日々の栞

本や映画について気ままに書く。理系の元書店員。村上春樹や純文学の考察や感想を書いていく

ともにW受賞!第168回芥川賞・直木賞の受賞作が決定!

第168回芥川賞・直木賞の受賞作が1/19に決定した。

芥川賞は井戸川射子の「この世の喜びよ」(群像7月号)と佐藤厚志の「荒地の家族」(新潮12月号)のW受賞に決まった。

直木賞は小川哲の「地図と拳」と千早茜の「しろがねの葉」に決まった。こちらもW受賞だ。

各受賞作の詳細について紹介したい。

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売れない劇作家の不器用な恋 / 『劇場』 又吉 直樹

売れない劇作家の青春と焦燥と挫折

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高校卒業後、大阪から上京し劇団を旗揚げした永田と、大学生の沙希。それぞれ夢を抱いてやってきた東京で出会った。公演は酷評の嵐で劇団員にも見放され、ままならない日々を送る永田にとって、自分の才能を一心に信じてくれる、沙希の笑顔だけが救いだった──。理想と現実の狭間でもがきながら、かけがえのない誰かを思う、不器用な恋の物語。芥川賞『火花』より先に着手した著者の小説的原点。

 歴代の芥川賞受賞作の中でも、『火花』は一番話題性があったと思う。その当時僕は書店で働いていて、又吉フィーバーを実感していた。売れないことで有名な文芸誌でさえ、「火花」が載った文學界の在庫は無くなっていた。芥川賞を受賞した直後、書店から『火花』の在庫は消え、どこも品切れ状態だったのが印象に残っている。書店でバイトしていた中で、ここまで一つの本で社会現象になることはあまりない。村上春樹ぐらいだろうか。

お笑い芸人が書いたとあって、『火花』の芥川賞受賞は出来レースじゃないかと言っている人も周りにいたが、そんなことはないと思う。『火花』はまぎれもない傑作だ。夢を追いかける芸人の野心と挫折、自意識が生々しく描かれていた。最近、芸能人が小説を書くということが増えているが、又吉直樹は別格だ。

そんな又吉直樹の第二作を心待ちにしていた。心待ちにしていたが、文庫化されるまでは読まなかった。どっちやねん。

デビュー作よりも二作目の方が真価を問われるというが、『劇場』は、又吉直樹の実力を証明したんじゃないかなと思う。

 『火花』で描かれていたのは、芸人として成功することを夢見た若者の青春とその挫折だ。一方、『劇場』で描かれているのは、売れない劇作家の恋愛と青春とその挫折だ。『劇場』は、「芸術や表現に人生をかけた若者の青春とその挫折」がテーマになっている。第1作目の『火花』も同様の主題となっていて、『劇場』はそのテーマの変奏と言える。又吉直樹は夢を追いかける若者の自意識と焦燥感を生々しく描くのが上手い。自分には特別な才能があるんだと思い込んでいる夢追い人の自意識のこじれや、圧倒的な才能に出会って自分が特別な存在でないことを知ってしまうことの恐れなど、心理描写を残酷までに描写しきってい、引き込まれてしまう。作中で繰り広げられる作品論も鋭くて、なるほどと思わされる。

 主人公は売れない劇作家の永田だ。永田は、大阪から上京し劇団を旗揚げしたが、思うように評価されずくすぶっている。そして、もう一人の主人公が大学生の沙希だ。沙希は演劇への夢を抱いて東京にやってきた。『劇場』は永田の演劇への情熱を描いた物語であると同時に、不器用な男の恋の話でもある。

 

 

永田と沙希

 永田はかなりクセが強い。その上にクズだ。これは読む人にとってかなり好き嫌いが分かれそうに思う。永田が沙希と出会うシーンがあるのだが、これがかなり独特だ。画廊で永田と沙希は出会うのだが、永田はこんな風に話しかける。

「靴、同じやな」

その人は僕の汚れたコンバースのオールスターを見た。

そして、「違いますよ」と言った。

「同じやで」

同じであって欲しかった。

これはかなり怪しい人だ。違う靴なのに同じ靴だと言い張るのだから。しかし、沙希はいかにも怪しい永田を避けることはなく、永田と一緒にカフェに行った 。そこから二人の交際が始まる。優しい沙希は永田の才能を一心に信じていた。永田が書いた劇の主演として沙希が出演することになり、その劇はまずまずの成功を収めた。

 永田はお金がないので、沙希の家に転がり込むのだが、家賃は一銭も払わないし、お金があれば服や小説など自分のために使ってしまう。真剣に演劇に向き合うと思いきや、昼まで寝ていたりテレビゲームをしていたりする。正真正銘のクズだ。それでも沙希は永田を支え、劇作家としての才能を信じていた。

