日々の栞

本や映画について気ままに書く。理系の元書店員。村上春樹や純文学の考察や感想を書いていく

謎解き『風の歌を聴け』 / タイトルの『風の歌を聴け』ってどういう意味?

 

村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』。短い小説でありながらも、文体が完成されていて、様々な謎が散りばめられている。単純に読めば、ほろ苦い夏の出来事を描いた小説であるように思えるが、この小説は巧妙に重要な出来事を隠している。パズルのように1つ1つのピースを丹念につないでいけば、隠されたストーリーが浮かび上がるというものだ。今回は『風の歌を聴け』と言うタイトルの意味について解釈をしていこうと思う。

 

 

 

元々のタイトルは『Happy Birthday and White Christmas』 だった

風の歌を聴け』のタイトルだが、もともとはHappy Birthday and White Christmasだったことが知られている。その名残として『風の歌の聴け』の表紙の絵の上部に「Happy Birthday and White Christmas」と書いてある。

風の歌を聴け』は1970年8月8日から8月26日の夏の話なのになぜクリスマスと思うだろう。その根拠はテクストに書かれている。主人公「僕」の誕生日が12月24日なのもあるが、鼠の小説に関係がある。

鼠はまだ小説を書き続けている。彼はその幾つかのコピーを毎年クリスマスに送ってくれる。昨年は精神病院の食堂に勤めるコックの話で、一昨年のは「カラマーゾフの兄弟」を下敷きにしたコミック・バンドの話だった。あい変わらず彼の小説にはセックス・シーンはなく、登場人物は誰一人死なない。原稿用紙の一枚めにはいつも、
「ハッピー・バースデイ、そして ホワイト・クリスマス。」
と書かれている。僕の誕生日が12月24日だからだ。 (本文)

鼠の書いた小説の一枚目に必ず書かれている言葉が、「ハッピー・バースデイ、そして ホワイト・クリスマス。」だからだ。

だがそれ以外にも理由があるのではないだろうか。それ以外の理由というのは、この小説内での2つの重要な出来事から読者の注意をそらすためというものだ。

この『風の歌を聴け』には、隠された2つのストーリーがある。それは「僕が彼女(直子)を自殺で失う話」と「小指のない女の子が鼠の子どもを身ごもり堕胎する話」だ。「僕」が彼女(直子)を失ったのは1970年の春のことで、『風の歌を聴け』の時間軸でいえば半年ぐらい前の話だ。この「僕が彼女を自殺で失う話」は、語る時期をずらすことで「僕」は注意を逸らしているように思える。「鼠が小指のない女の子を失う話」はもっと巧妙に隠されていて、テクストの細部を丹念に追っていかないとたどり着くことができない。この「鼠が小指のない女の子を失う話」は斎藤美奈子や平野芳信が指摘し、『風の歌を聴け』の基本骨格の読解として定着した感がある。

このように語り手の「僕」は、語るべき内容を巧妙に隠し、重要な出来事から読者の注意をそらしていた。一種の信頼できない語り手だろうか。重要な出来事から注意をそらし、巧妙に隠すための手段として、舞台の時期とは異なるクリスマスをタイトルに入れたのではないかと考えている。「僕」の彼女が自殺したのは1970年の春、小指のない女の子が「鼠」の子どもを堕ろし別れたのが1970年の8月のことだ。

 

 

風の歌を聴け』はカポーティの短編「最後のドアを閉じろ」に由来している?

夜の樹 (新潮文庫)

夜の樹 (新潮文庫)

 

 『風の歌を聴け』と言うタイトルは、トルーマン・カポーティの短編「最後のドアを閉じろ」(“Shut a Final Door”)の一節にインスパイアされたと村上春樹本人が語っている。「最後のドアを閉じろ」の最後の一節が「Think of nothing things, think of wind」であり、そこからタイトルが取られたのではないかと言われている。「最後のドアを閉じろ」は『夜の樹』に収録されている。

トルーマン・カポーティの短編小説『最後のドアを閉じろ』の最後の一行、この文章に昔からなぜか強く心を惹かれた。Think of nothing things, think of wind,僕の最初の小説『風の歌を聴け』も,この文章を念頭にタイトルをつけた。nothing things という言語感覚 がすごくいいですね。

(『サラダ好きのライオン』より)

 

 

 『風の歌を聴け』の本文からタイトルの意味を考える

確かに、『風の歌を聴け』のタイトルはカポーティの小説からインスパイアされたものではないかと思える。だが、このタイトルの小説における意味は何だろう?その答えを『風の歌を聴け』の本文中に求めたい。『風の歌を聴け』においてタイトルに関係がありそうなことを言及している箇所が1つある。それはテレク・ハートフィールド(架空の作家)の著作「火星の井戸」の一節だ。

 

風が彼に向ってそう囁いた。

「私のことは気にしなくていい。ただの風さ。もし君がそう呼びたければ火星人と呼んでもいい。悪い響きじゃないよ。もっとも、言葉なんて私には意味はないがね。」

「でも、しゃべってる。」

「私が?しゃべってるのは君さ。私は君の心にヒントを与えているだけだよ。」「太陽はどうしたんだ、一体?」

「年老いたんだ。死にかけてる。私にも君にもどうしようもないさ。」

「何故急に…?」

「急にじゃないよ。君が井戸を抜ける間に約5億年という歳月が流れた。君たちの謎にあるように、光陰矢の如しさ。君の抜けてきた井戸は時の歪みに沿って掘られているんだ。つまり我々は時の間を彷徨っているわけさ。宇宙の創生から死までをね。だから我々には生もなければ死もない。風だ。」 (P127)

 

風が「彼」にヒントを与えている場面だ。風は「彼」に、時の間を彷徨っていることを伝えている。これは『風の歌を聴け』で引用されている「火星の井戸」の一場面だが、『風の歌を聴け』にも「時の歪み」がある。

風の歌を聴け』は、1970年8月8日から8月26日までの話だが、小説内の出来事を丹念に追っていくと日数が足りないのだ。このテクストには「〇〇年」や「〇〇日」とか「翌日」など、時系列のパズルの組み立てに必要なキーワードが散りばめられている。それを元に計算してみると日数が合わないのだ。これを作者である村上春樹のミスとすることもできるが、テクストを根拠にした読み方ではこのミスにも何か意味があるのではないかと考える。

この『風の歌を聴け』という小説は、「僕」が8年間という時間を経て過去を振り返り記述したものだ。「彼女の死」や「小指のない女の子の堕胎」という出来事を語ろうとする試みの中で、「僕」は動揺して「時の歪み」の中に紛れ込み、語りの時系列に矛盾が生じてしまったのではないか。この『風の歌を聴け』の構造での、「時間の歪み」を示唆しているのがこのタイトルの意味ではないかと僕は考えている。