日々の栞

本や映画について気ままに書く。理系の元書店員。村上春樹や純文学の考察や感想を書いていく

システムと魂 / 「壁と卵」-エルサレム賞・受賞のあいさつ- 村上 春樹

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もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。

この文章は、村上春樹エルサレム賞の受賞スピーチの中の一文だ。村上春樹のスピーチの中でも一番有名なものかもしれない。村上春樹の小説そのものも、この文章に象徴されているような気がする。この象徴的で示唆的な一文だが、解釈するには当時の文脈を考慮する必要がある。まず村上春樹エルサレム賞を受賞した時の背景を説明しよう。

 

2009年に村上春樹エルサレム賞を受賞した。エルサレム賞というのは、原則として作家に授与されるイスラエルの賞で、人間の自由、社会、政治、政府というテーマを扱った著作を書いている作家が授賞対象となるらしい。エルサレム賞受賞作家としては、ミラン・クンデラドン・デリーロなどが挙げられる。イスラエルは中東諸国と揉めていることもあり、過去にはイスラエルの政策に反発し訪れなかった者もいるようだ。

村上春樹が受賞した当時も、イスラエルによるガザ侵攻が国際的に非難されていて、この受賞についても辞退を求める声が上がっていた。村上春樹も断った方が楽だったと記しているが、自分の言葉でメッセージを発信することを選んだのであった。村上春樹は受賞スピーチの時の様子として、ビデオで『真昼の決闘』を繰り返し見て意を決して空港に向かったと雑文集に記している。

 

そして本番では『壁と卵』という示唆的なスピーチを行った。このエルサレム賞・受賞スピーチの全文は『村上春樹 雑文集』に収録されているので、ぜひ読んでみてほしい。当時のガザ騒乱の文脈で読み解くと、「壁」というのは軍事力を行使したイスラエルのメタファーで、「卵」とは被害にあった非武装の市民のメタファーであると読み解くことが出来るかもしれない。実際に村上春樹はこの後に、ある場合には「壁」は爆撃機やロケット弾を意味するし、「卵」は非武装市民であるという意味で取れるとも述べている。

 

しかし、この解釈はメタファーの一面しか捉えていないと村上春樹は語る。「壁」は本来我々を守るべきはずのシステムであり、「卵」は脆い我々の魂と捉えることも出来るのだ。村上春樹は、「壁」ではなく「卵」側に立ち、システムによって個人の魂が絡みとられることがないように物語を書いているのだ。「壁」に立ち向かう「卵」というのは、実存的な構図だ。村上春樹はこの構図を作品の中で描き続けてきた。『ねじまき鳥クロニクル』では国家というシステムが引き起こした戦争の中で、大きな物語に翻弄される個人が描かれているし、『1Q84』ではカルト宗教というシステムが描かれ、『騎士団長殺し』ではナチスのエピソードが挿入されファシズムというシステムが断片的に描かれている。そして、村上春樹は作品の中で「卵」側に寄り添ってきた。

 

父とのエピソード

この「壁と卵」の話の中で、唐突に村上春樹の父親のエピソードが挿入される。村上春樹が自らの父について話すことはかなり珍しい。最近では「猫を捨てる」で語られていたりはするが、村上春樹が自らの父親のことを話すことは珍しい。国家という「システム」によって引き起こされた戦争によって翻弄された村上春樹の父。ここにも「壁」と「卵」の関係がある。

 

壁と卵から『1Q84』へ

1Q84 BOOK1〈4月‐6月〉前編 (新潮文庫)

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 エルサレム賞を受賞した後、村上春樹は『1Q84』を発表した。この小説を執筆した動機として、オウム事件の裁判を傍聴する中で「ごく普通の、犯罪者性人格でもない人間がいろんな流れのままに重い罪を犯し、気がついたときにはいつ命が奪われるかわからない死刑囚になっていた—そんな月の裏側に一人残されていたような恐怖」について考えたことを挙げている。カルト宗教というシステム、つまり「壁」により、普通の人間の人生が台無しになる怖さ。人間は「卵」のように脆い存在なのだ。壁と卵のスピーチで想起したのは、オウム真理教事件のことだ。宗教という人を救うはずのシステムが人を追い込む「壁」に変わってしまう。このようなことは世界中にたくさんある。国家間による戦争や、カルト宗教、共産主義ファシズム。これらはジェノサイドを生み出してきた。人間が生み出したはずのシステムに人間が利用されるようになってしまうのは何故だろう。

 

 

Black Lives Matterが盛り上がる中で、村上春樹のこのスピーチを思い出した。今こそ、巨大な壁に立ち向かう時なのかもしれない。

村上春樹 雑文集 (新潮文庫)

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  • 作者:村上 春樹
  • 発売日: 2015/10/28
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栞の一行

もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。