日々の栞

本や映画について気ままに書く。理系の元書店員。村上春樹や純文学の考察や感想を書いていく

情欲と愛情のあいだ / 『上海ベイビー』 衛慧

上海を生きる女性の恋愛と性愛

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ココは25歳の大卒。ウエートレスのかたわら小説を書いている。同棲中の恋人とのセックスはうまくいかず、自分の生き方を自問自答しつつ上海の夜を彷徨う。あるパーティで出会った妻子あるドイツ人と結ばれ、激しく満たされるが―。大胆な性描写で注目され、中国で大ベストセラーになるも、当局に発禁処分を受けた話題作。 

 『存在の耐えられない軽さ』で有名な小説家ミラン・クンデラは、こんな言葉を残している。

女とセックスするのと、いっしょに眠るのとは、まったく相異なる感情である。前者は情欲であり、後者は愛情である。

男女の恋愛関係を的確に描いた印象的なフレーズは衛慧の『上海ベイビー』で2回引用されている。『上海ベイビー』が描くのも、情欲と愛情の間で揺れ動く女性の姿だ。

 「中国で大ベストセラーになるも当局に発禁処分を受けた」と言われるだけあって、セックスなどの性描写や麻薬の描写が多い。大胆な性描写の多さといい『ノルウェイの森』を彷彿とさせるものがある。性描写が激しいと書いたが、日本においてはそれほど激しい部類には入らないだろう。まあ中国だから検閲が厳しいのだろうか?

 国際都市として発展している上海を舞台に、女性の視点から文化やセックスやドラッグ、女性の社会的な自立、退廃的な生活が描かれている。固有名詞が散りばめられ、世紀末の上海の様子がありありと描写されている。主人公は小説家のココ、恋人の天天、そして不倫相手のマークだ。読んでいると主人公のココに、作者の衛慧が重なり、私小説のように思えてくる。

 

 

女とセックスするのと、いっしょに眠るのとは、まったく相異なる感情である。

 主人公のココは、華々しいデビューを飾った小説家だ。大学を卒業した後に、カフェでウェートレスとして働きながら、次回作の小説を書いている。ココは野心に溢れ、小説家として有名になることを夢見ており、型にはまらない奔放な女性だ。そんなココが勤め先のカフェで出会ったのが天天だ。天天は整った顔立ちで、どこか影のある退廃的な雰囲気を醸し出している。ココと天天は、対極な人間性でありながらも、惹かれ合い付き合うようになった。二人は愛し合っていたが、一つ問題があった。天天が性的に不能だったのだ。

 ココは天天と性的に結ばれたいと思っていたが、天天にはそれができなかった。天天が不能である理由には、天天の両親に対するトラウマが関係があるように読める。天天の母親はスペイン人と不倫していた。母に会うために、天天の父はスペインに向かうが帰らぬ人となってしまう。この事件以来、天天は母親と距離を置くようになっていた。ココは愛情と性欲との間で引き裂かれるようになる。愛する人と肉体的に繋がることができない悲しみに苦しみながらも、ココは天天を愛していた。しかし、性的に満たしてくれない天天に失望してもいた。クンデラの警句のように「女とセックスするのと、いっしょに眠るのとは、まったく相異なる感情」なのだ

 ココは自分の生き方について自問自答し、上海の夜を彷徨っていた。さまよう中でココは、個性的な人物に出会っていく。その一人が未亡人のマドンナだ。そのマドンナが開催したパーティでココは運命的な出会いを果たす。それがドイツ人のマークだった。マークは妻子持ちであったが、ココは性的な関係を持ってしまう。天天が満たしてくれない性的な欲望をマークは満たしてくれた。これがきっかけでココはマークと頻繁に関係を持つようになり、マークの愛人となる。マークはただのセフレであると、ココは自分に言い聞かせるが、マークに対しても愛情を持つようになってしまう。ココは性愛と愛情の間で苦しむようになる。

 浮気に気づいたからか、天天はココから距離をとり、一人で旅立ってしまった。そして麻薬に手を出し、退廃的な生活を送るようになってしまう。母だけでなく、ココでさえも自分を裏切ったことに対するダメージもあってか、天天は衰弱しきっていた。ココは天天を看病しつつも、マークとも関係を持ち続けていた。結局、マークはドイツに旅立ってしまい、天天は命を落としてしまう。ココはこの出来事を『上海ベイビー』として小説にするところで話が終わる。

 

愛情と性愛は切り離すことが出来ないのか?

 『上海ベイビー』では、煌びやかな上海を舞台にココと天天とマークの三角関係が描かれている。天天はココを愛情で満たしてくれるけれど、性的には満たしてくれない。一方で、マークは性的にココを満たし、ココの心に空いた穴を埋めてくれる。ココはマークを愛してはいないと思うが、考えと裏腹にマークに嫉妬するようになる。人を愛するということは性愛と切り離すことが出来ないのかなと感じた。最終的に天天という繋がりを失ったココは、自分を見失ってしまう。

 

 

『上海ベイビー』は中国版『ノルウェイの森』か?

衛慧は村上春樹に影響を受けた「春樹チルドレン」の一人として挙げられることが多い。マルグリット・デュラスに影響を受けているような印象も受けるが。『上海ベイビー』を読んで思ったのが、村上春樹の『ノルウェイの森』との類似だ。性描写が激しいという点もあるが、『上海ベイビー』には、構造的に『ノルウェイの森』と似通った部分がある。『ノルウェイの森』では、僕(ワタナベ)と直子、緑の人間関係や恋愛模様が描かれている。直子は死のメタファー、緑は生のメタファーとして読むことができる。この三角関係がベースとなって物語が進行していく。

『上海ベイビー』では、ニコと天天、マークの三角関係が描かれている。ちょうど『ノルウェイの森』における主人公たちの関係の性別を逆にしたような感じだ。『上海ベイビー』では退廃的な雰囲気を帯びる天天が死のメタファー、ニコと情事を繰り広げるマークはリビドーや生のメタファーとしても読める。直子と緑の間で揺れ動くワタナベのように、ココは天天とマークの間を揺れ動く。『ノルウェイの森』では直子が自殺したように、『上海ベイビー』では天天がドラックで緩やかな死を迎える。

 ラストシーンも印象的だ。『ノルウェイの森』では、ワタナベが緑に電話をかけるシーンで終わる。緑に「あなた、今どこにいるの?」と聞かれ、直子を失ったワタナベは自分を世界に位置付けることが出来なくなっていることに気づく。『上海ベイビー』では、ココが天天の母が経営するレストランから帰る際に、天天の祖母から「あなた、誰?」と聞かれる。ココは自分が何者なのか分からないところで『上海ベイビー』はエンディングを迎える。このエンディングは『ノルウェイの森』のオマージュなのかなと感じた。

 衛慧が村上春樹に影響を受けた訳ではなくて、都市部の若者の生活や虚無感を描いているという点で衛慧と村上春樹が共通しているだけで、時代的な共通点に過ぎないのかもしれないが。