 永田と沙希の関係性はどんどん変化していく。ヒモ同然の永田は、夜通し働き自分を支えてくれる沙希に負い目を感じるようになる。二人の関係の核心に迫るような会話を避けて、ふざけて取り繕うとする。

 そんな永田に転機が訪れる。『まだ死んでないよ』という劇団に出会い、永田は自分の才能について考えさせられる。『まだ死んでないよ』を率いる小峰の才能に圧倒された永田は、気づいていたけれど気づかないふりをしていた自分の才能について考えさせられる。この自分が特別な存在でないことを知ってしまうことの辛さが、すごく生々しく描かれている。

 沙希は永田との関係に疲れ、ついには体調を壊してしまう。沙希は東京を去ることを決意する。

 

 

技巧的なエンディング

 沙希が東京の荷物を引き上げる時、永田と沙希はかつて二人が演じた演劇の脚本を見つけ、読み合わせを行う。読み合わせの中で、永田は脚本に書かれていないセリフで自分の心情を吐露する。この二人がその後どうなったのかは書き込まれていない。読者に結末を委ねるオープンエンディングというやつだ。ただオープンエンディングのように思えても、この二人には別れる結末しか用意されていないように思える。オープンエンディングのように思えるが、開かれてはいないエンディング。このエンディングの感じは川端康成の『雪国』を彷彿とさせる。綺麗なエンディングに素直に感動してしまった。

 

恋愛の終わりと挫折

 何者かになろうとして、自分が特別な存在でないことに気づく過程は残酷だ。そんな挫折の物語を、成功した又吉が書くということで自意識の歪みの均衡が取れているような気がする。この『劇場』は映画化されるようだ。果たしてどのような作品に仕上がるのだろう。

 

 

 

栞の一行

一番会いたい人に会いに行く。こんな当たり前のことが、なんでできへんかったんやろうな。         p231~232

感傷家であると同時に小説家 / 『女について』 佐藤正午

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彼女はぼくと同じ18歳だった。初めての女性だった。好きかと尋ねられて頷いた―家族以外の女性についた初めての嘘。嘘を重ねるために他の女性を拾い、途切れ途切れに続いた彼女との関係も、ぼくが街を出ることで終止符が打たれた―。そして長い時を経て、ぼくは再び彼女と出逢った。(「糸切歯」)青春のやるせなさ、ほろ苦さを瑞々しい感性で描く秀作集。

面白さと一般的な知名度が相関していない作家といえば佐藤正午だと思う。実際、かなりの小説好きなら佐藤正午の作品の素晴らしさを知っている人が多いが、ライトな小説読者層には知名度がないように思う。

佐藤正午はジャンプから読み始めたのだけれど、すぐに佐藤正午の魅力に取り憑かれてしまった。なんだこれ!凄く面白いじゃないか!どうして誰も教えてくれないんだ!と『Y』・『スペインの雨』・『取り扱い注意』と次々に読み耽っていった。佐藤正午の小説は読んでいてすごく楽しく。ストーリーも面白いのだが、小説の構成も凝っていて、文章そのものが面白くて魅力的だ。佐藤正午の小説を読んでいると、文章そのものを味わう悦楽に浸れる。長編小説は構成が凝っていて、ストーリーも一捻りしてある。長編に劣らず短編小説も素晴らしい。

 

この『女について』は、タイトル通り「女について」の短編集だ。佐藤正午の作品の魅力の一つである会話の洒脱さが満ち溢れている。とにかく会話文にユーモアがきいていて凄く面白い。特に「卵酒の作り方」の最後の一文「もしおまえの女主人公が風邪を引いたら、そのときはおれに電話をかければいい」という一文が秀逸だ。他にも沢山紹介したい文章があるけれど、そんなことをすればこのブログすべてが佐藤正午の会話文になってしまいそうなので割愛する。

そして、主人公のダメ男感も魅力の一つだ。過去の淡い恋愛を引きずるところや感傷的なところに凄く共感する。私小説に近いテイストで、読んでいるとフランソワ・トリュフォーの映画を思い出す。トリュフォーも私小説テイストの映画だったなと。そういえば、佐藤正午の代表作の一つである『Y』ではフランソワ・トリュフォーがモチーフとして使われていたな。

 

