日々の栞

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ビター&スイートな大人のおとぎ話 / 『カフェ・ソサエティ』 ウディ・アレン

ウディ・アレン監督の新たな21世紀ベスト作品!

 

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お洒落なBGMが流れ、真っ暗なスクリーンにタイトルが浮かび上がるオープニング。このウディ・アレン印のオープニングを観ると、今年もウディ・アレンの映画を観れると顔がにやついてくる。ここのところウディ・アレン監督は一年に一作のペースで映画を作り続けている。80歳を超えているのにこのバイタリティー!恐れ入ります...前作の『教授のおかしな妄想殺人』(日本語タイトルが微妙だと思っている)は、『恋のロンドン狂騒曲』みたいにかなりシニカルで皮肉が効いている映画だったので今年はどうなるのかと思っていてけど、『カフェ・ソサエティウディ・アレンの21世紀ベスト作品じゃないか!他のウディ・アレン監督作品に例えると『ミッドナイトインパリ』の甘美なノスタルジーと『アニー・ホール』のようなほろ苦さを足し合わせたような映画だ。この年にしてさらにベスト級の作品を生みだしてくるとは...ウディ・アレン監督作品は大体見ているけど、この『カフェ・ソサエティ』はミッドナイトインパリ以来の傑作じゃないかと思う。これより下では内容に触れます。

 

 

 

人生のもしかしたらを描いたビター&スイートな大人のおとぎ話

 

 

「カフェ・ソサエティ」オリジナル・サウンドトラック

「カフェ・ソサエティ」オリジナル・サウンドトラック

 

 

映画の舞台は1930年代のハリウッドとニューヨーク。黄金期のハリウッドに、夢を抱いた青年ボビーがやってきた。ハリウッドでエージェントとして成功した叔父のもとで働き始めたボビーは、美しい女性・ヴェロニカ(愛称:ヴォニー)に出会い恋に落ちる。二人はデートを重ね惹かれあっていくが、実はヴェロニカは叔父の愛人だった...プロポーズをヴェロニカに断られ、ボビーは失恋の痛手を引きずり故郷に帰った。故郷に戻ったボビーはギャングである兄ベンが経営するクラブ「レ・トロピック」で働き始めた。ボビーは店長としての才能を発揮し、店は大繁盛!ボビーは店長として忙しい日々を送る中、来店した美しい女性に魅了される。彼女の名前は奇しくもハリウッドで振られたヴォ二ーと同じヴェロニカ。やがて二人は結婚して子供ももうける。順風満帆に見えたボビーの人生だったが、ある日波風が立ち始めた。ひょんなことからヴォ二ーが「レ・トロピック」に現れたのだ。動揺するボビーであったが、かつての情熱がよみがえってくるのであった。2人のヴェロニカの間で揺れ動くボビー。あり得たかもしれないもう一つの人生がボビーの郷愁を誘うのであった。

 

 

人生は喜劇さ。悲劇が好きな喜劇作家が書いたんだ。

 

シニカルでユーモアに溢れたアレン節は健在で、この『カフェ・ソサエティ』でも印象的な台詞がいくつかある。特に上の引用の台詞が僕のお気に入り。序盤のコールガールのくだりではユダヤ人であることに対する自虐が効いていて面白い。人生は喜劇であると言いたげないつものドタバタ劇やお洒落なジャズも健在である。ボビーの兄ベンが繰り広げるドタバタ劇もこの映画に彩りを添えている。いつものようにウディ・アレンワールドが全開となっている。さらには衣装がシャネル!豪華すぎる...魅力がたくさん詰まった『カフェ・ソサエティ』だけども、一番魅力的なのは、誰しもが考えたことがあるであろう人生のもしかしてが描かれているところだ。もしもあのときこうしてたら...あり得たかもしれない過去を夢想することは魅力的で甘美なノスタルジーに満ちている。永遠におこりえない過去だからこそ儚くて美しくみえてしまう。ボビーが思い描くヴォニーとの「もうひとつの過去」はだがウディ・アレン監督は甘美なノスタルジーへの自己陶酔だけでは終わらせない。スイートなあり得た過去への陶酔だけではなく、上手くいくことだけではないビターな現実も突きつけてくる。ラストシーンのボニーの表情はあり得た過去と現実を見つめたほろ苦い表情。この表情は『それでも恋するバルセロナ』のラストシーンのヴィッキーとクリスティーナの表情を彷彿とさせる。まさにビター&スイートなラストシーン。『カフェ・ソサエティ』は、ほろ苦さと甘さが絶妙に入り混じった大人のおとぎ話だ。

 

 

 

ウディ・アレンラ・ラ・ランド!?

