日々の栞

本、映画、ファッションについて気ままに書く。理系の元書店員。

愛についてのドタバタ喜劇 / 『湖畔の愛』 町田 康

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今日も一面霧が立ちこめて。ときに龍神が天翔るという伝説がある九界湖の畔で、むっさいい感じで営業している九界湖ホテル。支配人新町、フロント美女あっちゃん、怪しい関西弁の雑用係スカ爺が凄絶なゆるさで客を出迎える。真心を込めて。そこへ稀代の雨女や超美人の女子大生、ついには鳥取砂丘に消えたはずの伝説の芸人横山ルンバも現れて――。文学なのか、喜劇(コント)なのか。笑劇の超恋愛小説。

町田康の『湖畔の愛』の感想を一言で言うと、めっさおもろい小説だ。タイトルが『湖畔の愛』なのだから、湖のほとりにあるいい感じの別荘でいい感じの男女が優雅な恋愛を楽しむみたいな想像が膨らむが、実際はクセが強いホテルマンやスタッフとこれまたクセのすごい客が繰り広げるコントだ。こんなに笑いながら小説を読んだのは久しぶりだ。

舞台はむっさいい感じで営業している九界湖ホテル。客足が遠のいており、資金繰りが悪化している崖っぷちのホテルだ。そんな九界湖ホテルの従業員として働いているのが、支配人新町と結構美人なフロント担当あっちゃん、関西弁がキツい雑用係スカ爺。新町はいろいろあって支配人じゃなくなったりする。話の流れとしては、クセの強いホテルスタッフと、これまたクセの強い顧客が一騒ぎ起こすと言うのが大体のあらすじだ。全体的にドタバタ喜劇ではあるが、物語の中心にあるのは愛だ。めちゃくちゃ良いように言えば、「雨女」では、雨女という過酷な十字架を背負った女性を救おうとする男の話であるし、「湖畔の愛」は超美人の女子大生をめぐる男子大学生の競い合いである。

感動的なことが書いてある気がするが素直に感動せずに笑ってしまうのは、ユーモアがふんだんに散りばめられた文体のせいだろう。リズム感があってスイスイ読めて、絶妙なセンスで配置された言葉が笑いを誘う。

 

 

吉本新喜劇みたいな小説

この小説は何かに似ているなと引っかかっていたが、考えてみると吉本新喜劇に似ている。一応ちゃんとしたストーリーはあるけれど、それぞれのキャラがボケ倒して笑いが絶えない喜劇。キャラが濃いスカ爺は、よしもと新喜劇で言うと茂造だろう。愛についての文学的コントを読んだような読後感。

最後の中編「湖畔の愛」では、演劇研究会という名のお笑い同好会で繰り広げられる女をめぐる戦いだ。それぞれ登場人物の「笑い」に対する思いについて語られるところを見ると感心するが、伝説の芸人横山ルンバが下心の塊なのを読むとさっきの感心を返せと思いたくなる。

登場人物たちが間違った方向にエネルギーを使っているのが、単純におもろい。本を読んで笑いたいという人にオススメしたいよしもと新喜劇みたいな小説だ。

 

湖畔の愛(新潮文庫)

湖畔の愛(新潮文庫)

 

 

孤独な少女たちの魂の邂逅 / 『至高聖所』 松村 栄子

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新構想大学という無機質な世界で出会った孤独な少女たちの魂の邂逅を描いたのが、松村栄子の『至高聖所』だ。『至高聖所』は、センター国語でも話題になった『僕はかぐや姫』の作者・松村栄子の小説で、第106回芥川賞受賞作である。この小説でも研ぎ澄まされた文体は健在で、繊細で静謐な世界観は心に突き刺さるだろう。

『至高聖所』は、新構想大学に入学した沙月とルームメイトの真穂の魂の邂逅を描いている。タイトルの「至高聖所」はアバトーンと読む。 至高聖所(アバトーン)とは、ギリシアアスクレピオス神殿の最奥にあるという夢治療の場のことだ。このアバトーンをモチーフに主人公の友人・真穂が戯曲を作るのだ。アバトーンは治療の為の場所だが、沙月と真穂にはそれぞれ癒やさなければならない心の傷があった。初めの頃は相容れない二人だったが、打ち解けていき互いの心の傷や抱え込んでいる悩みを分かち合っていく。沙月の孤独が、真穂の孤独へ寄り添っていくのだ。

