日々の栞

本や映画について気ままに書く。理系の元書店員。村上春樹や純文学の考察や感想を書いていく

時の洗礼を受けていないものを読むな/『読書について』

 核心をついている読書論

読書とは他人に考えてもらうことで、読書をしすぎると自分で考えなくなっていく。一見するとそんなことはないだろうと思えるが、実は読書の核心を突いている。この『読書について』は多読を推奨するのではなく、思考停止になっていると批判している。他にも古典作品を推奨したりと、現代の感覚からするとズレているように思える。しかし、自ら考えることもせず、他人の思想をただなぞるだけの読書に何の意味があるだろう。本書で書かれているように、自分で考え抜いた知識にこそ意味があるのだと思う。現代の読書術というのは、いかに短時間で多くの本を読んで情報を得るかに重点が置かれているものが多い気がする。「読書について」のように、しっかり思索することに重点を置いた本は少ないように思える。

 

時の洗礼を受けてないものは読むな

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

 

 『読書について』を読んでいると、村上春樹の「ノルウェイの森」の中で永沢さんが「俺は時の洗礼を受けてないものを読んで貴重な時間を無駄に費やしたくないんだ。人生は短い」と言っていたのを思い出す。大きな書店で働いていたことがあるのだが、時の洗礼に耐えうる本って本当に少ないんだなと実感した。ほんの数年前の本でも絶版になっていることもあるし、数十年前の本なら大半が絶版になっている。一方で、出版不況と言われる今でも数多くの本が出版されている。ビジネス書や自己啓発本を立ち読みしてみると、スカスカであまり大したことを書いていない本も多い。インターネットやSNSの発展により、誰もが気軽に発言できるようになり、私たちは情報の洪水に飲み込まれるようになった。この状況では、効率よく情報を処理することが求められてくる。しかし、その中で時の洗礼に耐えうる本はほんのわずかじゃないだろうか。氾濫する悪書よりも時の洗礼に耐えた良書を読むほうが有意義なんじゃないかなと思えてくる。

 

古典の意義

 

訴訟 (光文社古典新訳文庫)

訴訟 (光文社古典新訳文庫)

 

 古典になる本というのは数少ないと思う。ベストセラーとなった本でも、経年劣化してその輝きを失ってしまうということがよくある。普遍的な真理や感情を描いた本、類稀なる想像力で作られた本などは古典になるんじゃないかなと思う。古典の素晴らしさを考えると、フランツ・カフカの作品が思い浮かぶ。中々城に辿り着けない『城』、よく分からないまま逮捕されてしまう『訴訟』など、システムに翻弄される現代人に当てはまりような内容である。カフカの作品は時を経るごとに色褪せていくのではなく、寧ろ時が経つにつれて新たな解釈が生まれてますます輝きを増しているように思える。カフカの作品を読むと、優れた想像力は経年劣化に耐えうることを実感させられる。

 

多読を奨励しない、古典を奨励しているというのは現代に逆行しているように思う。しかし、情報を処理するので精一杯で、思考停止に陥っていないだろうか?自分で考え抜いた知識にこそ意味があると説くショウペンハウエルの「読書について」は、現代人に警鐘を促す良書だと思う。この本の素晴らしさは、この本が時の洗礼に耐えたという事実が証明している。

雨男・雨女についてのあれこれ

僕は雨男です。雨宿りしたら雨が止むのですが、外にでるとまた雨が降ってくる。家から出たタイミングで雨が降り出すのはしょっちゅうあります。イベント事の幹事をすると天気が悪くなり、挙げ句の果てに家から出すなと言われる始末。駅について外にでると雪が降ってきたことも。雨だけじゃなく雪にも対応してるのか。雨男という自覚はあるのですが、傘を持つのが嫌いで折り畳み傘を携帯してないのでよく雨に濡れます。

 

そんなこんなで、雨男なので時たま雨男・雨女についてよく考えます。「雨男・雨女って科学的に根拠があるのか⁉︎」統計とかとったら面白い結果が出るんじゃないかなと思ってます。僕は雨を引き寄せる雨男・雨女というのは、記憶の改竄によって生まれるものだと思ってます。個人的な印象ですが、雨男・雨女と言われる人はネガティブな人が多いなと。ネガティブな人は、ついてないことがあるとそのことが強く印象に残って、運が良かったことを忘れてしまい、あたかも悪いことしか起こっていないと思ってしまうのではないでしょうか。僕も、雨に降られなかったときもあるのですが、雨が降ってきたときの方がよく覚えていて、あたかもいつも雨しか降っていないと感じてしまいがちです。雨男・雨女とは運良く雨が降らなかった時もあるが、結局雨が降った時のことしか覚えていないみたいなことではないでしょうか。被害妄想みたいな感じですね(笑)