 

最初に観たとき、これはウディ・アレン版ララランドではないか!と思った。夢追い人の人生を描いたところ、お洒落なジャズが映画を彩っているところ、人生のタラレバを描いたほろ苦いところ、サントラが欲しくなってしまうところ(僕だけ!?)、と『カフェ・ソサエティ』と『ラ・ラ・ランド』の共通点はいくつかある。『カフェ・ソサエティ』と『ラ・ラ・ランド』の主人公があり得たかもしれない過去に思いを馳せ、陶酔しきっているシーンは、とても美しく心が締め付けられる。『ラ・ラ・ランド』は、ありえた過去を思い描き振り返るという自己陶酔的で夢想的なエンディングだったのに対し、『カフェ・ソサエティ』の方は大人の余裕とでもいうのか現実を見つめたエンディングとなっている。これが今までコンスタントに恋愛映画を送りだしてきたウディ・アレン監督の大人の余裕ってやつかなと思ってみたり。結論としてはどちらの作品も素晴らしい!

 

次回作にも期待!

ウディ・アレン監督の次回作のタイトルは『Wonder Wheel』だそう。タイトルからして面白そう。円熟さを増していくウディ・アレン監督に期待大!

 

過ぎ去ってゆく青春 / 『風の歌を聴け』 村上春樹

村上春樹の原点 

 

 

「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」 

 

 

 

この印象的な書き出しで始まるのが『風の歌を聴け』。群像新人文学賞を受賞した村上春樹のデビュー作だ。この小説は日本文学にとってエポックメイキングとなるような小説だと思っている。「文学作品」にありがちな特有の「硬さ」がなく、ポップで読みやすい。初めて読んだとき、こんな小説も文学としてありなんだとかなり新鮮な印象を受けた。デビュー作から村上春樹らしさは全開で、音楽の蘊蓄や洒脱な比喩が小説に散りばめられている。また村上春樹特有の井戸のモチーフも出てきている。散文的でこれといったストーリーはないのだけれど、一つ一つの断片的な話や卓越した比喩表現が魅力的で何度も読んでしまう。ふと手に取って、開いたページを読みたくなる。

 

この小説では、「僕」と「鼠」が過ごしたひと夏の青春の日々が描かれている。色んな人との出会い、今まで「僕」が出会ってきた人のこと、特に有益なことがない青春の日々、そして夏の終りともにやってくる別れがどこか達観している乾いたタッチで描かれている。

 

 

青春三部作の一作目

1973年のピンボール (講談社文庫)

1973年のピンボール (講談社文庫)

 

 

 

羊をめぐる冒険(上) (講談社文庫)

羊をめぐる冒険(上) (講談社文庫)

 

 この『風の歌を聴け』は村上春樹のデビュー作であると同時に、『1973年のピンボール』・『羊をめぐる冒険』に連なる青春三部作の一作目である。「僕」と「鼠」が主な主人公で、青春と喪失が描かれている。

 

 

 

ホットケーキにコーラ

 

 ビールやフライドポテトなど、この小説には印象的な食事のシーンがある。特に印象が残ったのはホットケーキにコーラをかけて食べるシーン。ホットケーキにコーラという斬新な組み合わせ...いつか試してみたいと思っているものの、なかなか勇気が出ない。

 

 

謎の作家:デレク・ハートフィールド

 

この『風の歌を聴け』を読んでいると気になるのが、謎の作家デレク・ハートフィールド。ハートフィールドの小説を読んでみたいと思って図書館やAmazonで探してみたものの、なかなか見つからない。それもそのはず、デレク・ハートフィールドは架空の作家!すっかり騙された...ヘミングウェイフィッツジェラルドと並んで語られているからすっかり実在すると思っていた。この架空の作家・デレク・ハートフィールドを通じて文章や小説について語られている。

 

 

過ぎ去っていく青春

 

主人公の「僕」はどこか受け身的というか、あきらめというか、「やれやれ」といった感じで退屈日々を送っている。描写の一つ一つにあきらめというか村上春樹特有の達観が感じられる。そんな退屈な日々でも青春というマジックによって特別めいた日々に見えてくる。村上春樹の小説を無性に読みたくなるのは、手のひらから零れ落ちる砂のように過ぎ去っていった青春の日々を再び味わえるからではないだろうか。距離的に遠く離れた故郷なら帰ることはできるけど、過ぎ去った青春の日々には決して戻ることが出来ない。だけど、村上春樹の小説は一時的であるにせよ、読んでいる間はその日々に戻ることが出来る。だから何度も読んでしまうのだろう。