佐藤正午ファンにはお馴染みの洋服屋に勤める「友人」も出てくる。「ラムコークを飲む女について」「ソフトクリームを舐める女について」「イヤリング」「卵酒の作り方」と4作品に出演している。とにかく主人公と友人のユーモアと皮肉に満ちた掛け合いが読んでいて面白い。いつまでも読んでいたいと思えるぐらいに面白い。

 

この短編集の中でも印象に残っているのは「糸切歯」と「イヤリング」だ。どちらも過去の淡い恋愛を引きずる感傷的な恋愛小説だ。男は恋愛を名前を付けて保存するというけれど、そんな未練たらしい男が主人公になっている。持っていて恥ずかしい未練を小説に変えてしまうのが佐藤正午だ。僕は自分の感傷と折り合いをつけるために、佐藤正午の小説を読んでいるのかもしれない。

 

栞の一行

そういうわけでぼくは感傷家であると同時に小説家である。                  

 

 

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私小説とフィクションの間 / 『夏の情婦』 佐藤 正午

佐藤正午初期の短編集

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佐藤正午が好きな作家の一人だ。

ふとしたことで佐藤正午のジャンプを読み始めて、すっかりはまってしまった。もともと村上春樹や大崎善生のような感傷的な小説が好きだったので、佐藤正午はピンポイントではまってしまった。

好きなところは色々ある。過去の淡い恋愛を感傷的に描いたところや、私小説とフィクションの間のようなところ、洒脱な会話、練られた構成などなど。長編小説では時系列がシャッフルしていたりと構成が凝っている。一方で短編小説では私小説とフィクションの間ともいえるような身近な恋愛話が綴られることが多い。佐藤正午の短編を読むたびに思うことは、私小説として読めそうなフィクション。佐藤正午の短編小説は私小説とフィクションの間の絶妙な距離を保っているように思う。

『夏の情婦』という佐藤正午の本は5つの短編小説を収めた短編集だ。

 

「二十歳」は「ぼくはネクタイを結べない男である。」という一文から始まる。この一文からどんな話を展開させていくのだろうという期待に引っ張られてぐいぐい読んでしまう。主人公の大学生時代の恋愛の思い出が綴られている。学生時代という、もう決して手の届かない場所に手を伸ばすような短編だ。

次に「夏の情婦」。これが一番好きかもしれない。塾講師を勤める男と女の脆い関係性を描いた秀作だ。男を真剣に愛する女と、女を性欲のはけ口としてしか見れない男の一夏の関係が描かれている。体だけを求める男と、真剣に愛している女の関係性は恋愛感情でつながれた彼氏彼女の関係性ではなく、ただの情婦と客の関係性だ。男の女に対するだらしなさというか、ダメさ加減というか冷たさに何故か共感してしまう。自分もただのダメ男なのかもしれない。「片恋」では高校時代の片思いをノスタルジックに描いている。

「傘を探す」も「夏の情婦」と並ぶぐらい好きだ。置き忘れた傘を探して主人公が夜のさまよう。傘を探すストリーと並行して、悦子との関係性をめぐる話も展開される。傘を探すことで、悦子との関係に向き合うことから逃げるが、思わぬところで二つの話が重なる。「恋人」では色んな女性たちを渡り歩いてきた男が偶然出会った女との意外な顛末が描かれている。

 

ダメ男を描いた文豪と言えば太宰治がいる。太宰治の小説に出てくる主人公たちも女にだらしない。「傘を探す」を読んでいると『桜桃』という小説のある台詞を思い出した。「子供より親が大事、と思いたい」。「傘を探す」という短編の中で主人公はこう言っている。「子供なんていてもいなくても男と女には関係ないんだからな」。

 

佐藤正午の短編に出てくる男たちは女にだらしないダメ男だ。だけれども、弱い部分をさらけ出しているからか、何故か憎めない。僕が佐藤正午の小説にはまった理由はそこにあるのかもしれない。

 

 

 

栞の一行

子供なんていてもいなくても男と女には関係ないんだからな。

 p209

 

 

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佐藤正午のデビュー作 / 『永遠の1/2』 佐藤 正午

佐藤正午のデビュー作

 どんな小説家にも、一つだけ、アマチュアとして書いた小説があると佐藤正午はいう。その小説が人目に触れ、本になるとデビュー作と呼ばれ、書いた人は小説家と呼ばれるようになる。佐藤正午がアマチュアとして書いたのがデビュー作『永遠の1/2』だ。佐藤正午は『永遠の1/2』で第七回すばる文学賞を受賞し、プロの小説家となった。そして、『ジャンプ』や『Y』、『鳩の撃退法』などの名作を生み出し、『月の満ち欠け』で直木賞を受賞するに至った。長崎から出ることなく、小説を書き続けている。(直木賞の授賞式にも来なかった)僕は大学生になってから佐藤正午にはまり、著作を読みふけった。軽妙でユーモアあふれる文体、洒脱な会話文、ダメ男の恋愛模様、一捻りされた構成、どれをとっても面白かったし、中毒性があった。佐藤正午の原点である『永遠の1/2』にもこの面白さがあった。