 

 

沙月と真穂の魂の邂逅

沙月は親元を離れて新構想大学に入学する。大学の寮ではルームメイトの二人暮らしなのだが、沙月のルームメイトの真穂は一向に姿を現さない。真穂は現れたと思ったら一日中寝ているという有様だ。かと思ったら深夜に起きて、沙月にご飯を作らせたりする。

そんなこともあって、沙月と真穂の心の距離は離れたままだった。沙月は鉱物研究会に所属し、真穂は演劇をしたりボランティアをしたりと大忙しで生活リズムが合わない。だが二人はともに孤独を抱えていて、癒すべき傷を持っていた。その傷は二人とも家族に関するものだ。

沙月には、心から慕っている姉がいる。沙月の家族は姉を中心に回っていたが、ある日姉は家を出て行ってしまう。姉に見捨てられたような経験が、沙月の心に暗い影を落としているのだ。

一方の真穂は、実の父を亡くしていて、母も大学入学直前に亡くしていた。真穂に残されたのは、母の再婚相手である義父だった。真穂は残された義父のために、理想の娘を週末に演じていた。

沙月は真穂と過ごす中で、真穂が抱える心の痛みに気づく。そして癒しを求めて失敗したことも。

沙月が、至高聖所(アバトーン)に見立てた大学の図書館で、愛していた姉に突き放された傷を癒そうとするところで小説の幕は閉じる。

 

舞台となった新構想大学は筑波大学

『至高聖所』の舞台となっているのは、「新構想大学」だ。「新構想大学」については冒頭にこんな記述がある。

たとえばある町がひとつの巨大企業によって作られてしまうように、ひとつの大学によって作られた町もある。走るものといえばトラクターと軽四輪しかない農村に、あるとき突然片側三車線の道路が敷かれ、近代的な建物がぼつんと出現する。ゴルフ場やレジャーランドならともかく、国の未来を担う教育や研究機関が造られるのなら文句を言う筋合いではない。農家の人々は田畑を削り、今に若一者が大挙してやってきてこの村も活気づくだろうと笑いながら、残された土地を一耕して待っている。

「新構想大学」にはモデルがある。それは作者の松村栄子が過ごした筑波大学だ。筑波大学があるつくば市という街は、引用した記述のように研究所や大学をメインに作られた街だ。道も京都のように真っ直ぐに引かれていて、四角く区切られた場所に産総研JAXAなどの国の研究所が存在している。どこか無機質で人工的な雰囲気が感じられる街だ。

その無機質なイメージが『至高聖所』にぴったりだ。沙月が参加する鉱物研究会など、無機質なイメージを想起させるものがこの小説には散りばめられている。その静謐な世界観と繊細で研ぎ澄まされた文体が心に突き刺さり、少女たちの孤独を際立たせている。

 

 

僕はかぐや姫/至高聖所 (ポプラ文庫)

僕はかぐや姫/至高聖所 (ポプラ文庫)

 

 

新型感染症と組織の不条理 / 『臆病な都市』 砂川 文次

新型コロナウイルスが流行し、注目された小説がいくつかある。カミュの『ペスト』が代表的な小説だ。しかし、『ペスト』以外にも感染症を題材にして、話題になった小説がある。それが砂川文次の『臆病な都市』だ。端的に言って、この小説は傑作だと思う。『臆病な都市』は、新型感染症に対する集団ヒステリーと官僚組織の不条理を描いた小説だ。

『臆病な都市』の中で描かれている新型感染症に対する集団ヒステリーや、大衆の行き過ぎた正義感は、現実世界のコロナ禍でも起こった出来事だ。コロナ禍をモデルにした小説かと思いきや、この小説はコロナ禍が深刻になる前に群像に掲載されている(2020年4月号)。中編小説なので、書かれた時期自体は新型コロナが話題になり始める時期よりも前のことだろう。『臆病な都市』はコロナ禍を予見した小説でもあるのだ。

『臆病な都市』が描いたのは新型感染症に対する大衆のヒステリーだけではない。東京都庁を舞台に組織の不条理を描き、システムを無批判に受け入れることがどんな惨事をもたらすかについて警鐘を鳴らしている。