 

昔友人に「雨男だったら、雨乞いせずに雨を降らせれるから、昔だったら絶対奉られてたな。卑弥呼みたいになれたわ」と言ったら、「雨を降らせるだけで、止ませることができなかったら意味なくね。コントロールできるからいいんやろ。降らせるだけなら、逆に疎ましがられるやろ」と言われました。確かに。

 

そういえば、雨男・雨女をモチーフにした小説、映画ってあんまりないな。僕が知ってるのは伊坂幸太郎の『死神の精度』ぐらいです。でもあれは死神だったな…やっぱり雨男にいいイメージがない。

 

以上、雨男・雨女についてのあれこれでした。

 

死神の精度 (文春文庫)

死神の精度 (文春文庫)

 

 

深い関係性を求めて/「カンガルー日和」 村上 春樹

 初めて読んだ村上春樹の小説は、高校の教科書に載っていた「カンガルー日和」だ。カンガルーの赤ちゃんを見に行くという、男女の何気ない1日を描いた小説だ。高校生の僕にとって、この小説はよくわからないふわふわした小説として映った。しかし、何度も読んでいるうちに村上春樹の文体の虜になり、村上春樹作品を読むきっかけとなった。なので、この「カンガルー日和」は思入れのある小説になっている。

 

カンガルーを見るのにうってつけの日から、カンガルー日和というタイトルになっている。この小説の英訳のタイトルが、A Perfect Day for Kangaroosとなっていて、サリンジャーの「バナナフィッシュにうってつけの日(A Perfect Day for Bananafish)」に因んでいる。

 

「青山通りのスーパー・マーケットで昼下がりの買物を済ませ、コーヒー・ショップでちょっと一服しているといった感じだ。」といった洒落た比喩、村上春樹特有の諦念が滲み出ている文体に衝撃を受けた。その当時の自分にとって小説の文体と言えば、芥川龍之介、夏目漱石のような古めかしいものというイメージがあった。こんな小説もあるのか!

 

折にふれてカンガルー日和を読み返すけど、明確なテーマというものが掴めない。けれど、こんな感じの話じゃないかなという漠然とした考えがいつも浮かぶ。カンガルー日和は男女の関係性を描いているのじゃないかと。

 

この小説に出てくる男女の関係性を考えてみる。カンガルー日和を読んでみた印象から、この男女は付き合っているが結婚はしていないという風に感じた。2人のあいだに距離感というか、すれ違いがあるように感じるのだ。カンガルーの赤ちゃんに固執する女とそれを理解できない男。男と女は分かりあえないという諦念を感じた。

 

カンガルーの赤ちゃんは女の妊娠願望のメタファーではないかと、高校生の時の同級生は授業中に言っていた。でも僕にはそう解釈できなかった。妊娠願望というよりかは、強い関係性の希求-守る守られる関係性のカンガルー-を表しているのじゃないか。結婚するかしないか瀬戸際の男女の話しに思えた。カンガルーの赤ちゃん(結婚)にこだわる女と、それがよく理解できない男。結婚を巡る水面下のやり取りが描かれているように思えた。彼女がゼクシィで彼氏にプレッシャーをかける的なやつだ。こじつけすぎかもしれないが。いつかこの小説を理解できる日が来るのかな。

 

栞の一行

しかし何はともあれ、カンガルーを見るための朝はやってきた。

 

 

関連記事(『カンガルー日和』に収録されている他の短編について)

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現代人の繋がりの薄さ / 「闖入者」 安部 公房

 僕の1番好きな作家、安部公房の短編小説「闖入者」について書こうと思う。「闖入者」は『水中都市・デンドロカカリヤ』に収録されている短編だ。世にも奇妙な物語にありそうな、薄気味悪い小説である。民主主義で広く信じられている「多数決」という制度の暴力性を表現した小説だ。

 

 

「闖入者」はこんな話だ。

ある男の部屋に見知らぬ家族が押しかけてきて、民主主義の名の下に多数決で「民主的」に男の部屋を占拠していく。「闖入者」という名の通り、ある日見知らぬ家族が自分の家に押し寄せてくるという話だ。