 

 

自分に似ている人を探すという自分探しの物語

 

『永遠の1/2』は自分にそっくりな人が西海市にいることが分かり、その人物を探す物語だ。自分に似ている人を探すことを通じた自分探しの物語の趣がある。

 

失業した田村は、失業したとたん運に恵まれる。婚約相手との関係を年末のたった二時間で清算できたし、趣味の競輪は負け知らずで懐の心配もない。おまけに、色白で脚の長い女をモノにしたのだから、ついてるとしか言いようがない。二十七歳の年が明け、田村宏の生活はツキを頼りに何もかもうまくいくかに思われた。ところがその頃から街でたびたび人違いに遭い、厄介な男にからまれ、ついには不可解な事件に巻き込まれてしまう。自分と瓜二つの男がこの街にいる―。現代作家の中でも群を抜く小説の名手、佐藤正午の不朽のデビュー作。

 

ウディ・アレン監督の映画のように、会話の冗談を楽しむところがある。

 

 

自分に似ている人を探すという自分探しの物語

 『永遠の1/2』を読んでいると、佐藤正午の小説は「自分探しの物語」が多いことにあらためて気づかされる。『永遠の1/2』『ジャンプ』は失踪したガールフレンドを探す物語になっている。『個人教授』も妊娠したガールフレンドを探す物語だし、『夏の情婦』に収録されている「傘を探す」も亡くした傘を探す物語だ。

 

 

 

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スペインの雨はどこに降る?/ 『スペインの雨』 佐藤 正午

『月の満ち欠け』で直木賞を受賞し注目を集める佐藤正午の短編集

 

知る人ぞ知る作家・佐藤正午が直木賞受賞で注目を集めている。直木賞の授賞式は欠席したらしいが。『スペインの雨』はそんな佐藤正午の短編集だ。佐藤正午本人を思わせるような小説家を主人公に据えた短編が収録されている(「ジョン・レノンが撃たれた日」、「恋」、「木にのぼる猫」、「コンドーム騒動」、「ほくろ」、「ルームメイト」)。私小説のようなテイストの短編が多く収録されている。その他には「いつもの朝に」、「クラスメイト」、テレクラを通じての人妻との出会いと別れを「スペインの雨」が収録されている。感傷的な雰囲気が漂う短編集。

 

小説が生まれる舞台裏

「木にのぼる猫」、「コンドーム騒動」、「ほくろ」では主人公が友人からネタとなる奇妙な話を仕入れたり、巻き込まれながらも、それを小説に仕立てている様子が描かれている。この短編を読んでいると、小説が生まれる舞台裏を覗き込んだような気分になる。まるで映画製作の過程そのものを映画にした、フランソワ・トリュフォーの『アメリカの夜』ようだ。小説のそのもののストーリーに加え、小説が生まれる背景が描かれていて味わい深くなっている。個々のエピソードもありきたりの話じゃなくて面白い。特に「コンドーム騒動」での主人公が女の店員からコンドームを買うのに怖気ついて、必要でもない風邪薬を一緒に買ってしまうのには深く同意してしまう。分かる分かるあの気まずさ。

 

スペインの雨

この短編集で一番好きなのはやっぱり「スペインの雨」。「スペインの雨はどこに降る?」「平野に。おもに平野に。」のセンスにしびれる。テレクラでの人妻との会話もそれぞれ面白い。スマートフォンが普及し、出会い系のアプリが普及している現在ではテレクラというのがアナログ的でノスタルジックに感じられる。今となってはテレクラというものが信じられないというか、そんなものもあったんだなってなる。人妻との出会いと別れが、村上春樹を彷彿とさせる文体で感傷的に綴られた名作。この感傷さを味わいたくなる時がふと訪れて何度も読み返してしまう。

 

 

 

 

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佐藤正午の隠れた名作 / 『取り扱い注意』 佐藤 正午

佐藤正午の隠れた名作

 

佐藤正午自身余り知名度がないのだけど、その佐藤正午の小説の中でも取り扱い注意は知名度が低い。この小説はとにかく変則的だ。時系列はバラバラになっているし、出てくる登場人物も普通からは縁遠い人たちだ。会話がとにかく秀逸なのである。

 

 

 

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