『臆病な都市』をハンナ・アーレントが指摘した「悪の陳腐さ」と絡めて考察していく。内容に触れるので未読の方は注意。

 

 

存在しない新型感染症「(鳬)けり病」と集団ヒステリー

『臆病な都市』の主人公・Kは首都庁に勤める公務員だ。主人公の名前がKなのは、不条理な状況にに翻弄される繋がりで、カフカの『城』へのオマージュだろうか。序盤では主人公Kの日常を通じて、官僚組織での仕事を淡々とした文体で描いている。何もなければタスクを淡々とこなすKの日常であったが、鳥の不審死から始まった新型感染症の噂によって激動の渦に巻き込まれ、組織の不条理を突きつけられる。

冒頭でも仄めかされているのだが、鳧(けり)という鳥の不審死が世間を騒がせていた。多発する不審死の背後には新型感染症があるのではないかという根拠のない噂が広がる。実際は、けりの不審死と感染症には何の関係もなく、科学的な調査から因果関係あるとは言えないという結論が出ていた。さらには、新型感染症も存在しないという結論だ。首都庁やKは新型感染症は存在しないというスタンスで、問い合わせや政策決定を行なっていた。

 

まったく、なんだってあんな根拠のないものにそうすぐ振り回されてしまうのだろう。それとも本当に、ただ自分のあずかり知らぬところで未知の病気が広まりつつあるのではないか、とも考えてみたが、やはり実感は湧かない。家々から漏れる灯りがそこここに生活が在ることを教えてくれる。言い知れぬ不安が、影のように自分のあとを追ってきている気がした。

 

しかし、大衆の暴走するヒステリーによって事態は思わぬ方向に転がっていく。

存在しない「新型感染症」への大衆の不安はどんどんと膨らんでいき、「新型感染症は存在している」という世論が形成されていく。そして世論はフェイクニュースを「真実」に変容させていくのだ。

新型感染症をめぐるパニックによって、ある自治体で市長のリコールが成立する。新しい市長は、独自の調査を行いけりと新型感染症には関係があるという報告を出したのだ。しかし、この報告は市長の人気取りと様々な利権に絡んだものであり、科学的根拠は薄かった。だが、科学的な妥当性とかは関係なく、民衆のパニックは暴走していく。

様々な思惑が絡み合い、「新型感染症」は存在するという扱いになっていった。実際は存在しないのだが、世論がそうなっている以上仕方がないと言った感じだ。自分の保身のために、首都庁でも「新型感染症」は存在するという程で政策が立案されていく。その場をしのげれば真実はどうでもいいと言ったスタンスで、責任の所在がわからないまま「新型感染症」対策がなされていくのだ。ただ目の前の仕事を無批判でこなしていくことによって、さらなる大惨事を招くのだが…

暴走する民衆という点で、この小説はコロナ禍を予見していたように思う。小説の中に、一般市民が自主的に感染者を取り締まるシーンがあったのだけれど、コロナ禍での自粛警察を彷彿とさせた。暴走した正義感ほど厄介なものはないと思う。本人自身が良かれと思ってやっているから余計にややこしい。

同じ感染症小説としてカミュの『ペスト』と比較すると、カミュの『ペスト』は不条理な状況下で人間はどう戦うかに焦点を当てているように思うが、砂川文次の『臆病な都市』は民衆のパニックや行き過ぎた正義感など人間の負の面に焦点を当てているように思う。

『臆病な都市』が話題になった理由としては、感染症というテーマの小説だからが主な理由ではないかと思う。紹介文でも新型コロナとの関連で説明されていることが多かったように思う。だが、僕はこの小説の魅力は「官僚組織の暴走」や「悪の陳腐さ」を描いた点にあると思っている。次は、『臆病な都市』が扱うテーマの一つである「組織の不条理」について書こうと思う。

 

 

組織の不条理と暴走

一つの組織が利権がらみで新型感染症は存在するという報告をしてから、事態は思わぬ方向に転んでいく。首都庁においても新型感染症が存在する程で、事なかれ主義的に話が進んでいくのだ。Kは新型感染症対策の中心的な人物になり、具体的な対策を立案する。K自身は新型感染症は存在しないと思っているのだが、仕事は仕事と割り切って「新型感染症対策」を行なった。新型感染症なんて存在しないのだから大丈夫だと思っていたのだ。だがシステムの暴走は止まらない。