知らない人が家に押しかけてしかも家を占拠してしまうのだから、主人公は色んな人に訴える。しかし、大家や警察も真面目に取り合ってくれない。昔に比べると、都市部の一人暮らしなんて隣人との繋がりが殆どない。隣にどんな人が住んでいるのかわからないこともよくあることだろう。その繋がりの薄さから、隣人同士の助け合いは望めない。共同体という概念がなくなった都市での生活で、自分のテリトリーが見知らぬ他者に蝕まれていく様子が巧みな描写で描かれている。闖入者たちは「民主主義」の名の下に侵略を進めていくのだ。

 

 

この「闖入者」という作品は帝国主義時代の侵略のメタファーとして解釈することもできるのではないかと思っている。見知らぬ家族が数にものを言わせて民主主義を押し付けていく様子は、「近代化」を口実に侵略をする植民地主義時代の先進国を思わせる。帝国主義の先進国とは理不尽な要求を突きつける「闖入者」そのものだったと考えさせられた。

 

 常識的に考えて起こらないことが普段なんとも思わないような日常や常識が、いとも簡単に壊れてしまうというのは本当に怖い。日常を非日常に変えてしまう安部公房の小説はとてもスリルがある。安部公房の小説は、常識や日常がいかに脆弱であるかを教えてくれる。

 

 

「闖入者」が元になって『棒になった男』という戯曲が生まれている

友達・棒になった男 (新潮文庫)

友達・棒になった男 (新潮文庫)

 

 ちなみにこの「闖入者」が元になって安部公房の代表的な戯曲『友達』(谷崎潤一郎賞受賞作)が生まれている。『友達』は安部公房の傑作戯曲と言われている。

テーマとプロットは異なっていて、「他人とはなにか、連帯とはなにか」ということをテーマにした戯曲だ。

 

 

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伊坂幸太郎と映画

ミステリーや純文学、さまざまジャンルを越境して最高に面白い小説を書く作家、伊坂幸太郎。今日本でもっとも読まれている作家の一人ではないだろうか。

 

伊坂幸太郎の作品には有名な映画や映画監督がよく登場する。伊坂幸太郎は映画からの影響を大きく受けているのではないかと思っている。伊坂幸太郎自身も映画好きを公言している。

 

そんな伊坂幸太郎と伊坂作品に登場する映画や映画監督について書こうと思う。

 

 

スタンリー・キューブリック

2001年宇宙の旅 (字幕版)

伊坂作品によくでてくる映画監督を挙げるならまずスタンリー・キューブリックの名前が上がる。スタンリー・キューブリックは『時計じかけのオレンジ』や『フルメタル・ジャケット』、『シャイニング』、『2001年宇宙の旅』で知られる映画監督だ。スタイリッシュな映像と芸術的な作品は多くの人を魅了した。また、キューブリックも時系列を捻れさせた『現金に体を張れ』という作品を作っている。

特に、『2001年宇宙の旅』は歴史に残るSF映画の金字塔として有名だ。昔の映画とは思えないほどの映像美、AIの反乱という未来を先取りしたモチーフなどこの作品の魅力は多くある。

伊坂作品では『陽気なギャングが地球を回す』や『ラッシュライフ』でスタンリー・キューブリックが言及されていた。『陽気なギャングが地球を回す』では、『2001年宇宙の旅』が言及されていた。

 

 

ジャン=リュック・ゴダール

気狂いピエロ

気狂いピエロ

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ジャン=リュック・ゴダールも伊坂作品によく登場する映画監督だ。ゴダールはフランス映画における映画運動・ヌーヴェルヴァーグを代表する監督で、有名な作品に『勝手にしやがれ』『気狂いピエロ』、『小さな兵隊』、『中国女』、『ゴダールのマリア』などがある。

とにかく伊坂作品にはゴダールがでてくる。『重力ピエロ』はタイトルが『気狂いピエロ』に近いし、作中でもゴダールが言及されている。

『陽気なギャング』の章のはじめに書いてある辞書の定義に出てくる「写真が真実なら、映画は毎秒24倍真実だ」という言葉もゴダールの『小さな兵隊』からの引用だ。

 

小さな兵隊 [Blu-ray]

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ゴダールの『小さな兵隊』には、「悲しみを忘れなければならない。僕にはまだ残された時間があった」という印象的なセリフがある。伊坂作品の中でこのセリフがモチーフとなっているのが『全部残りバケーション』だ。このタイトルは『小さな兵隊』の中で主人公・ブリュノが拷問を受けているときにバケーションのことを考えたことに由来している。この小説では小さな兵隊が章のタイトルにもなっている。

