日々の栞

本や映画について気ままに書く。理系の元書店員。村上春樹や純文学の考察や感想を書いていく

スパゲティーに込められた孤独 / 「スパゲティーの年に 」 村上 春樹

 

村上春樹といえば何かとスパゲティーを茹でがちだが(アルデンテが多い)、スパゲティーそのものを題材にした短編がある。それが「スパゲティーの年に」だ。「スパゲティーの年に」は『カンガルー日和』に収録されている村上春樹の短編で、ショートショートに近い作品だが、短い中にも村上春樹特有の比喩や表現が詰まっている。

 
主人公の僕が1971年にスパゲティーを茹で続けるというあらすじ。そう、1971年がスパゲティーの年。「僕」は春、夏、秋と1人でスパゲティーを茹で続ける。スパゲティーは1人で食べるべき料理と「僕」が述べているように、この作品ではスパゲティーが孤独や隠遁と深く結びついているイメージを受ける。「僕」は誰かが訪ねてくる可能性を感じるが、誰も訪れない。知り合いの女から電話がかかってきても、ドタバタに巻き込まれたくないから断っている。人と深く関わらない現代人とその孤独を描いているのか。この主人公の他者との距離感が都市の孤独に繋がっているのだろか。村上春樹は他者との距離感を描くのが凄く巧みな作家だと思う。
 
 

村上春樹的にスパゲティーを茹でるには?

スパゲティーをゆでているときに、電話がかかってきた。僕はFM放送にあわせてロッシーニの 『泥棒かささぎ』の序曲を口笛で吹いていた。スパゲティーをゆでるにはまずうってつけの音楽だった。

「スパゲティーの年に」以外でスパゲティーが印象的な村上春樹の小説は『ねじまき鳥クロニクル』だ。ねじまき鳥の主人公は無職で、「スパゲティーの年に」の主人公に近いものを感じる。『ねじまき鳥クロニクル』でもスパゲティーが孤独のメタファーとして使われているように感じた。

ねじまき鳥クロニクル』の冒頭では、印象的にスパゲティーが茹でられている。その茹で方というのはロッシーニの「泥棒かささぎ」を聴きながら茹でるというものだ。ロッシーニの「泥棒かささぎ」序曲はちょうど10分ぐらいだ。

なので村上春樹的にスパゲティーを茹でたい時には、泥棒かささぎを聴きながら茹でるのが良さそうだ。いい感じのアルデンテになりそうだ。

 
 
 
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