 

風の歌を聴け (講談社文庫)

風の歌を聴け (講談社文庫)

 

 

過ぎ去った時間の痕跡 / 『知らない町』 大内伸悟

かつて誰かがいた場所に、私は存在している

 

youtu.be

 

三月の終わりごろになると、ばたばたと引っ越しシーズンになる。僕の住んでるアパートでも知り合いが新天地に引っ越したり、見知らぬ隣人が気が付くと引っ越していて、しばらくすると新しい住人がやってきたりしている。こんな三月の終わりになるとふとある疑問が頭に浮かぶ。自分が今住んでいるこの部屋の前の住人はどんな人だったんだろう?男の人だったのか、女の人だったのか、趣味は何だったのか、どう時間を過ごしていたんだろうと。そして、かつて誰かが存在していた場所に僕は存在しているんだなと。『知らない町』はそんな「存在の残響」や「過ぎ去った時間の痕跡」を描いた映画だ。大きな劇場で公開されている大衆的な映画と違い、淡々とストーリーが進み、後半では辻褄の合わないことが起こり、現実ではない世界が広がっていく。観終わった感想としては、なかなか出会うことのない斬新で不思議な映画だなと。存在や時間の不可思議さに触れられたような気がした。

 

ある日、地図調査員の板橋優二の部屋に廃品回収をしている友人の西田が回収したソファーを持ってくる。そしてその夜、優二の部屋の前の住人だったという中沢という女性が一緒に暮らしていたゴトウという男性に会いに訪ねてくる。中沢が帰った後に、西田が幽霊と見たと言い出し、ちょっとした騒動になる...あらすじはこのような感じだが、この映画はあらすじにまとめることが出来るような映画ではない。散文的な映画ともいうのだろうか。幽霊が映らない幽霊映画ともいうのか。この映画を見ていると、幽霊というのは「存在の残響」ではないのだろうかという気がしてくる。この映画では、過去の時間の痕跡を意識させるようなものが沢山出てくる。地図、街、アパートの部屋、廃品回収のソファー。ピンボケした映像は現実と夢を溶かしていくような感じがする。部屋を定点から撮ったカットは幽霊の視点から撮ったようにも思える。物や街には過ぎ去った時間や人の存在が染み込んでいる。自分が住む前のアパートには誰かが住んでいて、リサイクル品はかつて誰かが使っていた。普段意識しないような時間の積み重なりを意識させられた映画だった。映画の後半では中沢と廃品回収のソファーの持ち主、優二の関係性が浮き上がってくる。そして優二はいつの間にかゴトウになっている。もしかしたら自分は、別の誰かになっていたのではないかという存在の不思議さを感じた。

 

 

こうやってぼおっと川を眺めながら、同じように眺めている人がいたんじゃないかなって想像したんです。そしたら私の目を通して誰かがこの景色を眺めているんじゃないかな、と思ったんです。

 

 

作中の中沢のこの台詞にははっとさせられた。僕はかつて誰かが存在した場所にいる。不思議としか言いようのない存在や時間の神秘に触れたような気がした。自分が住んでいる街にもかつて誰かがいて、過ぎ去った時間がある。こう考えると『知っている町』がいつの間にか『知らない町』に反転している。

 

 

 

わたしがいなかった街で

 

 

わたしがいなかった街で (新潮文庫)

わたしがいなかった街で (新潮文庫)

 

 

この映画の過ぎ去った時間の痕跡や時間の積み重なりを描く感じは、どことなく柴崎友香の小説と雰囲気が似ている。柴崎友香は『春の庭』で芥川賞を受賞している作家で、場所に積み重なった時間や過ぎ去った時間の痕跡をモチーフとした小説を書いている。この『知らない町』を観ていると柴崎友香の小説が思い浮かんだ。『その街の今は』、『春の庭』、そして特に『わたしがいなかった街で』が。『その街の今は』ではたくさんの人々が住んでいた昔の大阪の街に思いが馳せられる。自分がいまいる場所も、かつて誰かがいた場所なのだ。

 

パリは移動祝祭日 / 『移動祝祭日』 ヘミングウェイ

パリは移動祝祭日

 

もし幸運にも、若者の頃、パリで暮らすことができたなら、その後の人生をどこですごそうとも、パリはついてくる。パリは移動祝祭日だからだ 

 