存在しないのにも関わらず新型感染症の検査が行われ、検査済みを示すワッペンがないと電車にも乗れないようになってしまうのだ。ある時点から取り返しのつかないところまで来てしまい、もはや新型感染症は存在することになっている。さらには、「感染者」や検査を受けていない人を収容する施設も新たに作られた。「収容」という言葉は「入居」という柔らかい言葉に置き換えられて。施設では入居者の「安全化」を行っているのだ。恐らく、「安全化」とは言葉を言い換えただけで、実際には殺しているような書き方がなされている。Kは施設で上の立場となり、かつての上司や同僚のヨシダを「安全化」することに許可を出した。「安全化」されるだけだと自らの心に言い聞かせて。

翌月の第一次安全化対象者一覧に、無論先の研究官の名があった。他にもかつての上司たる係長やヨシダの名を見つけたが、彼らは安全化されるだけだ、とKは自分に言い聞かせた。この一覧を承認することが、センターにおける最後の仕事となった。

 

その後、K自身も検査済みのワッペンをつけておらず、施設に収容されてしまう。自分がコントロールしていると思っていたシステムによって殺されかけたのだ。システムを管理していると思い込んでいたKでさえ、コントロールすることができなくなっていた。K自身も「安全化」されそうになっていたが、システムの手続き上に問題があってKは解放される。解放されたKは組織やシステムの問題点について思いをはせた。

仕組みの機能は、形式に適合しているか否かを判別するだけだ。今回はたまたまそれがうまく機能しなかったが、免疫機能は、困ったことに正常に機能していた。

 システムや組織自体は便利なものだが、いつでもコントロール下におけるわけではない。正常に機能していても、思わぬ抜け道からシステムが増槽してしまうことがある。『臆病な都市』は、組織のシステムエラーがどのように起こり、暴走するとどうなるかを「新型感染症」を題材として描いた。

終盤で描かれる「安全化」で思い浮かんだのが、「エルサレムアイヒマン」で語られた「悪の陳腐さ」についてだ。 

 

 

エルサレムアイヒマン」と「悪の陳腐さ」  

エルサレムアイヒマン』とは、ハンナ・アーレントナチスドイツでユダヤ人虐殺を主導したアイヒマンの裁判を傍聴し、考察した内容について記載した本だ。アイヒマンとは、ナチスドイツにおいてユダヤ人を「処理」する効率的なシステムを構築した人物である。ユダヤ人虐殺というと、アイヒマンは非常に冷酷で残忍な人間であるように思える。しかし、実際はアイヒマンは「普通の人」であった。

ではなぜ普通の人物であるアイヒマンは、大虐殺という大犯罪を犯してしまったのだろうか。ハンナ・アーレントは「悪の陳腐さ」というキーワードで原因を指摘している。アイヒマンは、システムを無批判に受け入れてしまったがために、「悪」を犯したのだ。

 

「悪とは、システムを無批判に受け入れることである」

 

ハンナ・アーレントは、「悪」という言葉に「陳腐さ」という言葉を組み合わせ、システムを無批判に受け入れてしまうと自らも犯罪を犯すことになってもおかしくはないと指摘している。「悪」とは常軌から逸した人が犯すものではなく、システムを批判的に受け入れなければ誰でも「悪」をなしてしまうということだ。

 

『臆病な都市』では、Kが同僚や上司の「安全化」にGoサインを出してしまっていて、K自身はそのことに対して罪悪感は感じていない。Kが無批判にシステム上の作業を受け入れてしまったがために、アイヒマンと同じようなことをしてしまっている。

システムや組織というのものはなくてはならない存在だが、無批判で受け入れてしまっては「悪」となってしまう。事なかれ主義に流されるのではなく、システムを批判的に捉えること、これが「悪」に抗うために重要であることだ。 

 

臆病な都市

臆病な都市

  • 作者:砂川 文次
  • 発売日: 2020/07/30
  • メディア: 単行本
 

 