伊坂作品にはゴダールがよく出てくるけど、大半の場合、ゴダールは退屈と説明されていて、もうちょっと持ち上げてもいいんじゃないかなと思う。

 

 

クエンティン・タランティーノ

直接小説に映画や監督の名前が出てくる訳ではないけれど、伊坂幸太郎の小説ってクエンティン・タランティーノの映画と雰囲気が似ているように感じる。登場人物の洒脱な会話、ポップカルチャーの引用、構成の巧みさの部分に通じるものがある。

他の共通点としては作品間のリンクがある。タランティーノの映画でレッドアップルというタバコはよく出てくるアイテムだし、別作品の登場人物に隠された関係があるというのはお馴染みである。伊坂作品でもリンクがよく見られる(ほとんどの作品にある)。有名なのをあげると、『ラッシュライフ』の黒澤は『重力ピエロ』にも出てきている。

 

作品ごとに見ていくと、伊坂の陽気なギャングシリーズ(『陽気なギャングが地球を回す』、『陽気なギャングの日常と襲撃』、『陽気なギャングは三つ数えろ』)とタランティーノの『レザボア・ドッグス』は雰囲気が似ている。

『レザボア・ドッグス』は、素性の分からない男たちが集まり、強盗をするも失敗していまい、裏切り者を探すというあらすじである。あらすじを見る限り、論理的に犯人を探しだすミステリーと思うのだが、実際は映画の大半が雑談に費やされている。最初にこの映画を観たとき、「こんな映画もありなんだ」と思ったものだ。

陽気なギャングシリーズも、登場人物の饒舌な会話が魅力の小説である。響野なんてずっと喋っているイメージ。あと、陽気なギャングの背広で銀行強盗するのは、『レザボア・ドッグス』のオマージュなんじゃないかなと思う。背広で強盗というセンス。痺れる。

 

あと、『ラッシュライフ』は『パルプフィクション』と似たものを感じる。両作とも構成が巧みな群像劇である。時系列が複雑になっているところにも共通点がある。

『ラッシュライフ』で最初にラッシュの辞書的意味を載せているのは、『パルプフィクション』のオープニングのオマージュなんだろうかな。

 

伊坂作品と映画を関連させていくと、解釈が深まって非常に面白い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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スパゲティーに込められた孤独 / 「スパゲティーの年に 」 村上 春樹

 

村上春樹といえば何かとスパゲティーを茹でがちだが(アルデンテが多い)、スパゲティーそのものを題材にした短編がある。それが「スパゲティーの年に」だ。「スパゲティーの年に」は『カンガルー日和』に収録されている村上春樹の短編で、ショートショートに近い作品だが、短い中にも村上春樹特有の比喩や表現が詰まっている。

 
主人公の僕が1971年にスパゲティーを茹で続けるというあらすじ。そう、1971年がスパゲティーの年。「僕」は春、夏、秋と1人でスパゲティーを茹で続ける。スパゲティーは1人で食べるべき料理と「僕」が述べているように、この作品ではスパゲティーが孤独や隠遁と深く結びついているイメージを受ける。「僕」は誰かが訪ねてくる可能性を感じるが、誰も訪れない。知り合いの女から電話がかかってきても、ドタバタに巻き込まれたくないから断っている。人と深く関わらない現代人とその孤独を描いているのか。この主人公の他者との距離感が都市の孤独に繋がっているのだろか。村上春樹は他者との距離感を描くのが凄く巧みな作家だと思う。
 
 

村上春樹的にスパゲティーを茹でるには?

スパゲティーをゆでているときに、電話がかかってきた。僕はFM放送にあわせてロッシーニの 『泥棒かささぎ』の序曲を口笛で吹いていた。スパゲティーをゆでるにはまずうってつけの音楽だった。

「スパゲティーの年に」以外でスパゲティーが印象的な村上春樹の小説は『ねじまき鳥クロニクル』だ。ねじまき鳥の主人公は無職で、「スパゲティーの年に」の主人公に近いものを感じる。『ねじまき鳥クロニクル』でもスパゲティーが孤独のメタファーとして使われているように感じた。

ねじまき鳥クロニクル』の冒頭では、印象的にスパゲティーが茹でられている。その茹で方というのはロッシーニの「泥棒かささぎ」を聴きながら茹でるというものだ。ロッシーニの「泥棒かささぎ」序曲はちょうど10分ぐらいだ。

なので村上春樹的にスパゲティーを茹でたい時には、泥棒かささぎを聴きながら茹でるのが良さそうだ。いい感じのアルデンテになりそうだ。

 
 
 
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