誰にとっても青春時代はかけがえのないもので、そこでの経験が自分を支える大きなピースになる。ヘミングウェイにとってそのピースは、パリでの修業時代だった。「パリは移動祝祭日」という素敵なエピグラムから始まる本書はヘミングウェイのパリ修行時代が綴られたエッセイである。スコット・フィッツジェラルドガートルード・スタインといった様々な芸術家との交流、パリでの暮らしや執筆活動がヘミングウェイの目を通して魅力的に描かれている。ヘミングウェイは『日はまた昇る』、『老人と海』、『武器よさらば』といった作品を残しており、男性的というかマッチョなイメージがあったのだけれども、この『移動祝祭日』は青春時代を回顧して書かれたということもあってか、繊細でリリカルでどこかノスタルジックな雰囲気がある。

 

タイトルの移動祝祭日(英語では A Moveable Feast)はキリスト教の用語で、クリスマスのように日付が固定されている祝日ではなく復活祭の日付によって移動する祝日のことである。新潮文庫版の解説に書かれているように、本書のタイトルの意味はこのような辞書的なものだけではないだろう。その後の人生に大きく影響をあたえたパリでの青春時代、それはヘミングウェイにとってその後の人生についてまわる祝祭のような日々だったのだろう。このタイトルはヘミングウェイ自身が決めたものではない。この『移動祝祭日』はヘミングウェイの遺作で、タイトルは生前ヘミングウェイがホッチナーというライターに言ったセリフをもとにつけられている。この移動祝祭日というタイトルは本当に素敵だ。

 

本書では、ヘミングウェイが過ごしたパリでの甘美な思い出が綴られている。舞台となった1920年代のパリには、コクトーフィッツジェラルドピカソ、スタイン、ジョイス、パウンドらの名だたる芸術家がひしめいていた。芸術家にとってこの時代のパリで過ごす日々はきっと祝祭のように煌めいたものであっただろう。『移動祝祭日』では芸術家が集まっていたスタインのサロンの様子が描かれている。そこで繰り広げられるスタインとヘミングウェイの絵画や小説談義はとても魅力的だ。スタインはヘミングウェイを語るうえで欠かせない存在である。ヘミングウェイフィッツジェラルドといった作家のことを指すロストジェネレーション(自堕落な世代・迷子の世代)という名称はスタインがヘミングウェイに言った言葉に由来している。ロストジェネレーションを「失われた世代」と訳すのは今では誤訳らしい。スタインに加え、パウンドとの交流も描かれている。ヘミングウェイはパウンドから「形容詞を信頼しすぎること」の危険性を学んだ。良き友人でありライバルでもあったフィッツジェラルドについても書かれている。特にフィッツジェラルドとのリヨンへの旅は凄く面白い。フィッツジェラルドってお酒に弱かったんだな。フィッツジェラルドについて書かれた章を読むと、ヘミングウェイフィッツジェラルドの才能を認めていたことがよく分かる。そして、フィッツジェラルドが自身の才能を上手く発揮できないのはフィッツジェラルドの妻のゼルダのせいだと考えていた。ゼルダが夫の才能に嫉妬し、彼を邪魔していると。ヘミングウェイにとってフィッツジェラルドがかけがえのない存在であることが分かる。

 

なんといってもカフェでの執筆シーンが素敵だ。サン・ミシェル広場のカフェ、クロズリー・デ・リラとパリのカフェが魅力的に描かれている。執筆に邪魔が入ると露骨に嫌悪感を示すのが面白い。あとところどころにヘミングウェイの執筆の心構え(氷山理論)や小説の批評が書かれていて、読むのがすごく楽しい。原稿がなくなったことや、競馬にはまっていたことなど新しい一面を知ることができる。

 

 

ミッドナイトインパリ

 

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輝かしい1920年代のパリを描いた『移動祝祭日』を下敷きにしたような映画がウディ・アレン監督によって撮られている。その映画は『ミッドナイトインパリ』。作家志望の主人公・ギルが真夜中のパリにタイムスリップするという話だ。映画の中でヘミングウェイの『移動祝祭日』が少し触れられる。『移動祝祭日』で描かれたような芸術が花開いている1920年代のパリが描かれていて、観ていてワクワクする映画だった。ヘミングウェイフィッツジェラルドなど出てくる芸術家たちが本物に似ていて、本当に1920年代のパリにタイムスリップした気分になる。とくにダリは凄く似ていて、会話のシーンは笑ってしまった。あとルイス・ブニュエルに映画のアドバイスをするところが面白い。皆殺しの天使たちが観たくなってくる。