麻耶雄嵩の超問題作 / 『夏と冬の奏鳴曲』 麻耶 雄嵩

麻耶雄嵩の超問題作

首なし死体が発見されたのは、雪が降り積もった夏の朝だった!20年前に死んだはずの美少女、和音の影がすべてを支配する不思議な和音島。なにもかもがミステリアスな孤島で起きた惨劇の真相とは?メルカトル鮎の一言がすべてを解決する。

 

これは問題作の多い麻耶雄嵩の中で最大の奇書だ。作中を彩るキュビズムの衒学的な話といい、この小説の構成といい、トリックの馬鹿馬鹿しさといい、奇書に相応しい問題作。こんなにあっけに取られた密室トリックは今までになかった。未だに真相がよく分からない。解答編を明示的に描いていないあたり、アンチミステリだな。人には勧めづらいが、結構好き。

 

 

夏と冬の奏鳴曲(ソナタ) (講談社文庫)

夏と冬の奏鳴曲(ソナタ) (講談社文庫)

 

 

 

『となり町戦争』 三崎 亜記

隣町と隣町が戦争すると言う見えない戦争を書いた小説。見えないということは、知らないということ。知らないということは、存在しないということ。そうやって現代は戦争を隠してきた。テレビで流れるのは下らないニュースばかり、数字だけを見てもリアリティが湧かない。この箱庭のような日本を揶揄しているように思えた。純潔に保っていると思い込んでいた手が、実は血で濡れていたりする。日常の延長線上に戦争があると気付かされた一冊。

となり町戦争 (集英社文庫)

となり町戦争 (集英社文庫)

 

 

 

等身大のアンネ /『乙女の密告』 赤染 晶子

 

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女子大生の日常とアンネの日記がリンクしていく。少女マンガチックでユーモア溢れる文体で綴られている。人は誰でも密告者になりうるということか。乙女の世界は派閥というか、カーストというか女子の怖さがかいまみえた。男子に生まれて良かった。それよりもこの小説の主題はアンネにあるわけで、悲劇のヒロインとしてのアンネではなく、アイデンティティの危機にあるアンネ、真実のアンネを伝えようとしている。迫害されたユダヤ人にはそれぞれの物語があった。その個々の物語に思いを馳せてみる。

 

乙女の密告 (新潮文庫)

乙女の密告 (新潮文庫)

 

 

 

謎解き『羊をめぐる冒険』 / 「依頼」と「代行」による「宝探し」の物語

 

羊をめぐる冒険 (講談社文庫)

羊をめぐる冒険 (講談社文庫)

 

 物語にはいくつかの基本パターンみたいなものがある。有名なもので言えばオイディプス王に見られる様な「父殺し」の物語骨格がある。「父」というモチーフは色んな文学作品で扱われていて、志賀直哉の『暗夜行路』も「父」が物語の重要な部分を占めている。文学だけでなく、映画『スター・ウォーズ』も「父殺し」の骨格を持ったストーリーだ。この様に小説や映画など物語には似た様な骨格が見られることがある。

70年代後半から80年代前半にかけて、大掛かりな長編小説が次々と書かれた。それが村上春樹の『羊をめぐる冒険』や大江健三郎の『同時代ゲーム』、村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』、井上ひさしの『吉里吉里人』などだ。 

 

 

羊をめぐる冒険』は、主人公の「僕」がある組織に一匹の羊を探すように命じられ、大きな流れに巻き込まれていく話だ。『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』の続きであり、「僕」と「鼠」が登場する。「僕」は不思議な耳を持つ「彼女」と共に「羊をめぐる冒険」を行うというものだ。この『羊をめぐる冒険』は同年代に書かれた小説と共通する構造を持っている。それは「依頼」と「代行」による「宝探し」の物語の構造だ。

 

 

 「依頼」と「代行」による「宝探し」の物語

かつて蓮實重彦は、『小説から遠く離れて 』で、『羊をめぐる冒険 』と『同時代ゲーム』、そして同時代に書かれた『コインロッカー・ベイビーズ』 などの小説にはすべて同じ物語構造があると指摘した。その物語構造が、「依頼と代行」 による 「宝探し」の物語だ。これらの小説の物語の構造は 「依頼」→「代行」→「出発」→「発見」の流れをとる。