだ。だがシステムの暴走は止まらない。

存在しないのにも関わらず新型感染症の検査が行われ、検査済みを示すワッペンがないと電車にも乗れないようになってしまうのだ。ある時点から取り返しのつかないところまで来てしまい、もはや新型感染症は存在することになっている。さらには、「感染者」や検査を受けていない人を収容する施設も新たに作られた。「収容」という言葉は「入居」という柔らかい言葉に置き換えられて。施設では入居者の「安全化」を行っているのだ。恐らく、「安全化」とは言葉を言い換えただけで、実際には殺しているような書き方がなされている。Kは施設で上の立場となり、かつての上司や同僚のヨシダを「安全化」することに許可を出した。「安全化」されるだけだと自らの心に言い聞かせて。

 

翌月の第一次安全化対象者一覧に、無論先の研究官の名があった。他にもかつての上司たる係長やヨシダの名を見つけたが、彼らは安全化されるだけだ、とKは自分に言い聞かせた。この一覧を承認することが、センターにおける最後の仕事となった。

 

その後、K自身も検査済みのワッペンをつけておらず、施設に収容されてしまう。自分がコントロールしていると思っていたシステムによって殺されかけたのだ。システムを管理していると思い込んでいたKでさえ、コントロールすることができなくなっていた。K自身も「安全化」されそうになっていたが、システムの手続き上に問題があってKは解放される。解放されたKは組織やシステムの問題点について思いをはせた。

仕組みの機能は、形式に適合しているか否かを判別するだけだ。今回はたまたまそれがうまく機能しなかったが、免疫機能は、困ったことに正常に機能していた。

 システムや組織自体は便利なものだが、いつでもコントロール下におけるわけではない。正常に機能していても、思わぬ抜け道からシステムが増槽してしまうことがある。『臆病な都市』は、組織のシステムエラーがどのように起こり、暴走するとどうなるかを「新型感染症」を題材として描いた。

終盤で描かれる「安全化」で思い浮かんだのが、「エルサレムのアイヒマン」で語られた「悪の陳腐さ」についてだ。 

 

 

「エルサレムのアイヒマン」と「悪の陳腐さ」  

エルサレムのアイヒマン』とは、ハンナ・アーレントがナチスドイツでユダヤ人虐殺を主導したアイヒマンの裁判を傍聴し、考察した内容について記載した本だ。アイヒマンとは、ナチスドイツにおいてユダヤ人を「処理」する効率的なシステムを構築した人物である。ユダヤ人虐殺というと、アイヒマンは非常に冷酷で残忍な人間であるように思える。しかし、実際はアイヒマンは「普通の人」であった。

ではなぜ普通の人物であるアイヒマンは、大虐殺という大犯罪を犯してしまったのだろうか。ハンナ・アーレントは「悪の陳腐さ」というキーワードで原因を指摘している。アイヒマンは、システムを無批判に受け入れてしまったがために、「悪」を犯したのだ。

 

「悪とは、システムを無批判に受け入れることである」

 

ハンナ・アーレントは、「悪」という言葉に「陳腐さ」という言葉を組み合わせ、システムを無批判に受け入れてしまうと自らも犯罪を犯すことになってもおかしくはないと指摘している。「悪」とは常軌から逸した人が犯すものではなく、システムを批判的に受け入れなければ誰でも「悪」をなしてしまうということだ。

 

『臆病な都市』では、Kが同僚や上司の「安全化」にGoサインを出してしまっていて、K自身はそのことに対して罪悪感は感じていない。Kが無批判にシステム上の作業を受け入れてしまったがために、アイヒマンと同じようなことをしてしまっている。

システムや組織というのものはなくてはならない存在だが、無批判で受け入れてしまっては「悪」となってしまう。事なかれ主義に流されるのではなく、システムを批判的に捉えること、これが「悪」に抗うために重要であることだ。