 

ロマンチックなコメディ映画とも見て取れるこの『ミッドナイトインパリ』だが、人生に関する深い示差を与えてくれる。1920年代のパリにタイムスリップしたギルはそこでアドリアナに恋をする。主人公のギルは1920年代が素晴らしい時代だと考えている。しかし、1920年代に住むアドリアナにとってはいいように思えず、むしろ19世紀末の時代の方がいいとかんがえている。そう、過去はいつだって美しい。ギルがつぶやく下の言葉は人生の本質を突いているのではないか。

 

現在って不満なものなんだ。それが人生だから。

 

現在から振り返る過去は多かれ少なかれ美化されているもの。いつでも未来は不安なもので、今は苦しく、過去は甘美な郷愁に満ちている。ヘミングウェイが『移動祝祭日』の中で描いたパリもどこか甘美な郷愁を帯びている。

 

再び脚光を浴びた『移動祝祭日』

 

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あまりメジャーな作品とは言えないヘミングウェイの『移動祝祭日』だが、ある事件をきっかけに注目を集めることとなる。その事件とは、パリ同時多発テロ。多くの命が奪われた痛ましい事件だ。テロの後この『移動祝祭日』は抵抗のシンボルとなった。あるおばあちゃんへのインタビューがきっかけとなって、フランスではベストセラーとなっている。生き生きと描かれたパリの日常風景がフランス人の心に響いだろう。『移動祝祭日』の章のタイトルにあるようにパリに終わりはない。

 

パリに終わりはない

 

 パリには決して終わりがなく、そこで暮らした人の思い出は、それぞれに他のだれの思い出ともちがう。私たちがだれであろうと、パリがどう変わろうと、そこにたどり着くのがどんなに難しかろうと、もしくは容易だろうと、私たちはいつもパリに帰った。

 

 生き生きと描写されるパリの風景はとても魅力的で、パリに行ってみたくなる。妻・ハドリーとの生活は微笑ましく、読んでいると心が温かくなる。文章からは妻・ハドリーへの愛が感じられて、この『移動祝祭日』の主人公はハドリーとも思えてくる。結局のところ、ヘミングウェイはハドリーと別れてしまうこととなる。晩年のヘミングウェイはハドリーとの愛おしい日々を懐かしんで書いたのだろうか。ミッドナイトインパリでも描かれていることだが、誰にとっても過去は美しく魅力的なものだ。誰にとっても青春時代は特別なもので、それぞれの「移動祝祭日」になる。ヘミングウェイにとってはそれがパリの修業時代だった。上に引用した文章がすごく印象的だ。最初から読むのではなく、折にふれて適当にページを開いて文章を楽しみたくなる本だな。『移動祝祭日』は甘美なノスタルジーに包まれた名作だ。

 

移動祝祭日 (新潮文庫)

移動祝祭日 (新潮文庫)

 

 

 

 

村上春樹『騎士団長殺し』と又吉直樹『劇場』で新潮社の勢いが止まらない

調子いいんじゃない!?新潮社

 

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

 

 

 

騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

 

 

 

どこの本屋に行っても大量に置かれている村上春樹の新刊『騎士団長殺し』。『1Q84』以来の本格長編ということもあり、売れに売れている。いつもの内容を明かさない手法をとっていてそれもきいているのかな。もうすでに累計発行部数が100万部以上になっているらしい。恐るべし村上春樹。ここまで話題になって、売り上げもある作家って日本には村上春樹ぐらいしかいないのでは。

 

新潮 2017年 04月号

新潮 2017年 04月号

 

 

そして、五大文芸誌の一つ、新潮社の『新潮』も売れている。又吉効果で「劇場」が掲載された4月号は異例の売り上げを見せているようだ。そして、この「劇場」は早くも単行本化が決まったらしい。又吉先生凄いな。

 

しんせかい

しんせかい

 

 

村上春樹又吉直樹の影でもはや話題にもされないし、あまり売れている気配がない山下澄人の『しんせかい』も新潮社から発売されている。新潮社絶好調だな。

 

 

 

同じ歩調で年老いていくことの幸せさ / 「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」 F・スコット・フィッツジェラルド

時間を逆行して生きるベンジャミン・バトンの数奇な人生

 

 

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老人として生まれて、どんどん若返っていき、最後には赤ちゃんとなって死んでいく・・・年を取るたびに若返るなんていいじゃない!って思う人もいるだろう。しかし事態はそう簡単じゃない。人と同じ歩調で年を取るという当たり前に思えることがいかに素晴らしいかをこの「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」は教えてくれる。

 

「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」はF・スコット・フィッツジェラルドによって書かれた短編小説だ。フィッツジェラルドはロストジェネレーション(自堕落な世代・迷える世代)を代表するアメリカの作家である。フィッツジェラルドの代表作『グレート・ギャッツビー』は20世紀アメリカ文学の最高傑作の一つと言われている。『グレート・ギャッツビー』は村上春樹によって訳されており、村上春樹作品の中にもしばしば出てくる(『ノルウェイの森』など)。ロストジェネレーションという言葉は、ガートルード・スタインヘミングウェイに投げかけた台詞からきている。ロストジェネレーションというのは、第一次世界大戦に遭遇して、既成の価値観に懐疑的になった世代の小説家を指し、代表的な作家にF・スコット・フィッツジェラルドアーネスト・ヘミングウェイがいる。

 

ベンジャミン・バトン 数奇な人生 [DVD]

ベンジャミン・バトン 数奇な人生 [DVD]

 

 

この「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」はデヴィッド・フィンチャー監督によって映画化されている。主演はブラッド・ピットで、アカデミー賞美術賞・視覚効果賞を受賞している。

 

「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」は、老人として生まれて、若者へと時間を逆行して生きるベンジャミン・バトンの文字通り「数奇な人生」を描いた作品である。1860年の夏、ロジャー・バトン夫妻のもとに奇妙な「赤ちゃん」が生まれる。なんとその「赤ちゃん」は老人のような姿だったのである。そして精神的にも老人であり、生まれた直後に喋りだすのである。ベンジャミン・バトンと名付けられたその子どもは、周囲に冷たくあしらわれながらも強く生きていく。そして周囲の人間と同じように恋愛や苦悩、成功、結婚を経験していく。だがベンジャミン・バトンは老化することなく、どんどん若返っていく。若返っていくうちに周囲の人との年齢差が縮まり、打ち解けていくベンジャミン・バトン。そして美しい女性ヒルデガルドと恋に落ちて、結婚することになる。仕事も順調で順風満帆のように見えたが、周囲の人とは異なる時間の進み方がベンジャミンを孤独にしていく。年を取るにつれて若返るベンジャミンと年老いていくヒルデガンド。すれ違う電車のように、時の流れの違いによって二人の心が離れていく。ベンジャミンは年老いていくヒルデガンドに魅力を感じれなくなる。そして、若返るにつれて幼くなり頭も上手く働かなくなる。そして最後にベンジャミンの意識は生まれた時と同じ闇の中に埋もれていく…この小説を読んでいると人生の始まりと終わりは案外同じようなものに思えてくる。混濁の中から始まり混濁の中で終わる。同じ歩調で人生を歩き、景色を楽しむという一見して普通のことのように思えることが、実はかけがえのないことなのである。ベンジャミン・バトンが送った数奇な人生は、私たちに一緒に年を取ることの幸せさを教えてくれる。 

ベンジャミン・バトン  数奇な人生 (角川文庫)

ベンジャミン・バトン 数奇な人生 (角川文庫)

 

 

 

哲学的ゾンビ / 『ゾンビ』 村上春樹

 最近どこの本屋に行っても村上春樹の『騎士団長殺し』が平積みされている。本が売れないと言われる中、ここまで売れる村上春樹は本当にすごいなと思う。小説の発売に並ぶというのはほとんどない気がする。村上春樹以外だとハリー・ポッターぐらいかな。純文学ではなくて、大衆寄りだと言われたりして批判を受けることもあるけど、ここまで人を引き付ける作家ってほとんどいない気がする。

 

騎士団長殺し』には、雨月物語が引用されてミイラの話が出てくるけど、今回は村上春樹のゾンビの話。タイトルはそのまま『ゾンビ』で『TVピープル』という短編集に収録されている。ショートストーリーとも言えるような短編小説となっている。あらすじは、あるカップルがいて、実は男の方がゾンビ...だという夢を見る話。しかし、現実も…

 

この話を読んでいると哲学的ゾンビという思考実験を思い出した。他人に心があるのかどうかは分からないということを示唆する思考実験である。確かに、他人に心があることの証拠なんてどこにあるんだろ?と色々関係ないことを考えながら読んでいた。

 

 

 

TVピープル (文春文庫)

TVピープル (文春文庫)